2005年06月29日

みなさ〜ん、もうすぐ「毛沢東ブーム」がやってきますよ!

中国がとても騒がしい。最近、中国関連の事件を追っていない方のためにまとめると、こんな感じ。

★オーストラリアで中国政府の情報担当者が次々と亡命
  CNN:亡命求める中国外交官、「豪州にスパイ1000人」(2005/6/6)
★中国のネットワーク検閲に、マイクロソフトも協力していることが判明
  産経:米MS、中国でブログ検閲に協力、「自由」「民主主義」など禁止(2005/6/14)
★北京に近い河北省で、武装集団が発電所建設反対の住民を襲撃、殺害
  中国という隣人:ついに映像まで流れた暴動(2005/6/17)
★ついに、日本人学校の教科書まで検閲、没収!
  産経:中国・大連 日本人学校の教材没収、「台湾」「尖閣」記述を問題視(2005/6/28)
★中国人留学生が「『ヒロさん日記』は日中友好を阻害している」と非難!
  ヒロさん日記:中国のトイレ文化から学ぶもの (コメント欄)
★ついに都市型の1万人暴動が発生!
  日々是チナヲチ:来ました都市暴動!「失地農民」の都市版も(2005/6/28)

上記の「日々是チナヲチ」のコメント欄からの情報によると、中国共産党は『Far Eastern Economic Review』誌の2005年6月号を発禁処分にしたらしい。『Mao: The Unknown History』(毛沢東の知られざる生涯)の書評が発禁の理由だ。どれどれ、と冒頭の部分をまとめてみると、

Far Eastern Economic Review誌 (2005年6月)のブックレビュー
 2年前のこと、ハーバード大学で「毛沢東コンファレンス」が開催された。北京大学の教授(Yue Daiyun)や、毛沢東の秘書(Li Rui)、毛沢東研究の権威(Stuart Schram)、『Mao: A Life』の著者(Philip Short)『The Origins of the Cultural Revolution』3巻本を著わしたハーバード大の教授(Roderick MacFarquhar)など、研究者が多数出席した。
 このコンファレンスで提起されたさまざまな疑問・謎をことごとく解明したのが『Mao: The Unknown History』である・・・・。

という話の書評である。日本人学校の教科書を没収したのは、対日強硬派のちょっとした嫌がらせであろうが、「毛沢東」がらみの発禁は、かなり必死のご様子。毛沢東の神話づくりに貢献した本といえば『中国の赤い星』(エドガー・スノー)という本があるが、この本は、まあ、例えて言えば、「朝日新聞」の中国特集記事を1冊にまとめたようなもの。ウソと捏造がどんどん剥げ落ちていますな〜。

◆ソース同上
There are also details that are true scoops. One such is the debunking of perhaps the most heroic episode of the Long March, the hand-over-hand scramble through flames across the bridge over the Dadu river, which permitted the Reds to escape to safety from Chiang Kai-shek. The world learned of this from Red Star Over China, the now much-discredited story that Mao planted on Edgar Snow. “This is a complete invention,” say Ms. Chang and Mr. Halliday. “There was no battle at the Dadu Bridge.” The documentation, including contemporary witnesses, is wholly convincing. Their conclusion, which will astonish most China specialists, is that Chiang Kai-shek, who they claim wanted the Communist army to survive and clear warlords from the areas they conquered, “had left the passage open for the Reds.”

簡単にいうと、1934〜36年、共産党軍は国民党軍から逃れるために大移動(長征:Long March)を行ったが、英雄譚として有名な「大渡河(Dadu River)」における勇敢な戦い(=瀘定橋の奪取作戦)は、すべて捏造でいっさい存在しないというお話。この辺の詳細は、太田述正コラム(2005/6/6)に詳しいので、興味のある方はどうぞ。

『Mao: The Unknown History』の原書を読んでみると、農民を虫けらのように殺しまくり、側近を次々に破滅させていく「狂人」「殺人鬼」としての毛沢東が明らかにされている。

  • 「自由・平等・博愛」は「反マルクス主義」である。「自分がされてイヤなことを人にはするな」という中国の伝統は無視せよ。「自分がされてイヤなことを丹念に人にやってあげる」のが私の信条だ。(p460)
  • 共産党の政策によって人が死ぬのは大いに歓迎だ。孔子が生きていたら、悲惨なことだ。荘子は妻が死んだときに、歩きながら歌を歌った。人が死ぬのは祝福すべきことだ。(p457)
  • 幼稚園で死ぬ子供もいる。老人ホームで死ぬ老人もいる。もし「死」がないとすれば、人間は存在できない。孔子の時代から今日に至るまで、もし人間が死なないとすれば、悲惨である。(p462)

    毛沢東の語録には「孔子」がたびたび登場する。文化大革命の後期には「批林批孔」(林彪を批判し、孔子を批判する)というスローガンも登場する。

    ニュースな史点:孔子大学設立(2000/12/3)
     この文化大革命の無茶苦茶さは今でも語りぐさであるが、とにかく「古いものはなんでも否定しろ」という空気があった。その流れで孔子や儒教に対する激しい攻撃が行われたわけだが、実はそんな理由ばかりではなかった。<中略>
     そして「四人組」が次に仕掛けたのは「批林批孔」なる運動だった。林彪を批判し、孔子を批判するという運動があの紅衛兵を利用して行われた。ここでなんで孔子が出てくるのか。
     このあたり実に中国的な謎解きをしなければならない。教科書でも定番で説明される通り孔子は古代の「周」の制度を理想とした。この事を頭に浮かべるとクイズが解けてくる。当時「四人組」が最大の敵とみなしていたのが、中国において毛沢東に次ぐ地位を占めていた政治家・周恩来である。孔子を批判することは暗に「周」恩来を批判することだったのだ。しかしまぁこんな回りくどい連想をさせるあたりが中国政治である(笑)。

    孔子批判と見せかけながら、周恩来のふるい落としを狙うという、恫喝・煽動・嫌がらせの天才!

    英語圏で毛沢東が大々的に再デビューしてくれたおかげで、「ヒロヒトの悪行」も霞んでみえます。もし英語のフォーラム・掲示板で「ヒロヒト=ヒットラー」と書き込む輩がいたら、さりげなく毛沢東のことを教えてあげましょう。

  • 毛沢東=「ヒットラー」の3乗×「スターリン」の2乗
  • 現在の中国共産党は、8000万人を殺した殺人鬼の後継者ですが、何か?

  • この毛沢東の大肖像画だが、現在は天安門広場に1つ残るだけだという。この最後の肖像画が引き剥がされるとき、中国の夜明けが始まる。


    ■追加1:太田述正コラム(2005/6/6)から面白いところを追加
    ◆「長征」で8万人が4千人に(粛清で死んだ兵士が多数)
    長征は共産党軍の一般兵士にとっては過酷極まる行軍であり、だからこそ前述したように粛清とあいまって大部分が命を落としたのだ。しかし、毛沢東を初めとする共産党幹部達の中に、長征の過程で命を落とした者は一人もいない。それもそのはずだ。彼らは一般兵士に担がせた籠に乗って移動したからだ。

    ◆中国共産党の最大のタブー=「毛沢東は日本に感謝」
    毛沢東は、日本の諜報機関と密かに長期にわたって協力し、日本軍に国民党軍を叩かせた。だからこそ、中共が支那の権力を掌握した後、毛沢東は日本からの訪問者達に対し、仮に日支事変が起こっていなかったとしたら、まだ共産党は山奥を彷徨していただろう、と彼らに謝意を表明したのだ。

    ■追加2:1喝たぬき:毛沢東「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました」(2005/5/21)
    昭和39年に社会党佐々木更三委員長の謝罪に対した、毛沢東初代国家主席・中国共産党主席の言葉。「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。」(「毛沢東思想万歳」)

    ■追加3:中国共産党の恐るべき反日教育!(「アジアの真実」さんに教えていただきました)
    『Voice』2005年7月号:これが「反日」教育マニュアルだ
    表紙の写真をクリックすると、pdfファイルで全文読めます。

    ■追加4:文化大革命の関連記事
  • もの言えば唇寒し「ピーリン、ピーコン、ピッピッピッ」
  • 「バックル」と「陰陽頭」:毛沢東ファンクラブの学校劇
  • 文革速報ニュース:「五人組」の最後の1人、姚文元が死去
  • 中国全土版「バトルロワイヤル」:文化大革命と紅衛兵
  • posted by ヒロさん at 08:14 | Comment(7) | TrackBack(6) | 中国情勢☆毛沢東

    2005年06月27日

    ピアノは日本人として常識のたしなみ、ですか?

    イギリスの大学で「Music Night」、「Social Evening」、「Poetry and Music」のような発表会・交流会の企画がときどきある。音楽発表では、ギターと歌・コーラスが圧倒的に多い。学生の交流会なので、レベルはピンキリの玉石混交だが、不思議とピアニストがあまり登場しないので、ヘタクソの私がずうずうしくピアノを弾いたこともある。

    しかしキャンパスには、ピアノの名人がたくさんいる。名人のほとんどは日本人だ(ヒロさんは問題外の外)。4才からやってます、という人が2人もいる。日本人の中でも女性はピアノができて当たり前の感がある。キャンパスの日本人女性14人のうち、11人がピアノを習った経験がある。

    「耐久消費財・県別普及率」(1999年)によると、現在のピアノ普及率は全国平均で25.2%、4世帯に1台の割合だ。県別では、
    【普及率の高いトップ10】(高い順に)
     奈良、香川、大分、山梨、岡山、茨城、群馬、栃木、長野、滋賀
    【普及率の低いボトム10】(低い順に)
     沖縄、青森、鹿児島、宮崎、北海道、福岡、山形、長崎、岩手、高知
    となっている。

    トップは関西と関東の周辺県が多い、という感じだ。九州では大分が高くて、宮崎・鹿児島が低いのは、何か背景があるのでしょうか?

    「今、ド田舎がおもしろい」7:耐久消費財のステータス
     ピアノを持っている家庭というとどんなイメージをお持ちですか。ド田舎では小学生の女の子がいる家庭でピアノを持っていない家はほぼ皆無です。決して経済水準が高いからではないですよ。農業が長らく主産業で豪雪になやまされ高齢者世帯が急増しているこの地域で所得水準が高いわけはありません。少ないお金でも豊かな暮らしをする方法はいくらでもあるものですが。
     結局ここ(=新潟県高柳町)の子どもたちのピアノ普及率の高さは習い事の流行だからだと私は想像しています。男兄弟の家庭に生まれ育ち、今でも息子しかおらず、ピアノを真剣に買おうと思ったこともない私には詳しい状況はわかりかねます。それでも、中学の息子の同級生の女の子15人、その本人や親から聞くかぎり全員がピアノをもっているようです。

    日本のピアノ普及率は世界一。日本のピアノ人口の裾野は、女性を中心に遠大に広がっている。ヤマハとカワイの力は偉大なり! 裾野ばかりでなくて、プロのトップレベルでも日本人が活躍中。アメリカで最も有名な日本人は、大リーグのイチローと、ジャズピアニストの松井慶子だっていうじゃありませんか!(ホント?)

    ピアノを題材にした人気漫画も復活してますよ。2002年11月まで『ヤングマガジンアッパーズ』に連載されていて、中断となった『ピアノの森』が、2005年4月から『週刊モーニング』に復活中。日本にいるときに私も単行本で途中まで読みました。懐かしいな〜。簡単なあらすじはこちらでどうぞ

    前回記事のコメントで「無頼の徒」さんから、練習曲「ハノン」のお薦めがありましたが、最近は「ピシュナ」の方が定評が高いとか。私も検討しよっと。

    いま、以下の2つのサイトを読んでます。奥が深いです、ピアノは・・・・。
  • ピアノが上手になる・超簡単ヒント集
  • 大人から始めるピアノ奮闘記


    ■追加1:ピアノを題材にしたマンガ
  • 「ピアノの森」一色まこと(1〜9巻)講談社・週刊モーニングにて連載中
  • On Off and Beyond:のだめカンタービレ(2005/6/12)

    ■追加2:子供にこんな残虐なピアノ曲を練習させても、いいのでしょうか・・・
    ピアニストを目指した頃:あれから8年
     バイエルが終わった頃、最初に課題曲として渡されたのは全音ピアノピースの「ウォーテルローの戦い」という曲だった。先生からは何度も「気持ちを込めて」とか「情景を思い浮かべながら」とか言われたのだが、今から思えば小学生に戦争や軍隊のなんたるかがわかるはずがない。
     今だってたいしたことを知っているわけではないが、フランス革命がどういうもので、ナポレオンがどういう人か、一応は知っている。戦争のなんたるかも、それなりに思うところがある。小学生の時にまともに弾けなかったこの曲を、今だったら感情豊かに弾けるような気がするのだけれど。

    私も「軍艦マーチ」をピアノで弾きたくなってきた・・・。子供に演奏させてはいけない不謹慎な曲がほかにありましたら、教えてください。
  • posted by ヒロさん at 08:21 | Comment(11) | TrackBack(0) | ピアノが好きなの♪

    2005年06月25日

    好きな歌と音楽で「素性」がわかるプロファイリング

    ネット上で「Musical Baton」なるものがはやっているらしい。「ヒロさん日記」にも3本もTBが飛んできている。この企画で気に入らないのは、「取りまとめ役」も「最初の発信者」も見えず、受け取ったら、さらに5人にTBを出すという「スパム増殖型」であること。これは陰謀工作に違いない!

    1.重大な時事問題から目をそらさせるための工作
    2.音楽業界によるネットマーケティング調査
    3.特定ブログを破壊するための手法を探る、音楽プロファイリング

    ということで、そうは問屋は卸さないぞ! でも、まあ、週末なので、「半分だけ」企画に乗ることにする。「社怪人日記」で「無人島に持っていく10枚のCD」企画もやっているので、こちらにも半分乗ることにする。

    無人島に行って、カラオケに呼ばれたら、歌いたい曲。ベスト10はたぶんこんな感じ。

    ■カラオケで歌いたいベスト10曲
     1.中島みゆき 「命の別名」
     2.大黒摩季 「君に愛されるそのために」
     3.村下孝蔵 「春雨」
     4.久保田早紀 「異邦人」
     5.鈴木雅之 「もう涙はいらない」
     6.小比類巻かおる 「Hold On Me」
     7.郷ひろみ 「あなたがいたから僕がいた」
     8.スピッツ 「渚」
     9.レベッカ 「フレンズ」
    10.Every Little Thing 「Time Goes By」

    無人島で弾きたいピアノの曲も考えてみた。(「無人島にピアノがあるんですか!」と突っ込む杉井奈美子のような人は、逝ってよし) というか、ピアノは初心者でレパートリーが少ないので、弾ける曲は、以下の10曲ぐらいしかないんですわ。

    ■ピアノで弾きたいベスト10曲
     1.バッハ 「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ト長調 チェンバロ・ソロ」(BMW1019)
     2.Scott Joplin 「Magnetic Rag」
     3.Bart Haward 「Fly Me to the Moon」
     4.Vernon Duke 「Autumn in New York」
     5.ガブリエル・マリー 「金婚式」
     6.シューベルト 「楽興の時」(Op.94, No3)
     7.リヒナー 「忘れな草」
     8.Yann Tiersen 「l'apres-midi (映画『アメリ』のピアノ曲)」
     9.ワルトトイフェル 「スケーターズ・ワルツ」
    10.竹内まりあ 「駅」

    実は、この年になってピアノに凝っている。ピアノを始めてから3年目。最初は、竹内まりあの「駅」を半年ぐらいチマチマ弾いていたが、リヒナーの「忘れな草」でハマッてしまい、バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのソナタ」を暗譜で弾きこなしているうちに、何とか軌道に乗っている。去年の秋より、先生についている。

    バイエル、ブルックミュラー、ハノンなどの練習曲はいっさいやらない主義。CDなどで惚れ込んだ曲で、楽譜が見つかったら、「この曲は1000回弾きたいと思うか」と自問自答して、ゴーサインが出たら、暗譜でコツコツ練習する。人生、先が短いので、たいして好きでもない「練習曲」なんて、やってられません。


    ■追加1:無人島で「サヨ」「ウヨ」が聴く&歌うベスト3を考えてチョウダイ!
    「サヨ」の例・・・・「めざせモスクワ」、「もののけ姫」、RCサクセション「カバーズ」
    「ウヨ」の例・・・・「宇宙戦艦ヤマト」、「軍艦マーチ(替え歌版)」、「靴が鳴る」

    ■追加2:今聴いているCD
    Chopin Nocturnes/4 Ballades (Vladimir Ashkenazy)

    ■追加3:「ミュージカル・バトン」というスパムの発信源
    絵文録ことのは:Musical Baton ミュージカル・バトン!
    posted by ヒロさん at 06:20 | Comment(19) | TrackBack(0) | ♪音楽たのしいなぁ

    2005年06月23日

    毛沢東シナチズム:8000万人の犠牲も「愛国無罪」

    石原都知事の「三国人」を批判する人たちは、なぜか中国の「白髪三千丈」発言は素通りである。「『髪』は長〜い友だち」というテレビCMのごとく、お隣りの中国は誇張が大好きである。中国では「三」という数字のつくデータは、ほとんどデタラメの言葉遊びだ、という説がある。

    白髪三千丈の中国主張数字
     これは「南京事件の探求・・・その実像を求めて」 (北村稔 文春新書)で紹介された話。
     1999年の「日本新華僑報」第22号の「華人争鳴」欄に掲載された「虚言で国に報いる」という文。近代に入り中国人の心性には国を愛する余りの(愛国心を鼓舞する)誇張表現である「愛国虚言」が出現したと言う。国への愛が深ければ深いほど、また国の敵への恨みが深ければ深いほど、虚言の規模は大きくなる。
  • 蒋介石が終戦時発表した抗日戦の中国側死傷者数は438万人だった。<中略>現在は3500万・・・。
  • 「南京事件」で殺された人数が30万人であったなど多くの中国人は心の中では半信半疑であるが、しかし敢えて口にしないのである。
  • 一番有名なのが満州最大の炭坑であった撫順炭坑の30ヵ所30万人の遺体が埋められているというもの。
  • 本多勝一の記述はその後の中国の言い分を鵜呑みにし、全村民3000人を殺害となっている。

  • 「白髪三千丈」は国を思えばこその愛国表現なのだ。この「愛国虚言」にくわえて、最近では「愛国無罪」のほうも有名になっている。

    造反有理と愛国無罪
     最近、中国の反日デモに関連して「愛国無罪」という言葉が使われる。「大使館に投石したり、日系企業を襲撃して店を壊したりしているが、それは全部愛国心から出た行動であって、罪に問われるべきではない」という意味で用いられているようだ。歴史的には、1930年代に中国の民族主義運動の活動家が使った言葉らしい。<中略>
     「反日愛国」を叫ぶ様子は、文化大革命当時に紅衛兵が叫んだ「造反有理」という言葉を思い出させる。造反有理とは「反逆には理由がある」という意味だ。<中略>
     毛沢東という公然と批判できない後ろ盾を得たことで、紅衛兵たちは法を無視して乱暴狼藉の限りを尽くした。今日、チベット自治区の仏教寺院を訪れると、仏像が無残に破壊されているのを目にすることになる。あれは文化大革命当時に紅衛兵たちがやったものだ。

    「愛」はすべてを超越する。「愛」さえあれば、7000万人を殺しても、咎められることはない。

    太田述正コラム:厳しく再評価される毛沢東(その2)(2005/6/6)
     毛沢東はヒットラーやスターリンに匹敵する悪党であり、この2人以上の惨害を人類にもたらした。にもかからわず、世界はこの人物について余りにも無知であり続けた。
     毛沢東伝説をつくったのは、毛沢東にインタビューしてそのほら話を額面通り信じたエドガー・スノー(Edgar Snow)だ。彼が1963年に上梓した毛沢東の半生の伝記である「中国の赤い星(Red Star Over China)」の内容は殆どがウソであり、スノーの責任は大きい。
     毛沢東が支那の最高権力者であった27年間に彼のために命を落とした人は少なく見積もっても7,000万人をくだらない。しかも、この数字には朝鮮戦争における人民解放軍がらみの死者を含まない。平時において7,000万人を殺すなど、人類史上空前のことだ。

    「少なく見積もっても7000万人」という表現は、誇張に聞こえるだろうか? 1994年7月17日の『ワシントン・ポスト』紙の記事、「Mass death in Mao's China」では、すでに8000万人という数字が紹介されている。

    本多勝一研究会重要文献解題:Mass death in Mao's China
    "While most scholars are reluctant to estimate a total number of "unnatural deaths" in China under Mao, evidence shows he was in some way responsible for at least 40 million and perhaps 80 millions or more. This includes deaths he was directly responsible for and deaths resulting from disastrous policies he refused to change."

    【訳】大半の研究者は、毛沢東の中国でおきた「非自然死」の推定総数を出すことを渋っているが、少なく見積もっても4000万人、おそらくは8000万人以上とする証拠がある。この死者数には、毛沢東がこだわった破壊的政策(=大躍進政策)による犠牲者も含まれる。

    "... An even higher figure - 43 million - is now gaining some academic currency. Chen Yizi; a former Chinese official now at Princeton University's Center for Modern China, spent years researching the subject in China. He conduced a county-by-county review of deaths in five provinces and, by extrapolation, arrived at 43 million. A research center in Shanghai recently reached the same figure for the number of famine deaths."

    【訳】(「大躍進」の餓死者数に関しては)従来の推計を上回る「4300万人」という数字が学界で台頭しつつある。もと中国政府高官で現在プリンストン大学の現代中国センターで働くChen Yizi氏は、長年にわたりこの問題を研究してきた。彼は、5つの省で各郡の死者数を調べ、推計で4300万人という数字をはじき出した。上海の研究所も、同様の結論に達している。

    餓死者数に関しては、今月出版された『Mao:The Unknown History』の中でも、「毛沢東のNo2だった劉少奇自身が、ソ連のチェルフォネンコ大使に、飢饉の半ばにして『3000万人が餓死した』と語った」ことを明らかにしている。(同書p457)

    イギリスでいち早く出版された『Mao:The Unknown History』だが、世界中で1000万部以上のベストセラーになった『ワイルドスワン』の著者Jung Chang(中国名:張戎 zhang1 rong2)と、その夫Jon Hallidayによる共著だ。

    彼らは、『ワイルドスワン』の印税を元手に、10年をかけて、ロシア語に堪能なJon Hallidayが冷戦後にロシアで解禁された中国関係公文書を担当、Jung Changは中共関係者へのインタビューを担当するといった分業を行った。参考文献は1000冊以上、インタビューは38カ国で350人以上にのぼる。参考:Scotsman.com:Tyrant of the people(2005/5/28)

    4000万人の「餓死」というと、失政による偶発的なものと思うかもしれない。だが、毛沢東の「大躍進」も愛国無罪の文学的表現だ。「大躍進」の実態は、ソ連から「原子力潜水艦200基」を購入することを夢見ながら、5年間でイギリスの鉄鋼生産量を追い抜かんとする、狂気の工業化・軍事増強政策であり、「人民公社」の名を借りた、農村破壊の強制労働システムだったのだ。


    ■追加1:飢饉は人災かつ政治問題であり、世界各地の大飢饉はメディアの自由がない全体主義的な国家で起こっている。
    飢饉、疫病、戦争(2005/2/19)
    1958-1961 中国(大躍進) 4000万人
    1907 中国 2400万人
    1936 中国 500万人
    1921-1922 ソ連(ウクライナ、ボルガ) 500万人
    1941 中国旱魃 300万人
    1928-1930 中国 300万人
    1900 インド旱魃 300万人
    1943 インド(ベンガル) 150〜300万人
    1965-1967 インド旱魃 150万人
    1995-1998 北朝鮮 120万人
    1846-1849 アイルランド(じゃがいも飢饉) 110万人
    1984 エチオピア 100万人
    1944 オランダ 8万人

    ■追加2:8000万人の死は「学費」である
    大紀元:中国の教科書改ざんは、日本よりもはなはだしい(2005/4/27)
    中国共産党は今日まで、数千万もの中国人を死なせたことについて、一度たりとも謝罪していない。中国政府の一貫した見解によると、中国共産党が人民にもたらした多大な苦難とは、“前進中の錯誤”であり、“社会主義の建設を探索するための学費である”としている。

    ■追加3:「素直に自己批判」して、あとは水に流そう
    学校教科書に学ぶ農業生産高
     1962年初め、党は7000人委員会を開き、毛沢東は大躍進の誤りをその場で認め自己批判した。この素直な自己批判が全国人民を鼓舞し、それ以降生産は回復発展した、と教科書に書かれています。
     歴史上希に見る大量死と言われるこの失策に対し、7000人委員会を開いて「ごめん」というだけで許されるものでしょうか。

    ■追加4:中国の広報宣伝マン、エドガー・スノー
    松岡正剛の千夜千冊:『中国の赤い星』上・下
    posted by ヒロさん at 07:49 | Comment(9) | TrackBack(2) | 中国情勢☆毛沢東

    2005年06月21日

    日本陸軍と森鴎外:海軍兵食の教訓を生かせなかった悲劇

    日本からドッサリと持ってきた梅干が、ついに切れてしまった。なければ生きていけない、というほどの思い入れはないが、夏の暑いとき、おにぎりに梅干のかけらが一切れ入っていたりすると食欲が増す。

    最近は子供のお弁当に梅干は入っているのだろうか。「日の丸弁当」なんて作って持たせると、左巻きの先生から嫌がらせを受けたりしないのか、ちょっと心配である。(左巻きの圧力で、いまだに運動会で「軍艦マーチ」が使えないという話ですから。) で、戦時中の食事はというと・・・。

    太平洋戦争と国民生活、ある日のメニュー
     1944〜45年ごろの、一般庶民の1日の食生活を森輝『風は過行くー私の戦中ノートー』によって、再現してみよう。
  • 朝:ご飯(どんぶり0.7杯、玄米・ジャガ芋入り)、薄いみそ汁、薩摩芋のつるの油いため
  • 昼:ふかし芋に塩少々、いった大豆かすにしょう油少々
  • おやつ:南瓜(薄い塩味)、乾燥バナナ
  • 夜:雑炊(玄米・みそ・大根の葉入り)、すけそうだらの塩焼き、ひじきの煮付け
     小学校のお弁当もずいぶんかわり、40年ごろになると、日の丸弁当というのがすすめられたが、それは、1ヶ月に1回の特別な日だけの話だった。
     しかし、44〜45年ごろになると、白いご飯そのものが「銀シャリ」と呼ばれるようになり、夢にまでみる、理想の食べ物になった。「今日は卵ご飯だよ。」と言えば、とうもろこしを砕いて混ぜたご飯で、「今日はお赤飯だよ。」と言うと、赤い高粱(穀物)を混ぜたご飯と言うようになった。

  • 戦時中は、主食の量を増やすために、いろんな穀物・芋・豆類で「混ぜご飯」が作られたので、「銀シャリ」はめったに食べられない。しかし、この「銀シャリ」に飛びついた結果、日本は不幸に見舞われているのだ。

    長府雑記帳:明治の日本を襲った死の病
     脚気は今でこそビタミンB1の不足により起こる病気ということは良く知られていますが、明治の頃は主に白米を主食とするアジアの病気で欧米ではほとんど見られないので伝染病のように考えられていました。
     日本では食生活が向上し白米を食べだした江戸時代に出現し「江戸わずらい」と呼ばれていました。明治になると患者数は急激に増加し明治10年には明治天皇もこの病気に苦しみました。

    子供の頃に「脚気(かっけ)」という言葉は聞いたことがある。膝蓋腱反射といって、膝ガシラをポンと叩いて、足先が動けば大丈夫、みたいな話だった。膝が悪くなる病気なのか、へぇ〜、と思いつつ月日が流れてしまったのだが、ネットで調べてみると、なんと、死人がバンバン出ている病気じゃありませんか!

    麦と水兵:海軍滅亡の危機
     明治11年の時点で海軍の総人員は4528名。うち脚気患者1485名、脚気による死者32名。基本的に軍隊は検査に合格した壮丁が集まる集団ですから、羅病率32%、死亡率0.7%などという数字は尋常のものではありません。<中略>
     また、明治15年末より『龍驤』が行なったニュージーランド・南米方面への遠洋航海では、10ヶ月間の航海で乗員371名のうち160名が脚気を発症、うち25名が死亡するという事態も発生しました。

    なんだとー! ニュージーランド・南米航海では、発病率は160÷371=43%、死亡率は25÷371=7%ですよ! おっとろし〜。長期で船に乗るのは命懸けじゃないですか!!(ピースボートもそうだ、ムニャムニャ.....)

    そこに救世主が登場した。海軍の軍医総監、高木兼寛だ。

    老いを生きる(講演要旨):脚気の原因は白米に関係
     海軍に劇的な変化が起きていた。海軍の一番のトップである軍医総監のタカギカネヒロという人がこれは白米に関係があるのではないかと考えたんです。白米の食べすぎだろうと。「何とか白米を止めさせろ」ということを一生懸命努力いたしました。そのために実験をしたい。船を航海に出して乗っている水兵の食事を変えて脚気がそれでなくなるかどうか実験をしたいと考えたわけです。ところが海軍省は予算がない。当時の海軍省の年間予算が300万程度。一航海6万円いるのです。とても海軍は支出できない。政府もこれに同意を致しませんでした。
     ところがたまたまタカギ総監が御進行にまいりました明治天皇がその話を聞きまして「自分が出そう」と言いました。6万円を明治天皇が出しました。実は明治天皇は脚気でございます。皇后も脚気でございました。寺内陸軍大臣も実は脚気でした。6万円というのは今のカネにすると20億円という大変大きな額です。「つくば」という軍艦に373名の水兵を乗せて287日間の航海に出ました。一切米の飯を船に乗せませんでした。パンとビスケットを食べさせました。軍隊の食事というのは副食が貧しかったのですが、ふんだんに肉、魚、野菜、果物を供給いたしました。その結果、1人も脚気の死亡者が出ませんでした。

    実験航海の20億円は、明治天皇のポケットマネーから出たというのは本当か、それとも美談か? 食べ物に不自由のない明治天皇まで脚気に悩んでいるのはなぜ? いずれにしても、軍艦『筑波』は明治17年(1884年)2月に出航し、多数の死者を出した『龍驤』と全く同じ航路を取り、死者を1人も出さずに帰還に成功した。このとき高木兼寛は辞表を懐にしていたという。いよ! 男の中の男! おみごと!

    この偉大な実験航海によって、脚気の原因は究明され、万事解決したかのように思われた。ところがである!

    陸海軍における脚気の問題
     こうして明治27年の日清戦争を迎えた。高木が指導した海軍では麦飯を採用し、脚気患者は1人も発生しなかった。これに対して陸軍では食糧を陸軍省医務局が一元管理し、全部隊に白米を支給した。その結果、戦死者453名に対して脚気による死者4064名を出した。陸軍の病院では入院患者のうち戦傷者1名に対して脚気患者11名以上というありさまだった。
     戦後半年ほどして、福沢諭吉発行の「時事新報」に海軍軍医の「兵食と疾病」という調査記事が掲載された。これは初めて公の場で行われた海軍からの陸軍非難であった。この記事をきっかけにその後も陸海軍の論争は続いたが、陸軍上層部は細菌説を採りつづけた。
     そのため10年後の日露戦争では陸軍の被害はさらに拡大した。戦死(即死)者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万7800余名にのぼった。当時の日本軍は突撃の際にも酒に酔っているようだったと言われており、それが脚気のためであり、原因が白米であることはロシア軍にも知られていた。実際には戦死者にも脚気患者が大量に含まれていると考えられる。
     陸軍は旅順、奉天陥落後の明治38年3月末、脚気対策として米麦7対3の混食奨励の訓令を出した。陸軍の公式記録では脚気患者数は25万人とされている。海軍の脚気患者は105名であった。

    日露戦争では5万人近くが戦闘で死亡しているが、驚くなかれ、これに加えて脚気によって3万人近くが死んでいるのだ。当時は「銀シャリ」信仰は強く、「兵隊さんになれば、白米を腹いっぱいに食える」がキャッチフレーズだった。それにしても、陸軍の融通の利かないやり方には怒りを覚える。海軍の実験は、一体何だったのか!

    鍋羊肉という名は昭和2年生まれか
     このように兵食の改善が遅れたのは、陸軍内部には「梅干主義」といわれる精神主義のような考え方が根強く伝わっていたからでした。梅干主義というのは、日清日露戦争など日本陸軍の過去の勝利は、すべて梅干しの入った握り飯を食べて戦ったからである。だから兵食の栄養価だとか美味いまずいなんかにこだわるず、何でも腹一杯食べればよいという考え方を指すのです。
     ですから、兵食を専門に作る兵隊は置かなくてもよいとして、炊事経験の有無を問わず当番制で飯炊きをさせたのです。そうなれば当然のことながら、材料を生かした献立になっていない、味付けがまずい、切り方が不揃いだといったことが、それこそ日常茶飯事になります。

    「銀シャリ」信仰に加えて、「梅干主義」という精神主義。日露戦争直後に「米麦7対3」は導入したとはいえ、その後も「兵食」に大した改善は見られず、過去の栄光(=日露戦争勝利)に酔いしれている。この問題で追及されて然るべきは、「脚気の原因は食物」が実証されてきたにもかかわらず、これを隠蔽し、どこまでも「細菌説」をとった人たちである。

    脚気と悪者森鴎外
     ここで登場するのが、悪役の森鴎外です。ドイツに留学中の森は、高木兼寛に反対する論文を送ってきました。これは、高木批判の大きな力となりました。さらに、帰国して一等軍医となった森は、脚気の原因は細菌であるという信念のもとに、徹底的に高木を攻撃しました。
     こうして、陸軍の中央では麦飯の導入には徹底して反対していました。ところが、実際に現地で兵を管理している地方の軍医たちにとって相変わらず脚気は脅威でした。そこで、独自に麦飯を取り入れ、大いに効果を上げて脚気の患者を減らしていました。
     しかし、戦争が起こると話は変わります。日本から離れた場所で行動する軍隊に後方から食料を送るのは中央の権限です。ここでも森鴎外は、頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しませんでした。その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。<中略>
     結局森鴎外は、陸軍軍医の最高位まで出世し、文豪としても名を馳せましたが、医学の歴史の中では、百害あって一利無し(無いわけではないと思うけど)という人物だったように思えます。

    ビタミンを最初に見つけた日本人、鈴木梅太郎
     梅太郎がオリザニンを発見したのは、その2年後(=明治43年)のこと。しかし林太郎(=森鴎外)は、古来からの日本人の主食である白米が栄養学的に問題があり、さらに脚気の原因であるという説を、日本文化を侮辱するものにほかならないと考え、梅太郎の研究を終始無視した。脚気に効カありとする梅太郎の報告を伝え聞いたある新聞記者に対し、林太郎は「そんなことはあるまい。イワシの頭も信心からの類だろう」と答えている。

    文豪・森鴎外のファンの方々には申し訳ないが、言わせていただきたい。森鴎外さん、あなたは医者としては最低だ!


    ■追加1:森鴎外に関する参考サイト
  • 森鴎外の仮面
  • 坂内正:『鴎外最大の悲劇』
  • 松岡正剛の千夜千冊:『阿部一族』(森鴎外)

    ■追加2:晩年の鴎外は「簡潔」を信条として、冷酷なほどに事実にこだわって、淡々と歴史的人物を書き続けた。晩年の作品の1つに『北条霞亭(上下)』(下巻は『霞亭生涯の末一年』)があるが、興味がある方は、リンクのWebテキストで「脚気」を検索してみるよとよい。医者たちは北条霞亭の病状を「脚気」として診断し、本人も「脚気」であると信じて死んでいくのだが、森鴎外は執拗なまでにこの「脚気」にこだわり、「彼の病状は脚気ではない」ことを証明せんとして筆を尽くしている。

    ■追加3:イギリス海軍は、ビタミンC不足の「壊血病」で悩んでいた
    船乗りを壊血病から救った英国海軍特製ライムジュース
     大航海時代の帆船による長期航海では、多くの乗組員が壊血病で倒れた。しかし、当時の医学知識では、これは防ぎようのない船乗りの宿命とあきらめるしかなかった。壊血病の原因が、単なる食糧不足によるものではなく、ビタミンCの欠乏によるものであることを発見したのは、スコットランドの医師ジェームズ・リンド。1747年になってからのことである。
     この発見を最初に生かしたのはキャプテン・クックだった。2度目の世界一周航海に出帆するとき、ライム果や塩漬け野菜などを十分に積み込ませ、その結果、壊血病による死者はたった1名に過ぎなかったという好成績を残した。
     このため英国海軍では、1795年以降、それまでのラム酒やワインに代え、乗組員にライムジュースを強制的に飲ませるようにしたところ、壊血病の悩みはほとんど解消されたという。それ以後、英国の軍艦や商船、またはその乗組員のことを「ライム・ジューサー」または「ライミー」と呼び習わすようになり、このニックネームは現在も使われている。

    ■追加4:日本の乗組員は「ニック・ジャガー」と呼ぼうか・・・
    肉じゃが誕生秘話
     そんな時、ある提督のわがままが良い結果をもたらした。その提督こそ、東郷平八郎海軍中将(当時)である。舞鶴鎮守府の初代鎮守府長官に着任した東郷提督は、イギリス留学時代に食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に「ビーフシチューをつくれ」と命じたのであった。
     ビーフシチュー等知らなかった料理長が、悪戦苦闘の課程でつくりあげたのが、『肉じゃが』だったのである。
     以後肉じゃがは、「洋食の代用食として効果的に牛肉を摂取させる事が出来る画期的料理」として海軍で大いにもてはやされる事となった。

    ■追加5:海軍カレー(横須賀)もお忘れなく
    カレーに宿る「グローバリズム」
     最初の張本人は東インド会社。インドより米とカレーを持ち帰り、英国内で大好評を博したという。さらに日持ちが良く食欲が増すカレーは、大英帝国海軍の軍隊食となって七つの海を渡った。エゲレスの水兵たちは、パンにカレーをつけて食していたそうだ。
     明治維新後の日本にも、まさに文明開化の味、ハイカラの象徴として渡来してきた。大日本帝国海軍も同じくカレーを軍隊食として採用。さすがにパンの味は親しめず、日本の主食である米飯にかけることで、「カレーライス」(またはライスカレー)の誕生を見るに至ったのである。

    海上自衛隊では今でも毎週金曜日はカレーで、横須賀市役所も金曜日には市長以下カレーを食べているそうです。
  • posted by ヒロさん at 07:46 | Comment(7) | TrackBack(1) | 日本史・世界史