2005年06月27日

ピアノは日本人として常識のたしなみ、ですか?

イギリスの大学で「Music Night」、「Social Evening」、「Poetry and Music」のような発表会・交流会の企画がときどきある。音楽発表では、ギターと歌・コーラスが圧倒的に多い。学生の交流会なので、レベルはピンキリの玉石混交だが、不思議とピアニストがあまり登場しないので、ヘタクソの私がずうずうしくピアノを弾いたこともある。

しかしキャンパスには、ピアノの名人がたくさんいる。名人のほとんどは日本人だ(ヒロさんは問題外の外)。4才からやってます、という人が2人もいる。日本人の中でも女性はピアノができて当たり前の感がある。キャンパスの日本人女性14人のうち、11人がピアノを習った経験がある。

「耐久消費財・県別普及率」(1999年)によると、現在のピアノ普及率は全国平均で25.2%、4世帯に1台の割合だ。県別では、
【普及率の高いトップ10】(高い順に)
 奈良、香川、大分、山梨、岡山、茨城、群馬、栃木、長野、滋賀
【普及率の低いボトム10】(低い順に)
 沖縄、青森、鹿児島、宮崎、北海道、福岡、山形、長崎、岩手、高知
となっている。

トップは関西と関東の周辺県が多い、という感じだ。九州では大分が高くて、宮崎・鹿児島が低いのは、何か背景があるのでしょうか?

「今、ド田舎がおもしろい」7:耐久消費財のステータス
 ピアノを持っている家庭というとどんなイメージをお持ちですか。ド田舎では小学生の女の子がいる家庭でピアノを持っていない家はほぼ皆無です。決して経済水準が高いからではないですよ。農業が長らく主産業で豪雪になやまされ高齢者世帯が急増しているこの地域で所得水準が高いわけはありません。少ないお金でも豊かな暮らしをする方法はいくらでもあるものですが。
 結局ここ(=新潟県高柳町)の子どもたちのピアノ普及率の高さは習い事の流行だからだと私は想像しています。男兄弟の家庭に生まれ育ち、今でも息子しかおらず、ピアノを真剣に買おうと思ったこともない私には詳しい状況はわかりかねます。それでも、中学の息子の同級生の女の子15人、その本人や親から聞くかぎり全員がピアノをもっているようです。

日本のピアノ普及率は世界一。日本のピアノ人口の裾野は、女性を中心に遠大に広がっている。ヤマハとカワイの力は偉大なり! 裾野ばかりでなくて、プロのトップレベルでも日本人が活躍中。アメリカで最も有名な日本人は、大リーグのイチローと、ジャズピアニストの松井慶子だっていうじゃありませんか!(ホント?)

ピアノを題材にした人気漫画も復活してますよ。2002年11月まで『ヤングマガジンアッパーズ』に連載されていて、中断となった『ピアノの森』が、2005年4月から『週刊モーニング』に復活中。日本にいるときに私も単行本で途中まで読みました。懐かしいな〜。簡単なあらすじはこちらでどうぞ

前回記事のコメントで「無頼の徒」さんから、練習曲「ハノン」のお薦めがありましたが、最近は「ピシュナ」の方が定評が高いとか。私も検討しよっと。

いま、以下の2つのサイトを読んでます。奥が深いです、ピアノは・・・・。
  • ピアノが上手になる・超簡単ヒント集
  • 大人から始めるピアノ奮闘記


    ■追加1:ピアノを題材にしたマンガ
  • 「ピアノの森」一色まこと(1〜9巻)講談社・週刊モーニングにて連載中
  • On Off and Beyond:のだめカンタービレ(2005/6/12)

    ■追加2:子供にこんな残虐なピアノ曲を練習させても、いいのでしょうか・・・
    ピアニストを目指した頃:あれから8年
     バイエルが終わった頃、最初に課題曲として渡されたのは全音ピアノピースの「ウォーテルローの戦い」という曲だった。先生からは何度も「気持ちを込めて」とか「情景を思い浮かべながら」とか言われたのだが、今から思えば小学生に戦争や軍隊のなんたるかがわかるはずがない。
     今だってたいしたことを知っているわけではないが、フランス革命がどういうもので、ナポレオンがどういう人か、一応は知っている。戦争のなんたるかも、それなりに思うところがある。小学生の時にまともに弾けなかったこの曲を、今だったら感情豊かに弾けるような気がするのだけれど。

    私も「軍艦マーチ」をピアノで弾きたくなってきた・・・。子供に演奏させてはいけない不謹慎な曲がほかにありましたら、教えてください。
  • posted by ヒロさん at 08:21 | Comment(11) | TrackBack(0) | ピアノが好きなの♪

    2005年06月25日

    好きな歌と音楽で「素性」がわかるプロファイリング

    ネット上で「Musical Baton」なるものがはやっているらしい。「ヒロさん日記」にも3本もTBが飛んできている。この企画で気に入らないのは、「取りまとめ役」も「最初の発信者」も見えず、受け取ったら、さらに5人にTBを出すという「スパム増殖型」であること。これは陰謀工作に違いない!

    1.重大な時事問題から目をそらさせるための工作
    2.音楽業界によるネットマーケティング調査
    3.特定ブログを破壊するための手法を探る、音楽プロファイリング

    ということで、そうは問屋は卸さないぞ! でも、まあ、週末なので、「半分だけ」企画に乗ることにする。「社怪人日記」で「無人島に持っていく10枚のCD」企画もやっているので、こちらにも半分乗ることにする。

    無人島に行って、カラオケに呼ばれたら、歌いたい曲。ベスト10はたぶんこんな感じ。

    ■カラオケで歌いたいベスト10曲
     1.中島みゆき 「命の別名」
     2.大黒摩季 「君に愛されるそのために」
     3.村下孝蔵 「春雨」
     4.久保田早紀 「異邦人」
     5.鈴木雅之 「もう涙はいらない」
     6.小比類巻かおる 「Hold On Me」
     7.郷ひろみ 「あなたがいたから僕がいた」
     8.スピッツ 「渚」
     9.レベッカ 「フレンズ」
    10.Every Little Thing 「Time Goes By」

    無人島で弾きたいピアノの曲も考えてみた。(「無人島にピアノがあるんですか!」と突っ込む杉井奈美子のような人は、逝ってよし) というか、ピアノは初心者でレパートリーが少ないので、弾ける曲は、以下の10曲ぐらいしかないんですわ。

    ■ピアノで弾きたいベスト10曲
     1.バッハ 「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ト長調 チェンバロ・ソロ」(BMW1019)
     2.Scott Joplin 「Magnetic Rag」
     3.Bart Haward 「Fly Me to the Moon」
     4.Vernon Duke 「Autumn in New York」
     5.ガブリエル・マリー 「金婚式」
     6.シューベルト 「楽興の時」(Op.94, No3)
     7.リヒナー 「忘れな草」
     8.Yann Tiersen 「l'apres-midi (映画『アメリ』のピアノ曲)」
     9.ワルトトイフェル 「スケーターズ・ワルツ」
    10.竹内まりあ 「駅」

    実は、この年になってピアノに凝っている。ピアノを始めてから3年目。最初は、竹内まりあの「駅」を半年ぐらいチマチマ弾いていたが、リヒナーの「忘れな草」でハマッてしまい、バッハの「ヴァイオリンとチェンバロのソナタ」を暗譜で弾きこなしているうちに、何とか軌道に乗っている。去年の秋より、先生についている。

    バイエル、ブルックミュラー、ハノンなどの練習曲はいっさいやらない主義。CDなどで惚れ込んだ曲で、楽譜が見つかったら、「この曲は1000回弾きたいと思うか」と自問自答して、ゴーサインが出たら、暗譜でコツコツ練習する。人生、先が短いので、たいして好きでもない「練習曲」なんて、やってられません。


    ■追加1:無人島で「サヨ」「ウヨ」が聴く&歌うベスト3を考えてチョウダイ!
    「サヨ」の例・・・・「めざせモスクワ」、「もののけ姫」、RCサクセション「カバーズ」
    「ウヨ」の例・・・・「宇宙戦艦ヤマト」、「軍艦マーチ(替え歌版)」、「靴が鳴る」

    ■追加2:今聴いているCD
    Chopin Nocturnes/4 Ballades (Vladimir Ashkenazy)

    ■追加3:「ミュージカル・バトン」というスパムの発信源
    絵文録ことのは:Musical Baton ミュージカル・バトン!
    posted by ヒロさん at 06:20 | Comment(19) | TrackBack(0) | ♪音楽たのしいなぁ

    2005年06月21日

    日本陸軍と森鴎外:海軍兵食の教訓を生かせなかった悲劇

    日本からドッサリと持ってきた梅干が、ついに切れてしまった。なければ生きていけない、というほどの思い入れはないが、夏の暑いとき、おにぎりに梅干のかけらが一切れ入っていたりすると食欲が増す。

    最近は子供のお弁当に梅干は入っているのだろうか。「日の丸弁当」なんて作って持たせると、左巻きの先生から嫌がらせを受けたりしないのか、ちょっと心配である。(左巻きの圧力で、いまだに運動会で「軍艦マーチ」が使えないという話ですから。) で、戦時中の食事はというと・・・。

    太平洋戦争と国民生活、ある日のメニュー
     1944〜45年ごろの、一般庶民の1日の食生活を森輝『風は過行くー私の戦中ノートー』によって、再現してみよう。
  • 朝:ご飯(どんぶり0.7杯、玄米・ジャガ芋入り)、薄いみそ汁、薩摩芋のつるの油いため
  • 昼:ふかし芋に塩少々、いった大豆かすにしょう油少々
  • おやつ:南瓜(薄い塩味)、乾燥バナナ
  • 夜:雑炊(玄米・みそ・大根の葉入り)、すけそうだらの塩焼き、ひじきの煮付け
     小学校のお弁当もずいぶんかわり、40年ごろになると、日の丸弁当というのがすすめられたが、それは、1ヶ月に1回の特別な日だけの話だった。
     しかし、44〜45年ごろになると、白いご飯そのものが「銀シャリ」と呼ばれるようになり、夢にまでみる、理想の食べ物になった。「今日は卵ご飯だよ。」と言えば、とうもろこしを砕いて混ぜたご飯で、「今日はお赤飯だよ。」と言うと、赤い高粱(穀物)を混ぜたご飯と言うようになった。

  • 戦時中は、主食の量を増やすために、いろんな穀物・芋・豆類で「混ぜご飯」が作られたので、「銀シャリ」はめったに食べられない。しかし、この「銀シャリ」に飛びついた結果、日本は不幸に見舞われているのだ。

    長府雑記帳:明治の日本を襲った死の病
     脚気は今でこそビタミンB1の不足により起こる病気ということは良く知られていますが、明治の頃は主に白米を主食とするアジアの病気で欧米ではほとんど見られないので伝染病のように考えられていました。
     日本では食生活が向上し白米を食べだした江戸時代に出現し「江戸わずらい」と呼ばれていました。明治になると患者数は急激に増加し明治10年には明治天皇もこの病気に苦しみました。

    子供の頃に「脚気(かっけ)」という言葉は聞いたことがある。膝蓋腱反射といって、膝ガシラをポンと叩いて、足先が動けば大丈夫、みたいな話だった。膝が悪くなる病気なのか、へぇ〜、と思いつつ月日が流れてしまったのだが、ネットで調べてみると、なんと、死人がバンバン出ている病気じゃありませんか!

    麦と水兵:海軍滅亡の危機
     明治11年の時点で海軍の総人員は4528名。うち脚気患者1485名、脚気による死者32名。基本的に軍隊は検査に合格した壮丁が集まる集団ですから、羅病率32%、死亡率0.7%などという数字は尋常のものではありません。<中略>
     また、明治15年末より『龍驤』が行なったニュージーランド・南米方面への遠洋航海では、10ヶ月間の航海で乗員371名のうち160名が脚気を発症、うち25名が死亡するという事態も発生しました。

    なんだとー! ニュージーランド・南米航海では、発病率は160÷371=43%、死亡率は25÷371=7%ですよ! おっとろし〜。長期で船に乗るのは命懸けじゃないですか!!(ピースボートもそうだ、ムニャムニャ.....)

    そこに救世主が登場した。海軍の軍医総監、高木兼寛だ。

    老いを生きる(講演要旨):脚気の原因は白米に関係
     海軍に劇的な変化が起きていた。海軍の一番のトップである軍医総監のタカギカネヒロという人がこれは白米に関係があるのではないかと考えたんです。白米の食べすぎだろうと。「何とか白米を止めさせろ」ということを一生懸命努力いたしました。そのために実験をしたい。船を航海に出して乗っている水兵の食事を変えて脚気がそれでなくなるかどうか実験をしたいと考えたわけです。ところが海軍省は予算がない。当時の海軍省の年間予算が300万程度。一航海6万円いるのです。とても海軍は支出できない。政府もこれに同意を致しませんでした。
     ところがたまたまタカギ総監が御進行にまいりました明治天皇がその話を聞きまして「自分が出そう」と言いました。6万円を明治天皇が出しました。実は明治天皇は脚気でございます。皇后も脚気でございました。寺内陸軍大臣も実は脚気でした。6万円というのは今のカネにすると20億円という大変大きな額です。「つくば」という軍艦に373名の水兵を乗せて287日間の航海に出ました。一切米の飯を船に乗せませんでした。パンとビスケットを食べさせました。軍隊の食事というのは副食が貧しかったのですが、ふんだんに肉、魚、野菜、果物を供給いたしました。その結果、1人も脚気の死亡者が出ませんでした。

    実験航海の20億円は、明治天皇のポケットマネーから出たというのは本当か、それとも美談か? 食べ物に不自由のない明治天皇まで脚気に悩んでいるのはなぜ? いずれにしても、軍艦『筑波』は明治17年(1884年)2月に出航し、多数の死者を出した『龍驤』と全く同じ航路を取り、死者を1人も出さずに帰還に成功した。このとき高木兼寛は辞表を懐にしていたという。いよ! 男の中の男! おみごと!

    この偉大な実験航海によって、脚気の原因は究明され、万事解決したかのように思われた。ところがである!

    陸海軍における脚気の問題
     こうして明治27年の日清戦争を迎えた。高木が指導した海軍では麦飯を採用し、脚気患者は1人も発生しなかった。これに対して陸軍では食糧を陸軍省医務局が一元管理し、全部隊に白米を支給した。その結果、戦死者453名に対して脚気による死者4064名を出した。陸軍の病院では入院患者のうち戦傷者1名に対して脚気患者11名以上というありさまだった。
     戦後半年ほどして、福沢諭吉発行の「時事新報」に海軍軍医の「兵食と疾病」という調査記事が掲載された。これは初めて公の場で行われた海軍からの陸軍非難であった。この記事をきっかけにその後も陸海軍の論争は続いたが、陸軍上層部は細菌説を採りつづけた。
     そのため10年後の日露戦争では陸軍の被害はさらに拡大した。戦死(即死)者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万7800余名にのぼった。当時の日本軍は突撃の際にも酒に酔っているようだったと言われており、それが脚気のためであり、原因が白米であることはロシア軍にも知られていた。実際には戦死者にも脚気患者が大量に含まれていると考えられる。
     陸軍は旅順、奉天陥落後の明治38年3月末、脚気対策として米麦7対3の混食奨励の訓令を出した。陸軍の公式記録では脚気患者数は25万人とされている。海軍の脚気患者は105名であった。

    日露戦争では5万人近くが戦闘で死亡しているが、驚くなかれ、これに加えて脚気によって3万人近くが死んでいるのだ。当時は「銀シャリ」信仰は強く、「兵隊さんになれば、白米を腹いっぱいに食える」がキャッチフレーズだった。それにしても、陸軍の融通の利かないやり方には怒りを覚える。海軍の実験は、一体何だったのか!

    鍋羊肉という名は昭和2年生まれか
     このように兵食の改善が遅れたのは、陸軍内部には「梅干主義」といわれる精神主義のような考え方が根強く伝わっていたからでした。梅干主義というのは、日清日露戦争など日本陸軍の過去の勝利は、すべて梅干しの入った握り飯を食べて戦ったからである。だから兵食の栄養価だとか美味いまずいなんかにこだわるず、何でも腹一杯食べればよいという考え方を指すのです。
     ですから、兵食を専門に作る兵隊は置かなくてもよいとして、炊事経験の有無を問わず当番制で飯炊きをさせたのです。そうなれば当然のことながら、材料を生かした献立になっていない、味付けがまずい、切り方が不揃いだといったことが、それこそ日常茶飯事になります。

    「銀シャリ」信仰に加えて、「梅干主義」という精神主義。日露戦争直後に「米麦7対3」は導入したとはいえ、その後も「兵食」に大した改善は見られず、過去の栄光(=日露戦争勝利)に酔いしれている。この問題で追及されて然るべきは、「脚気の原因は食物」が実証されてきたにもかかわらず、これを隠蔽し、どこまでも「細菌説」をとった人たちである。

    脚気と悪者森鴎外
     ここで登場するのが、悪役の森鴎外です。ドイツに留学中の森は、高木兼寛に反対する論文を送ってきました。これは、高木批判の大きな力となりました。さらに、帰国して一等軍医となった森は、脚気の原因は細菌であるという信念のもとに、徹底的に高木を攻撃しました。
     こうして、陸軍の中央では麦飯の導入には徹底して反対していました。ところが、実際に現地で兵を管理している地方の軍医たちにとって相変わらず脚気は脅威でした。そこで、独自に麦飯を取り入れ、大いに効果を上げて脚気の患者を減らしていました。
     しかし、戦争が起こると話は変わります。日本から離れた場所で行動する軍隊に後方から食料を送るのは中央の権限です。ここでも森鴎外は、頑固に麦飯の効果を否定し続け、現場からの要求に応じず、麦を供給しませんでした。その結果、海軍では脚気による死亡患者はほとんどなかったのに対して、陸軍では、日清戦争では3944人(戦死者は293人)、日露戦争では27800人(戦死者は47000人(この中にも多くの脚気患者がいた))という非常に多くの兵士の命を脚気によって奪う結果となったのです。<中略>
     結局森鴎外は、陸軍軍医の最高位まで出世し、文豪としても名を馳せましたが、医学の歴史の中では、百害あって一利無し(無いわけではないと思うけど)という人物だったように思えます。

    ビタミンを最初に見つけた日本人、鈴木梅太郎
     梅太郎がオリザニンを発見したのは、その2年後(=明治43年)のこと。しかし林太郎(=森鴎外)は、古来からの日本人の主食である白米が栄養学的に問題があり、さらに脚気の原因であるという説を、日本文化を侮辱するものにほかならないと考え、梅太郎の研究を終始無視した。脚気に効カありとする梅太郎の報告を伝え聞いたある新聞記者に対し、林太郎は「そんなことはあるまい。イワシの頭も信心からの類だろう」と答えている。

    文豪・森鴎外のファンの方々には申し訳ないが、言わせていただきたい。森鴎外さん、あなたは医者としては最低だ!


    ■追加1:森鴎外に関する参考サイト
  • 森鴎外の仮面
  • 坂内正:『鴎外最大の悲劇』
  • 松岡正剛の千夜千冊:『阿部一族』(森鴎外)

    ■追加2:晩年の鴎外は「簡潔」を信条として、冷酷なほどに事実にこだわって、淡々と歴史的人物を書き続けた。晩年の作品の1つに『北条霞亭(上下)』(下巻は『霞亭生涯の末一年』)があるが、興味がある方は、リンクのWebテキストで「脚気」を検索してみるよとよい。医者たちは北条霞亭の病状を「脚気」として診断し、本人も「脚気」であると信じて死んでいくのだが、森鴎外は執拗なまでにこの「脚気」にこだわり、「彼の病状は脚気ではない」ことを証明せんとして筆を尽くしている。

    ■追加3:イギリス海軍は、ビタミンC不足の「壊血病」で悩んでいた
    船乗りを壊血病から救った英国海軍特製ライムジュース
     大航海時代の帆船による長期航海では、多くの乗組員が壊血病で倒れた。しかし、当時の医学知識では、これは防ぎようのない船乗りの宿命とあきらめるしかなかった。壊血病の原因が、単なる食糧不足によるものではなく、ビタミンCの欠乏によるものであることを発見したのは、スコットランドの医師ジェームズ・リンド。1747年になってからのことである。
     この発見を最初に生かしたのはキャプテン・クックだった。2度目の世界一周航海に出帆するとき、ライム果や塩漬け野菜などを十分に積み込ませ、その結果、壊血病による死者はたった1名に過ぎなかったという好成績を残した。
     このため英国海軍では、1795年以降、それまでのラム酒やワインに代え、乗組員にライムジュースを強制的に飲ませるようにしたところ、壊血病の悩みはほとんど解消されたという。それ以後、英国の軍艦や商船、またはその乗組員のことを「ライム・ジューサー」または「ライミー」と呼び習わすようになり、このニックネームは現在も使われている。

    ■追加4:日本の乗組員は「ニック・ジャガー」と呼ぼうか・・・
    肉じゃが誕生秘話
     そんな時、ある提督のわがままが良い結果をもたらした。その提督こそ、東郷平八郎海軍中将(当時)である。舞鶴鎮守府の初代鎮守府長官に着任した東郷提督は、イギリス留学時代に食べたビーフシチューの味が忘れられず、部下に「ビーフシチューをつくれ」と命じたのであった。
     ビーフシチュー等知らなかった料理長が、悪戦苦闘の課程でつくりあげたのが、『肉じゃが』だったのである。
     以後肉じゃがは、「洋食の代用食として効果的に牛肉を摂取させる事が出来る画期的料理」として海軍で大いにもてはやされる事となった。

    ■追加5:海軍カレー(横須賀)もお忘れなく
    カレーに宿る「グローバリズム」
     最初の張本人は東インド会社。インドより米とカレーを持ち帰り、英国内で大好評を博したという。さらに日持ちが良く食欲が増すカレーは、大英帝国海軍の軍隊食となって七つの海を渡った。エゲレスの水兵たちは、パンにカレーをつけて食していたそうだ。
     明治維新後の日本にも、まさに文明開化の味、ハイカラの象徴として渡来してきた。大日本帝国海軍も同じくカレーを軍隊食として採用。さすがにパンの味は親しめず、日本の主食である米飯にかけることで、「カレーライス」(またはライスカレー)の誕生を見るに至ったのである。

    海上自衛隊では今でも毎週金曜日はカレーで、横須賀市役所も金曜日には市長以下カレーを食べているそうです。
  • posted by ヒロさん at 07:46 | Comment(7) | TrackBack(1) | 日本史・世界史

    2005年06月19日

    中国全土版「バトルロワイヤル」:文化大革命と紅衛兵

    ずーっと疑問だったことがある。私は、あの時、なぜ、あのような言葉を書いてしまったのだろうか。

    小学5年生ときに、クラスの交換日記に「文化大革命はすごい」と書いたことを覚えている。何1つ意味を理解していなかった私が、いったいどんな文脈で「文化大革命」を持ち出したのか。35年前の謎がたった今、解けたところだ。

    松岡正剛の千夜千冊:『文化大革命と現代中国』
     (1966年)5月、北京大学哲学科の講師たちによる陸平学長を激しく弾劾する「大字報」が貼り出され、これに毛沢東が「中国におけるパリ・コミューンの宣言にあたる」という支持声明を出す。大字報とはいわゆる壁新聞のことである。

    そう、「壁新聞」だ。自宅で購読していた朝日新聞やNHKニュースを通じて、この「壁新聞」というコトバは、何の意味もわからないまま、体に染みついていた。そして小5のときに、クラスで5つのグループに分かれて「壁新聞」を作ることになった。みんなで一緒に作ったこの「壁新聞」の文脈で、知ったかぶりの私が「文化大革命」を交換日記で持ち出したのだ!

    「文化大革命」とは、簡単にいえば、中国共産党内部の政治闘争である。だが「政治闘争」という表現はあまりにも軟弱だ。何しろ中国全土を巻き込み、推定2000万人の死者を出した、10年間におよぶ壮絶なバトルロワイヤルなのだ。この闘争の黒幕は、毛沢東である。

    ウィキペディア:大躍進政策
     大躍進政策は1958年から中華人民共和国で施行された農工業の大増産政策。
     第2次5ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立て、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。<中略>
     有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に借り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまったし、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

    毛沢東は、なんと無謀にも、15年間でイギリスの鉄鋼生産を追い抜くというトンデモ「5ヵ年計画」を立ててしまった。目標の達成のために「強制労働」が課され、無謀な生産計画で農村社会は破壊された。無階級のはずの「共産主義」に階級がはびこり、大天災や戦争が起こったわけでもないのに、2000万から5000万人を餓死に追いやった。

    この大失政で引退を余儀なくされた毛沢東の巻き返し闘争が「文化大革命」なのだ。「文化」が聞いて呆れる。何も知らない小5の私がイメージしたのは、西洋ルネサンスのような「文芸復興運動」だった。ところが何のことはない、「文化大革命」とはスターリン顔負けの「大粛清」であり、「文化破壊運動」のことだった。

    西洋文化と宗教を排撃し、資本家を糾弾する運動であるとは聞きかじっていたが、ユアン・チャン(Jung Chang)の本を読んでみると、想像以上だった。2日前に『Mao:The Unknown History』と『Wild Swan』の2冊が届いたが、まず『Wild Swan』(邦訳:ワイルドスワン)の方から読み始めてみた。

    ◆『Wild Swan』:Introduction から抜粋要約。
  • 私の父は共産党幹部だったが、家にあった本の大半は焼かれた。詩を書くことさえ危険だった。16才の誕生日のときに私が生まれて初めて創った詩は、自宅の手入れを前にして、トイレに流さなければならなかった。
  • 1964年に毛沢東は、草花の栽培を「封建的」かつ「ブルジョア的」な行為であるとして禁止した。ほとんどの庭師は追放された。学校の庭から芝生が引き抜かれ、家屋に置かれてある鉢植えは消滅した。私が中国からイギリス留学する1978年には、事態はいくぶん改善されていたが、どの家にも草木はなく、花屋は存在せず、公園は荒地そのままだった。

  • まさか、草花の鑑賞までが「ブルジョア」扱いにされていたとは、今日の今日まで知らなかった! ユアン・チャンのように文芸好きの少女であっても、詩を書くことすら許されない。バイオリンなどはもっての他だ。バイオリン奏者のマー・スツォン(馬思聡)は売国奴と呼ばれ、アメリカに亡命している。

    このような破壊運動の先鋒となったのは、驚くなかれ、中高生たちである。最近の日本でも、教師たちによる糾弾で校長が自殺したり、呼応した生徒たちが「君が代」や「国旗掲揚」を拒絶している学校はまだまだある。中国の文化大革命はこんな生易しいものではない。高校生のすべてが「全学連」「全共闘」「赤軍派」「解放同盟」になって、糾弾・つるし上げ・破壊行為に明け暮れたのである。これを煽動していたのは、ほかならぬ毛沢東だった。

    松岡正剛の千夜千冊:『文化大革命と現代中国』
     毛沢東はまたも、清華大学付属中学(注:中学は日本の高校にあたる)の紅衛兵に対して有名な「造反有理」(造反には道理がある)という言葉を使っての激励をした。これらが引き金になって、一挙に文革大合唱となったのである。
     あとはもうとまらない。8月には「十六条」とよばれる文革の方針決定がなされた。1週間後には天安門広場に100万の紅衛兵が集まった。こうして全土に「走資派」狩り、ブルジョワ狩り、反動派狩りがおこっていった。著名な大学教授が“妖怪変化”の名札を首からぶらさげられて街を引き回され、幾多の進歩的知識人がことごとく闘争大会に引っ張り出されて弾劾を浴びせられた。
     作家の老舎もその犠牲者の1人となった。カトリック系の聖心学院は紅衛兵に占拠され、外国人尼僧のことごとくが監禁されて、スパイとして国外追放された。これらを“実行”していったのが紅衛兵である。

    しかし、この革命暴徒の「紅衛兵」(こうえいへい)は分裂・対立・内ゲバを繰り返し、収拾がつかなくなっていく。中国全土が「革マル派vs中核派」あるいは「山口組vs稲川会vs住吉連合」の殺し合いに巻き込まれていく。その死者数、2000万人。江沢民が「日本軍による中国人民の死者数は3500万人」と吹聴するのも、「文化大革命の殺し合いよりも、日本軍の方が酷かった」と印象づけようとする、中国共産党の必死の宣伝工作にすぎない。


    ■中高生を煽って革命暴徒に仕立て上げていくという話に関連するが・・・
    韓国では、信じられないような事件が進行中だ。韓国の「狂気」や「火病」を揶揄する韓国ウォッチブログはたくさんあると思うが、中学生を煽動して「反日の絵画」を書かせ、それを政治利用すべく「公共の場で展示する行為」を、このまま許していてはいけない。

    以下の写真の数々と、韓国在住カナダ人のブログ、荒川区議員の声を是非ご覧いただきたい。

    大空のサウラビ: かわいらしい韓国の子供たちの絵!(2005/6/15)
    mumurブログ:韓国のお友達の絵 第二弾だよ!(2005/6/19)
    くろがね広場:絵に書かれているハングルの翻訳1〜3
    この「反日絵画展」を追及する韓国在住カナダ人「Gord」さんのブログ
    小坂英ニ:こんな国の都市と友好提携など有害無益(2005/6/16)


    ■追加1:合従連衡、呉越同舟、密告と裏切りの連続。あなたは「紅衛兵」としてサバイバルできるか?
    バトルロワイヤル占い:「紅衛兵」度チェック

    ■追加2:文化大革命を理解するための推薦図書
  • ユン・チアン 『ワイルド・スワン(上中下)』(講談社文庫)
  • 産経新聞取材班 『毛沢東秘録(上中下)』(扶桑社文庫)
  • 李 志綏 『毛沢東の私生活(上下)』(文春文庫)
  • 松野仁貞 『毛沢東を超えたかった女』(新潮社)
  • 中嶋嶺雄 『北京烈烈 文化大革命とは何であったか』(講談社学術文庫)
  • posted by ヒロさん at 09:38 | Comment(15) | TrackBack(11) | 中国情勢☆毛沢東

    2005年06月17日

    明治大正の唱歌が復活すると、軍靴の足音が聞こえる?

    シュタイナー教員養成大学の1時限目は、詩の朗読と歌で始まる。歌の方は、最初のうちは先生が選んでくれるが、途中からは、生徒が自分の好きな故郷の歌をみんなに紹介し、原語で「歌唱指導」をしなければならない。

    あるイギリス人は子守唄を、台湾人は旧正月のお祝いの歌を、南アフリカ出身の人は「ボンガ」というリズム曲を、カナダの人は黒人ゴスペルを、南米チリの人は、なぜかスペイン語ではなくフランス語のポップスを教えてくれた。ボスニア(旧ユーゴスラビア)出身の人は、『ファシズムに死を』という「唱歌」を教えてくれたが、なんと、小学1年生からみんなで歌っていたんだとさ!(マジ?)

    では日本人は、いままでどんな歌をみんなに教えて上げたかというと・・・。チョー簡単なやつでは「ホタル」(ほっ、ほっ、ほーたる来い)。「さくら」も有名なので無難なところ。「紅葉」の2部合唱も使える。ポップスでは、沖縄音階の「島唄」も受けがいい。「炭鉱節」(月が〜、出た出た)で盛り上がる手もある。で、私はというと「荒城の月」と「夏は来ぬ」。

    産経:来春の小学校音楽教科書 唱歌・童謡が復活(2004/4/28)
    来年(=2005年)春から使われる小学校の音楽教科書に、なつかしい唱歌・童謡が随分復活する。「月の沙漠」「夏は来ぬ」などざっと13曲。唱歌・童謡は「古めかしいうえ、歌詞が難しい」と教科書から消される流れが続いていたが、最近のブームもあって教科書会社もようやく良さを見直し、「次世代に歌い継ぐべきだ」と気づいたようだ。

    私が小学校のときに習った「唱歌」「童謡」が、どんどん教科書からはずされていると聞いていたので残念だったのだが、最近、復活の兆しです。2005年から復活しているとされる13曲は以下の通り。

    2年生・・・・「月」「雪」「夕日」
    3年生・・・・「あの町この町」「7つの子」「村祭り」
    4年生・・・・「みどりのそよ風」「月の沙漠」「夏は来ぬ」「背くらべ」
    5年生・・・・「野菊」「海」
    6年生・・・「浜千鳥」

    「7つの子」(1921年)は志村ケンが「カラスなぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ〜」で有名にしてしまった曲。「月の沙漠」(1923年)は「漠」じゃなくて「漠」だったのですね。私の好きな「夏は来ぬ」(1896年)は、年代が古く、歌詞の意味は少々難解なところもあるので、解説はこちら

    「村祭り」「みどりのそよ風」「背くらべ」「野菊」も復活歓迎! 「海」は「松原遠く、消ゆるところ・・・」であろうか。「浜千鳥」(1919年)は私が歌ったことのない曲だった。曲を聴きたい人は上記のリンクからどうぞ。

    小学校の音楽教科書を出版するのは、東京書籍、教育出版、教育芸術社の3社。東京書籍では今年から、6年生の教科書に韓国の歌『青い心白い心』が入っているという。

    朝鮮日報:日本の小学6年音楽教科書に韓国童謡『青い心白い心』登場(2005/3/15)
     来月学期始めとなる日本の小学校6年生の音楽の時間に韓国の童謡『青い心白い心』(オ・ヒョソン作詞/ハン・ユンヒ作曲)が歌われると中央日報が報じた。
     同紙によれば、日本の教科書専門出版社の東京書籍が今年初めに発行した「新しい音楽」6学年教科書6頁に同童謡が載っている。同童謡の歌詞は日本語に翻訳され、ハングル歌詞が日本語の発音で記入されており、ハングルバージョンでも歌うことができると報じている。 <中略>
     日本の音楽教科書に韓国童謡が「中心教材曲」(必須曲)に採択されたのは、日本からの独立以降、初めてのことだ。

    1学年で習う曲はせいぜい10曲強なので、なんでそこにわざわざ韓国の歌なんか入れるんだよ!という硬派の意見もあるようだが、そもそも小学校の音楽教科書には、外国曲がどの程度「進出」してきているのだろうか。

    小中学校の楽曲(中野ピアノ教室)HPによると、小学校の音楽教科書に記載されている外国の曲は以下の通りだ。

    ◆注:芸=芸術教育社、教=教育出版、東=東京書籍
    学年出版社曲名国名・分類
    小1全3社ぶんぶんぶんボヘミア民謡
    小1全3社もりのくまさんアメリカ民謡
    小1きらきらぼしフランス民謡
    小1子犬のビンゴアメリカ遊び歌
    小1こいぬのマーチ外国曲
    小1ぞうさんのさんぽデンマークの子ども歌
    小2全3社かえるのがっしょうドイツ民謡
    小2芸・教小ぎつねドイツ民謡
    小2かっこうドイツ民謡
    小2むっくりくまさんスウェーデンの遊び歌
    小2ロンドンばしイギリス遊び歌
    小2あわてんぼうのうた外国曲
    小3あわてんぼうのうた外国曲
    小3芸・東ゆかいなまきばアメリカ民謡
    小3ゆかいな木きんアメリカ民謡
    小3クラリネットポルカポーランド民謡
    小3すなはま外国曲
    小3テキサスの空アメリカ民謡
    小4芸・東いろんな木の実西インド諸島民謡
    小4おどろう楽しいポーレチケポーランド民謡
    小5さよならイスラエル
    小6グリーンスリーヴスイングランド民謡
    小6アンデスの祭りボリビア民謡
    小6芸・東アリラン朝鮮半島民謡

    結構、いろんな外国の曲をやってますね。お馴染みの曲もあれば、はてな?という曲もある。上記のリストから漏れているが、よく知られている「ちょうちょ」(教育出版:1年生)は、スペイン民謡。なぜか外国曲として分類されていない。

    参考にしたHPは「13〜16年度」の教科書をまとめたものと思われるが、朝鮮民謡「アリラン」はすでに教育芸術社と東京書籍の2社が扱っている。ということは、『青い心白い心』は、必ずしも初のコリア曲というわけではない。「必須曲」として初なのか、「韓国童謡」として初なのか、中央日報の取材不足なのか、今のところ不明。

    まあ、アメリカ民謡やドイツ民謡もたくさんあるのだから、コリア民謡&童謡が1〜2曲あってもいいでしょう。わざわざハングル(原語)で歌わせるべきかどうかは、賛否両論があるとは思いますが。

    韓国の歌といえば、6月26日の「NHKのど自慢 イン ソウル」は予定通り開催のようです。出演者は日本と韓国が半々なのでしょうか。日本の歌を日本語で歌う韓国人がいるはずですが、この人たちを「親日派」と呼んで糾弾することは、絶対にやめてくださいね、韓国のマスコミさん。

    ■つぶやき:イギリスの田舎にいるとカラオケがないので困っている。が、今日この記事を書いたおかげで、以下のサイトを見つけたので、しばらくは「パソカラ(パソコン・カラオケ)」をやろうかな♪
    ■追加1:これを聞いて軍靴の足音が聞こえる人は・・・逝ってよし!
    赤い靴(1921年)

    ■追加2:「君が代」の曲が決まったのは1880年(明治13年)
    国旗・国家のページ
     この「君が代」にフェントンが作曲し、1870(明治3)年9月8日、東京の越中島で薩摩・長州・土佐三藩の兵に対する天覧調練(天皇の観兵式)が行われた際、薩摩藩の軍楽隊がこれを演奏した。「君が代」演奏の端緒である。しかしこの曲は、当時の日本人には必ずしも歓迎されず、1876(明治9)年の天長節(今の天皇誕生日にあたり、明治時代は11月3日)で海軍での演奏は中止された。
     1880(明治13)年7月、海軍省は宮内省に軍楽曲にふさわしい曲をと申しいれ、宮内省の林広守、傭い教師のドィツ人エッケルトらが編曲し、それが1880(明治13)年の天長節前の10月30日にはじめて演奏された。今日の君が代の誕生である。
    posted by ヒロさん at 08:35 | Comment(15) | TrackBack(3) | ♪音楽たのしいなぁ
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