「キリスト教教会暦の移動祝祭日計算」というサイトでザッーと試してみたが、近年で最も「遅い」復活祭は、1943年の4月25日、最も「早い」復活祭は、1913年の3月23日である。「春分」の後の、「満月」の後の、「日曜日」なので、プログラミングが大変だ、こりゃ。
日本では、君が代の「復活祭」によって、神経症の人が花満開になる季節でもある。
◆東京新聞:教員むしばむ『君が代神経症』(2006/3/23)
音楽教員の女性は、「10・23通達」以降は「歩いていても『君が代』が聞こえてくる」ようになった。卒業式でピアノ伴奏をする音楽教員は、特に生徒に斉唱強制を促しかねない“加害者”の立場にもなりうる。
女性教員は、音楽準備室に入り込んでくる虫(カメムシ)が「都教委に見え、見張りに来たと感じる」ような思いに襲われる。
「カメムシが都教委に見える」という現象だが、一笑に付すわけにはいない。いずれユングの深層心理分析によって解明されるときが来るかもしれないからだ。
◆F・デヴィッド・ピート著 『シンクロニシティ』(サンマーク文庫)
1906年ごろ、ユングはチューリヒにおける彼の患者のひとり、あるパラノイア精神分裂病者が、頭を左右にふりながら目をほそめて太陽をみているのに気づきました。患者がユングに説明したところでは、太陽はペニスをもち、このペニスは風の起源であり、頭を左右にふることによって彼はこのペニスをうごかすことができる、というのでした。この幻想はまったく非合理的なものだとおもわれました。それでもユングはそれをノートにかきとめておいたのですが、これがその数年後になって、おおきな意味をもつのです。
数年後にどうなったかというと、ユングは、古代ローマで栄えた「ミトラ信仰」に関する文献をみつけたのである。その文献には、「太陽の顔から垂れ下がり、風をまきおこすものとされる、1本の管」のことが語られており、「精神分裂症の妄想」と「太陽神の神話」が彼の中でユーレカ!とつながってしまうのだ。
ミトラは太陽信仰である。ミトラ以外にも、太陽神と巫女が「聖婚」するという神話はたくさん残っている。男性と交わった覚えがないのに子供ができてしまった人は、「聖婚(処女懐妊)」を疑ってみたほうがよい。太陽との「聖婚」に真実を観る人は、太陽のペニスを見てしまうこともありえるのだ。
しかしながら、日本人の中で、太陽の「おちんちん」を幻視する人は少ないのではないか。日本の太陽神は「アマテラス」という女神なので、見えたとしても「めちんちん」ではなかろうか。(太陽を見つめながら、頭を左右上下に振ってみてちょうだい。見えた人は、こっそり教えてね)
人間の深層心理には、いろいろなものが潜んでいる。フロイトは、生まれて以来「自覚」からはずれてきた経験や欲望がぎっしり詰まっているとみる。一方、ユングは、個人のこころに1度も上ったことのない素材もあるはずだとして、それを「集合的無意識」と名づけた。すなわち、他者や先祖の「記憶」「欲求」「想い」もいっぱい詰まっているかもしれない、ということだ。
自分の心から浮かび上がってくるものが、友人や親の意識であったり、太古からめぐる先祖たちの想いであったりする、ということも考えてみた方がよい。2日前に大学で日本人の集まりがあったが、『オーラの泉』の江原啓之で舞い上がっている女の子がいたので、「彼には能力があるかもしれないが、テレビでやることは、みんなシナリオライターが書いているの!」と一喝しておいた。
◆GLA(高橋信次・高橋佳子)の「異言」は「演技性の伝染心理現象」の可能性有
私もGLA内で、過去世誇大妄想狂の女子大生会員や、性格改造セミナーの「洗脳」とGLA活動を両立させる危険な年長会員らと知り合いになる破目に陥った。もちろん、彼らも「異言=特別なステータス」と信じこんでいた。私が異言をしゃべるようになったのは、彼らとのかかわりによる。そうでなければ、決して異言などしゃべらなかっただろう。
彼らとの交流と並行して、私は信次や佳子の「異言講演ビデオ」や、「異言講演テープ」をさんざん見たり聞いたりしていた。古い先輩会員の中には、販売さえされていない内々の講演録音テープを持っている人がいて、信次や佳子の異言や、佳子に神懸りしたと称する、たどたどしい日本語による、天使、キリスト、賢者のメッセージなるものをたくさん聞いた。
最初はこわがっていたものの、GLA内部の「異言=実は特別なステータス」という雰囲気を察知するや、私も次第に「異言をしゃべりたい」と思うようになっていた。それが「特別な自分になれる方法」と愚かにも思いこみだした。そうしたら、本当にしゃべれるようになってしまったのだ。
何か共通のものを信じ、分かち合う人たちが集まると、「心の想い」は伝染しやすいものだ。「異言(いげん)」が起こる素地として「特別なステータス」「特別な自分」への憧れや欲求がある、と総括している。
私もGLAとは別の団体で、この「異言」を派手に経験したことがある。出てきたコトバは「擬似フランス語」で、あるセッションで数ヵ月にわたり続いた。なぜ「フランス語」と思ったかというと「Mon Dieu(モン・デュー=My God)」と何度か叫んだからだ。
この団体の中では「異言」の録音は禁止されていたが、私は1度こっそりと録音した。当時の私のフランス語は、NHKラジオ講座4月号レベルである。録音は何度も聞いてみたが、フランス語として意味があるかどうかわからないので、大学のフランス語の教授に聞いてもらうことにした。
教授:「う〜ん、よくわからないね・・・」
ヒロさん:「フランス語ではないということですか?」
教授:「そうでないと思いますけどね・・・」
ヒロさん:「思います、ということはフランス語でない、ということなんでしょうか!」
教授:「このことに関して、親御さんとかは、何て言ってます?」
真意を確かめたい思いで語気を強めた私だったが、教授の方は「あなた、そんなことをやっていて、大丈夫なの」と心配してくれたようである。
私が関わった団体は、GLAのような「異言専門」ではない。私以外にも「別の人格」がベラベラしゃべりだす人はいたが、みんな日本語であり、「外国語の異言」が起こったのは私の知る限りでは、私だけだった。けっこう強烈な経験だったので、いままであまり総括してこなかったのだが、この背景をまとめると、次のようになる。
- 「霊障解消」の団体なので、参加者全員に「霊が憑いている」ことが共通認識になっている。
- すでに、他の人に憑いている霊が「語る」場面を、何度も目撃していた。
- 霊は「語る」ことによって、癒され、納得し、最終的には離脱していくので、はやく自分にも起こってほしいという羨望があった。
- フランス語を含む国連5ヵ国語は、必ず全部マスターしたい、そして世界のために役立ちたい、という私の強い想いがあった。
- 数ヵ月前に映画『ナイル殺人事件』(英語)を観たが、一部にフランス語のシーンがあり、フランス語の響きに胸がキューンとした。
- この映画を劇場で録音し、英語の勉強のために、何度かプレイバックしていた。
- 自分にフランス語を話す霊が憑いていることが、霊世界の実証にもなり、かつ自分にだけ「特別に」起こっていることが誇らしく思えた。
と、このように総括することは可能だが、「フランス語の響きに胸がキューンとした」という経験自体は、不思議な青春の1ページとして今なお大切にしている。その後、フランス語はまったく上達していないが、「フランス語」のことはずっーと気になっているのである。
いわゆる「憑霊」による口寄せ現象を「潜在意識」で片づけるのは簡単だが、「潜在意識」を経由して出てくるものが何なのかは定かではない。
1) 生まれてからの経験や想い
2) 先人たちの集合的な想い(ユング)
3) 現在生きている「ほかの人」の意識(以心伝心)
4) 他人の念が生み出したバーチャル人格(呪詛、生き霊)
5) 死者が残した怨念(霊のように見える意識の残像)
6) 死者の魂(いわゆる霊)
7) アカシック・レコード(霊界のデータベース)
8) 前世の記憶
という風にいろいろ考えられる。人によっては5〜8は「論外」かもしれない。私はとくに4に注目している。
『呪いの研究:拡張する意識と霊性』(中村雅彦)を読んでみると、「呪詛」「生き霊(いきりょう)」の伝統が今なお受け継がれていることがわかるだろう。「恨み」や「呪詛」で出来上がったものは、生身の人間と変わらない「バーチャルな人格」を持つこともある。ゆえに「霊」や「前世の記憶」というように、単純に決めるわけにはいかない世界である。
ユングという人もまた、凄まじい「霊体験」の持ち主である。「自分の死後に出版するように」という条件で書かれた彼の自叙伝 『思い出、夢、思想(英題:Memories, Dreams, Reflections)』には、1916年の怪奇現象が記されている。
1916年のある金曜日のこと、ユング家には異様な空気が漂っていた。その夜、長女が部屋で「白い物体」を見る。次女は眠っている布団を、何者かに、2度にわたってはぎとられる。長男は悪夢にうなされる。
土曜日の朝、普段は絵を描くことのない長男(9才)が、母親にクレヨンと紙を要求し、昨晩に夢で見たという光景を描き始める。悪魔、魚、川、天使などが登場する。
日曜日の午後、ドアのつり鐘ベルが、大音響を立てて鳴り始める。ユングはドアに誰もいないのに、このベルが大きく揺れて鳴るのを目撃する。空気は息ができないほどネットリと重苦しくなる。
◆C.G.Jung 『Memories, Dreams, Reflections』 p216
As for myself, I was all a-quiver with the question: "For God's sake, what in the world is this?" Then they cried out in chorus, "We have come back from Jerusalem where we found not what we sought." That is the beginning of the Septem Sermons.
ユングが「これは一体何ごとだ」と自問すると、「彼ら」が一斉に叫んで答える。「私たちはエルサレムから帰ってきた。エルサレムには探していたものがなかった!」という。この「彼ら」の叫びを「耳」で聴いたのか、それとも「心の中」で聴いたのかは、定かではない。
いずれにせよ、この夜から3日間、ユングは内なる声に従って『死者たちへの7つ説教(英題:Seven Sermons to the Dead)』を書き上げるのである。そして書き始めると、怪奇現象はピタリと音沙汰もなくやんでしまうのだ。
『死者たちへの7つの説教』では、アブラクサス(Abraxas)の神が頻繁に登場する。ヘッセの『デミヤン』にも登場する古代の神である。私は『7つの説教』が、いわゆる「自動書記」で書かれたものではないか、と想像している。
このような「霊現象」を、ユングは自分の中の「無意識」の反映として説明しつつ、さらに、自分を超えた「無意識」の世界を追及していくのである。1916年のこの衝撃的な事件は、その後の彼の研究・著述の中に縦横無尽に織り込まれていくことになるのだ。
■参考: