2006年04月28日

パソコンで疲れた目を、パソコンの前で癒す方法

パソコンで仕事をする、家計簿をつける、メールを送る、ブログを書く、DVDを観る、ニュースやブログを巡回する・・・という毎日なので、パソコンに張りつく時間が恐ろしく長い。1日に10時間を超えることも多い。

今後5〜10年間、ブログも含めて「知的生活」を続けていけば、もしかしたら、内田樹センセのように本を書き、松岡正剛センセのように「ヒロさんの千夜千冊」をスタートできる日が来るのではないか、と夢見る私である。

わが家の家族全員の愛読書は、ローラ・インガルスの「大草原の小さな家」シリーズだが、ローラのように90才近くになっても、世界中で親しまれるベストセラーを書き続ける人もいるので、私も老後の希望を捨てていない。

90才までは「蓄積」で、それ以降からが本番だ、という人生を送りたいとすれば、もちろん長生きしていないと話にならないが、少なくとも自分の足で歩けて、手や指がよく動いて、目がしっかり見えることが基本である。

子供の学校の送り迎えも、カレッジに行くのも車なので、歩くことが少ない。当然、足腰が鈍り、春なのに〜、椅子に座っているとヒザが冷えてしようがない。そこで、茶飲みでお湯を沸かすときに、スクワットか、なわとびか、腹筋をやることにしている。茶を飲めば飲むほど、体が鍛えられる。(ただし、深夜のなわとびは音を立てるので無理)

手先や指先が動かないと、文筆活動が滞る。30年後のワープロはどうなっているのだろうか。パソコンに向かってしゃべれば文字になる「音声入力」は実用レベルになっているだろうか。指の運動をしていれば、あまりボケないという話なので、ワープロを打って、ピアノを続けていれば、知的生活も何とか続いてくれるかもしれない。

目が見えないのは困る。ピアノは何とか楽しめるかもしれないが、ワープロは、特殊な補助装置でもつけない限りむずかしい。本が読めないのが致命的である。資料を確認できない、インターネットで調べものができなくなる。歩く機会も減るので、足腰はさらに弱くなる。

ブログ生活を始めてから、視力は落ちているので何とかしないといけない。とくに涙目になった状態で、パソコンを続けると、翌日の視力に大きな「ツケ」が回っている。いったん「ツケ」が回ってしまうと、パソコンをやめても、なかなか回復がしないときがある。眼精疲労というやつか。

「目を癒す」ための知恵はたくさんあると思うが、パソコンの前にいてもできる方法として、私は次のようなことをお奨めしたい。

■■本を速く読む

パソコンの画面はいまのところ「速読」に向いていない。パソコンで疲れた目には「読書」がいい。本を徹底的に速く読むと、視力が一時的に上がるときがある。いわゆる停滞していた眼球運動にカツを入れることになるからである。また、パソコン画面の文字は「ヨコ書き」なので、「タテ書き」の本を読むこと、眼球運動が調整される。

■■イメージ連想の瞑想をする

「見える」というのは本当に不思議なことで、光が網膜でしっかり焦点を結んでいても、その刺激が頭の中で鮮やかに再生されていないこともある。目で見ていると同時、脳で、あるいは心でも見ているのである。そこで、イメージ連想の瞑想である。

目をつむって、何でもよい。イメージを1つ浮かべる。たとえば「国旗」。次にそれから連想するイメージを思い浮かべる。「国旗」→「日の丸弁当」。次に「国旗」→「日の丸弁当」→「炊飯器」ともう1つふやす。次々に連想してはいけない。1つ増やすときには、必ず「ふり出し」にもどって、同じ連想をたどってゆくのである。

「国旗」
「国旗」→「日の丸弁当」
「国旗」→「日の丸弁当」→「炊飯器」
「国旗」→「日の丸弁当」→「炊飯器」→「象さん(象印マーク)」
「国旗」→「日の丸弁当」→「炊飯器」→「象さん(象印マーク)」→「噴水」

両手は椅子の脇にダランとたらして、指折りで回数を数えていく。20個まで雑念なしで行ける人は、超人かもしれない。集中力の訓練にもなる。10回ぐらいから始めて、20回を目指すのがいいかもしれない。

■■有名人の顔を想起する

パソコンでも紙でもいいが、50人〜200人の有名人の名前を打ち込んでおく。その名前を見ながら、脳内でその人の顔を思い浮かべる。目をつぶる必要はない。できるだけスピーディーに次々に思い浮かべる。私の場合は、映画俳優を200人ぐらいをエクセルに打ち込んである。

これをやると不思議なことに、私の場合は視野が鮮明になる。視力が上がるとはいえないかもしれないが、視界の「明度」が上がるのである。身近な友人の顔であっても、絵で描けといわれると、相当に訓練していないと描けない。絵の訓練も必要だが、それ以上に、「よく見る」訓練が必要になる。

私たちが識別している「人の顔」とは、「他の人と区別ができる」程度にしか見ていないのであり、詳細は星雲状態になっている。これをエイ、ヤーで「想起」することは、「見る」訓練につながるのである。ただし、じっくり思い浮かべるのではなく、瞬間的に思い浮かべて、すぐ次に移るのがよい。

■■2枚の写真を1枚にする「立体視」

脳内の「見る回路」を刺激する方法として、立体視がある。これは、ある速読教室の統計では、どう頑張ってもできない人が10%ぐらいはいるようだが、できるようになると、パソコンの画面に「癒しとやすらぎの空間」が広がる。

「交差法」と「平行法」の2種類があるが、理屈の説明はこちらへ。

2枚のきれいな写真を見て、1枚の「立体像」を合成する、視神経と画像処理脳のマッサージのようなものである。

こちらから好きな写真を選んで、お試しあれ!

ちなみに私が好きなのは、水が揺らいでいる立体視
きれいなお姉さんと立体的に出会いたい人は、こちらはいかが?

Good Luck!
posted by ヒロさん at 08:26 | Comment(4) | TrackBack(1) | 視力回復への道

2006年04月27日

神々を論じる前に、「一神教」と「多神教」の基礎知識

宗教学を勉強していない素人の頭で、一神教と多神教について考えてみているが、かなりの下調べと整理が必要だなぁと感じている。こういうときは(というか、いつもそうだが)素直に「検索」をかけて勉強したほうがよい。

ウィキペディア:「一神教」
  • 唯一神教(monotheism):他の神々の存在を認めない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など。
  • 拝一神教(monolatry):他の神々の存在を認める。古代イスラエル民族の宗教など。一神崇拝ともいう。
  • 単一神教(henotheism):他の神々の存在を認める。特定の一神を主神として崇拝する。古代インドのヴェーダの宗教など。
  • 交替神教:他の神々の存在を認める。崇拝する神が交替する。バラモン教など。

  • 現代の一神教といえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で「他の神々の存在を認めない」という。「他の神々」にどれほどの寛容を示すのかどうかは、宗派や個人に負うところが大きい。過去に遡ると、古代イスラエルの宗教や、インドのヴェーダの宗教もある。

    大乗仏教伝来の過程で、ガンダーラ時代に西洋のキリスト教の教義の影響を受け、西方にある聖地エルサレムが、西方浄土に転じた浄土信仰の発生につながったとする考えがあり、これが阿弥陀仏への一神教的な信仰形態の類似性の理由であるとする見方がある。 紀元前1世紀ごろから造られ始めた法華経の釈迦牟尼仏も、一神教的な信仰形態であり、法華経の中では他の仏は釈迦牟尼仏を褒め称える存在に過ぎない。

    阿弥陀信仰や法華経の釈迦牟尼仏も、一神教的であるという。浄土信仰はキリスト教の影響あり、とかかれているが、ゾロアスター教の影響もある。

    唯一神教はユダヤ教だけに興り、現在はユダヤ教と、それをから派生したキリスト教、それから大きく影響を受けたイスラム教に引き継がれている。なお、ゾロアスター教はアケメネス朝ペルシャ時代の宗教の研究から、実態は必ずしも一神教でないことが解っている。

    ゾロアスター教は、光明神アフラ・マズダの一神教ともいえるし、破壊神アーリマンと対比した二元論の多神教ともいえる。

    日本の宗教は、大部分、実態的に一神教である。少なくとも、宗教を持っている人は、拝一神教である。<中略>
  • 日蓮宗・・・・日蓮上人は、法華経のみが正しく、他は間違っているとして、激しく攻撃した。「念仏地獄、禅天魔、真言亡国、律国賊」 現在の大教団の創価学会、霊友会などは皆日蓮宗の流れであり、日蓮上人の国立戒壇の目標は依然残っている。
  • 浄土真宗・・・・親鸞聖人は、末法の世では阿弥陀仏のみが救ってくれると教えた。また、阿弥陀仏以外の諸仏や菩薩や諸神を排斥した。和讃でも「日本の神を信じている人を嘆いている」のが有名である。だから門徒では家では神棚を祭らなく、神棚を取り外した逸話が褒められて伝えられている。これが一向宗とも呼ばれる理由である。
  • 日本曹洞宗・・・・道元禅師は、坐禅のみが正伝の仏法とした。「念仏は、田んぼの蛙が一日中鳴いているのと同じで価値・意味がない」と言っている。
  • 浄土宗・・・・法然上人は、末法の世だから人の質が悪くなり、聖道門(それまでの仏教の教え)では救う力がない、「阿弥陀仏だけを信じろ」と勧めている。

  • 昨日まで日本の宗教を「一神教」として感じたことのなかった私である。グローバル宗教ではないが、ローカル宗教としての一神教である。日蓮宗が「一神教」としての性格が最も強いと思ったのだが、これももう少し考えてみる必要がある。

  • 神道系を見た場合も、同じである。表面上は、様々な神を拝むが、その個々の神々の教えが明確ではなく、むしろ明確にする必要を感じない信仰である。
  • 先祖崇拝での信仰対象も「固有の性格がなく、漠然とした抽象的な、人間を超える存在」という位置付けであり、日本人の神を崇拝するのと先祖を崇拝するのには、余り違いはないのが、実態である。

  • 「神道系」とはいっても、教派神道のいわゆる新興宗教は、やはり一神教が多いのではないか。これは「仏教系」も同様で、たとえば「幸福の科学」は「主エル・カンターレ(釈迦大如来)」を本尊としているので、仏教ということになる。その他の新興宗教の本尊・祀神をいずれ調べてみるとしよう。

    では、次に多神教。

    ウィキペディア:「多神教」
    文化人類学などで初期の頃、原始宗教やシャーマニズムなどの多神教が発展した頂点に一神教が存在するとした進化論的な考えは現在では否定されており、宗教の形態に序列はない。多神教は具体的に言うと、日本の神道、中国の道教、インドのヒンドゥー教などが現存する代表例である。

    日本の神道、中国の道教、インドのヒンズー教を多神教としている。それにしても、記述が少ない。

    多神教
    E. B. タイラーは多神教は精霊崇拝の段階に続いて現れ,そこから一神教に進化すると説く。C. P. ティーレはアミニズム,多霊教の劣等自然宗教の次におこるのが高等自然宗教の多神教であるという。これらの宗教進化論に対し,人類の始源の宗教形態は一神教であるとする文化史学派がある。多神教の成立には祖先崇拝,自然崇拝,英雄崇拝,さらには職業の分化に伴う職業神・文化各般にわたる守護神の発生が重要である。しかし,何といっても民族の混合,わけても広範囲の民族が政治的に統一される場合に多神教の現出が著しい。その例は古代エジプト,バビロニア,インドに顕著にみられる。

    「多神教」→「一神教」という宗教進化論は物議を醸す。「広範囲の民族が政治的に統一される場合」に多神教は出現するそうだ。

    最後に、いつもお世話になっている松岡正剛センセ。

    松岡正剛の千夜千冊『モーセと一神教』ジグムント・フロイト
      フロイトは紛れもないユダヤ人である。むろんユダヤ教に対しては敬虔な気持ちをもっている(フロイトは社会的にはカトリック教会に親近感をもっていた)。
      一方、モーセはユダヤ教を開始した張本人である。モーセによって一神絶対者としてのヤーウェ(ヤハウェ・エホバ)が初めて語られ、初めて「十戒」が定められ、初めてユダヤの民が選ばれた。割礼も始まった。ということは、こう言ってよいのなら、それまで歴史上、ユダヤはなかったのだ。ユダヤ人もいなかったのだ。
      しかしそのフロイトは本書において、なんとモーセはユダヤ人ではなくエジプト人であると断定したのである。それだけではない。フロイトは、モーセはエジプト第18王朝のアメンホーテプ4世が名を変えてイクナートンとなったときに、ごくごく限られた宮廷集団で信仰していた「アートン教」の“直系”だとみなしたのだった。

      フロイトの仮説が何を示しているかというと、「エジプト人モーセがユダヤ教を作った」ということを告げている。まさにパウロがキリスト教を作ったように、だ。
      しかしパウロが作ったキリスト教は「キリスト人」とか「キリスト民族」という血の創造ではなかった。パウロはそこまでの創作はしていない。パウロがしたことは情報の編集である。けれどもフロイトによれば、モーセはユダヤ教を作っただけでなく、ユダヤ人を作ったのである。実際にもそれまでユダヤ人の母集団であるセム族とヤーウェとはまったく結びついていなかったし、だいたいヤーウェという神の名がなかった。またセム族の集団や部族が割礼をするということもなかった。割礼はエジプト人の一部の慣習だった。
    posted by ヒロさん at 06:17 | Comment(51) | TrackBack(0) | 神話・宗教・民俗学

    2006年04月26日

    「一神教」で分裂する地球に、ホトケの御心が輝くとき

    イギリスにいる韓国の人と茶飲み話をしていたら、宗教の話になった。イギリス国教会に通っているキリスト教徒だが、仏教は嫌いだというので、どうして嫌いなのかを訊いてみると、「頭を地面に擦りつけるようにして、お祈りをするのがイヤ」なのだという。

    uumin3の日記:「跪礼」(2006/4/23)
     跪礼が日本文化に定着していなかった理由はさまざまあろうとは思いますが、以前から気になる一節が日本書紀にはありまして、これは天武帝の勅として語られるものです。
     日本書紀 巻第二十九
     天武天皇十一年九月(682年)
     九月の辛卯の朔壬辰に、勅したまはく、
      「今より以後、跪礼、匍匐礼、並に止めよ。更に難波朝庭の立礼を用ゐよ」と
     のたまふ。(※難波朝庭…孝徳天皇の朝廷)

    「跪礼(きれい)」は、両手両膝を地面につけての礼拝、「匍匐礼(ほふくれい)」は、同じカッコウで軍隊の「匍匐(ほふく)前進!」をする礼拝。これを禁止して、唐風の起立礼(=お辞儀)にしましょう、という政令である。

    天武天皇は「反百済」のクーデター政権だが、いままでの「九州王朝=倭」の風習と決別するために、この「土下座礼拝」を禁止したのだろうか。清朝や満州国では「三跪九叩頭」があったが、朝鮮半島では現代もこの風習が残っているようだ。(写真は、WTO総会に抗議する韓国の団体。2005年12月の香港)

    朝鮮半島の女性たちは「片足立て膝」という座り方をするが、中世の西日本でも、この風習が残っていたという。野村雅一 『しぐさの世界―身体表現の民族学』(NHKブックス 1983)にその話が載っているらしいが、イギリスからは手に入らないので、興味のある方はどうぞ。

    さて、先の韓国の人の話だが、「土下座は嫌いだから仏教は嫌い、キリスト教はすばらしい!」というので、少し鼻を折ってやろうと思い、私は「仏教もキリスト教と同じで、一神教なんですよ」という話を始めた。

    「キリスト教は、唯一絶対の神といいますけどね、大天使とか守護エンゼルとかいるじゃないですか。これは仏教も同じで、弥勒菩薩やら観音菩薩やら、やたらとホトケ様がたくさんあるように見えて、中心にあるのは『宇宙の法』で、これが絶対神に相当するんですよ・・・」

    と説明したが、まったく聞く耳を持たないようなので、途中でやめることにした。

    一神教は自己主張が強い。人の心の中にズカズカと入り込んできて、全面的な帰依を要求する。「神は私生活も見ている」とかいって、公安や秘密警察まで送り込んでくる。一神教の神さまに惚れ込んで、参りましたと“無防備都市宣言”をする人もいるが、人さまに対しても「無防備はすばらしい、あんたも無防備になりなさい」と押しつける困ったさんもいる。

    押しつけといえば、キリスト教には「黄金律」というのがあって、私は「Do to others as you would be done by.」で覚えたが、聖書のバージョンによって表現はさまざまである。

    ◆ルカ福音書6:31 (聖書検索はこちら)
  • Treat others the same way you want them to treat you.
  • Just as you want others to do for you, do the same for them.
  • And as you wish that others would do to you, do so to them.
  • And just as you want men to do to you, you also do to them likewise.

  • 自分だったら「こうされたい」と思うことを、人にもやってあげなさい、である。一方、これに対応する仏教の「黄金律」は、「自分がされてイヤなことは、人にもしちゃダメだよ」である。

    1) 私はAをされると気持ちいいから、人にもAをやってあげよ〜うっと。
    2) 私はBをされるのはイヤだから、人にもBをするのはやめよ〜うっと。

    「黄金律」というからには、キリスト教的な「利他愛」と、仏教的な「慎み」の両方をカバーしたいところだ。願望達成法にも似たような話があって、「自分がやりたいことを全部書き出す」ことがよく奨められているが、これを裏返しにして「自分がやりたくないことを全部書き出す」から始めたほうが、心が整理されていくこともある。

    仏教で冷たいなーと思うことは、「成仏の輪廻転生ゲーム」というやつである。自分が成仏すると、サッサと「あがり」となってしまうので、この世に来るのは未熟者ばかりである。成仏したセンセたちの教職員組合はどうなっているのだろうか。あるスピリチュアリズムの教えでは、地球は劣等生ばかりが集まる、全宇宙で最低レベルの星ということなっているようだが・・・・。

    これではいけない、ということで、『法華経』では「久遠実成(くおんじつじょう)」のホトケが登場している。お釈迦様は、自分だけが悟って、サッサと天上界にいった非情な人じゃありませんよ、とっくの昔に悟っていたのに、何度も転生して、教えを説いているんですよ、という話。何度でもこの世にあらわれて、地球上の全ての人が「成仏」するまで、辛抱強く教えを説く。もはやブッダという個人の枠を超えて、「宇宙の慈悲」としての一神教である。

    佐藤弘夫 『偽書の精神史』(講談社選書メチエ) p24
    日蓮は久遠実成の釈迦を、キリスト教やイスラム教の神のような絶対的存在として実体現した。その上でこの経文を拠り所として、虚空会で釈迦で地涌の菩薩に授けたという法が『法華経』の題目であると解釈した。さらにその弘通(ぐずう:教えを広めること)を委託された地涌の菩薩とは、日蓮とその一門にほかならないとした。

    その意味で、この「久遠実成」を説く日蓮宗系は、仏教の中でもとりわけ一神教的なのである。一神教であるがゆえに、排他的かつ強権的であり、その結果引き起こした昭和ファシズムの反省と総括は、知らんぷりをしている。

    戦前の神道系の日本原理主義が「天皇万歳」の一神教であったと考える人がいるかもしれないが、教派神道の中心にいた大本教は「万教同根」を主張する国際協調主義であり、大アジア主義である。「現人神」の天皇を利用したのは、むしろ狂信的な日蓮主義者ではなかったか。

    本村凌二 『多神教と一神教』(岩波新書 2005) p214
    たとえば、前216年、ローマ軍はハンニバルの率いるカルタゴ軍に大敗北を喫した。いわゆるカンナエの戦いであるが、その死者数を上回る戦闘は第1次世界大戦までなかったといわれるほどである。このときローマ人はかかる大敗北の原因として自分たちがあがめるべき神への崇拝を怠ったからではないかと自問する。地中海世界で広く霊験さらたかと信じられていた巫女シビュラの予言にうかがいを立てると、それは小アジアのキュベレ女神であるという。このようにしてキュベレ女神の聖石は大母神としてローマの都に迎えられ、その祭礼の跡は今日でもパラティヌス丘に残されている。

    最近ぼんやり考えていることだが、戦前の日本が「崇めるべき神」とは、何だったのだろうか。それは、多極主義の大本教と、知行合一の陽明学ではなかったか。大本教の神殿をダイナマイトで吹っ飛ばしたことで日本の「霊力」が弱ってしまった。陽明学派が十分に育たなかったため、日蓮宗の暴走(=皇道派)と国際財閥による浸食(=統制派)を食い止める、理性的な行動集団が不在になってしまった・・・・。

    それはさておき、上記の『多神教と一神教』という本では、「表音文字」の導入が「一神教」が広まる要因の1つではないか、と考察しているので興味深い。「表音文字」とはアルファベットのような文字であり、一方その対極にあるのが「絵文字」としての漢字である。日本は「表音文字と絵文字の混合」であり「神仏習合」である。

    表音文字が導入されるとどうなるか。

  • 「最小の原理」で「万象」(あらゆるコトバ)を目指す志向
  • 多くの人が学習可能になり、文字は「神聖」から「世俗」へと移行
  • カタログ的な多様性と混沌を毛嫌いする思考
  • 「文字依存症」が起こり「記憶力」「イメージ力」の減退

    といった「表音文字」効果が表れてくる。その意味で、一神教の拡大とは、「神聖の体験」を「脳内のコトバ」に置き換えてしまう人たちの増加であり、文字の記録力に頼って、神々のささやきを聴く力を喪失していく信仰なのかもしれない。

    ■■■■■■卍■■■■■■  

    今日、キリスト教とイスラム教という2大「一神教」が、世界の人口の半分を覆っている。この2つの宗教を調停できるのは、「ゆるい一神教」としての仏教ではなかろうか。

    中共の侵略によって、チベット仏教の寺院はほとんどすべて破壊された。誠に不幸な事件ではあるが、その一方で、ダライラマは世界中を駆けめぐり、その非暴力と非報復の精神を全世界に訴え続けている。国を失いながらも信仰を守る続ける姿に、2000年前の過去とダブらせるユダヤ教徒たちとの間に、共感と連帯が生まれている。

    また、ダライラマが最初にインドを訪れた年(1956年)に、奇しくも不可触民の社会運動家アンベードカルが、50万人の同胞を引き連れて、仏教に改宗している。その後、ダライラマはインドに亡命し、アンベードカルが起こした「新仏教」は燎原の火のごとくインドに広がっている。

    この2つ仏教は、水と油のような存在だ。一方は「輪廻転生」と「シャーマニズム」を全世界に知らしめ、もう一方は「現世の救済」と「理性の改革運動」でインド社会を根底から揺さぶっている。だが、いずれこの2つは、協働して1つの流れに合流していくのではないか。

    これに加えて、「日本的霊性」と「森の思想」の影響を受け、「漢字とひらがな」で育った日本の仏教界が連なっている。世界に対して、何ができるか、わがニッポン。
  • posted by ヒロさん at 10:55 | Comment(22) | TrackBack(1) | 神話・宗教・民俗学

    2006年04月24日

    「北朝」の明治天皇が「南朝」を復権させたのはなぜか

    私が高校のときに、5段階評価で「2」をつけられた科目がある。それは「日本史」。

    日本史で気に入らなかったのは、1度も足を踏み入れたことのない「関西」がやたらと舞台になっていて、しかも国語では習わない、正則以外の「漢字の読み」が溢れかえっていたことが原因か。倫社、数学、英語、生物、それから大学受験のための世界史以外、日本史なんか、な〜んにも知らない、高校時代を送った。

    大化の改新があって、聖徳太子と仏教の奈良時代があり、なくよ(794)平安京で女流文学が栄え、源平の合戦のあとに、いいくに(1192)つくるの鎌倉幕府があり、元寇ですったもんだのあとに、後醍醐天皇と足利幕府が登場し、織田信長と豊臣秀吉の戦国時代があって、関が原の戦いで徳川時代が訪れ、鎖国をしているうちに、黒船がやってきて、明治維新で欧米を見習って近代化して、日清戦争と日露戦争はうまくいったけど、太平洋戦争で壊滅しましたとさ、という程度。

    そんな私が、とりわけサッパリわからなかったのが、南北朝時代。数字の並びがよかった「1333年、後醍醐天皇による建武の新政」は覚えたが、あれっていったい何だったのだろうか・・・という疑問を抱いてから数十年。今日もお勉強だが、「明治天皇は替え玉でニセモノ」の理屈を知りたい方は、最後までおつき合いを。

    ウィキペディア:南北朝時代(日本)
     近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐり、南北朝正閏論と呼ばれる論争が行われてきた(閏はうるうと同じで「正統でないけど偽物ではない」の意)。<中略>
     徳川光圀は徳川氏の祖とされた新田氏の正統性を示すため、「大日本史」で南朝を正統であると提示した。また同様に南朝正統論を支持した頼山陽後小松天皇(北朝)は後亀山天皇(南朝)から禅譲を受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した。
     一方、当時の公家社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔であり(多くは家督を巡って南北に分裂した)北朝正統論が強く、柳原紀光ら公家出身の歴史家の多くが北朝正統論を支持した。

    後小松天皇(北朝)や後亀山天皇(南朝)と言われても、そんなもの知らんわい、という人は、とりあえず南北朝 天皇家系図をどうぞ。

    この南北朝の戦いは、結局は「北朝」の勝ちとなって、足利幕府へとつながっていくわけだが、水戸黄門さまが「ちょっと待ったー」と印籠をちらつかせ始めた。この流れは、北畠親房の『神皇正統記』から続いているもので、水戸藩は「真実の歴史」を追求するために、財政の23%を費やし、足掛け250年をかけて『大日本史』を完成させている。

    大日本史
     こんな彼(=「水戸黄門」こと徳川光圀)が朱子学の大先生である朱舜水と出会って、水戸藩で独自の歴史書を作ろうと考えたのです。そして彰考館という歴史研究所を作り、「大日本史」の編纂を命令しました。
     光圀が作った歴史研究所である彰考館のスタッフには当時の有名な学者をそろえました。彼らは崎門学派が大部分で幕府の儒教顧問である林家の弟子達ではありませんでした。林家が天皇家の先祖はチャイニーズだったなどと余りに近視眼的なことを言い出したので信用しなかったのでしょう。<中略>
     光圀という人は経済観念がまるでなかったらしく、35万石の水戸藩で歳入の23%にあたる8万石を毎年大日本史編纂事業に投じたのです。1657年に編纂を開始し、1709年に本紀・列伝という主要な部分が完成し、1720年に幕府に献上されました。そして1810年に朝廷に献上されましたが、幕府に献上されたものと違って問題部分を削除したものでした。そして一般に売り出されたのは1848年のことでした。最終的に完成したのは1906年(明治39年)です。中断した時期もありましたが、250年かかってしまいました。

    『日本書紀』に匹敵するような大編纂となった『大日本史』では、「南朝こそ正統なり、北朝に肩入れした足利氏は逆賊なり!」と主張しており、明治維新前の尊王論(=「幕府よりも天皇が大事」論)をおおいに盛り上げた。

    「明治天皇=大室寅之祐」説を主張する、鹿島昇『裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』によると、吉田松陰や藤田東湖も「南朝尊王論」を主張していたという。

    れんだいこ:鹿島説の吉田松陰論
    吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も上述の観点に立って南朝尊皇且つ攘夷を主張した。但し、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖ではその内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。

    吉田松陰は1850年に長崎に遊学したが、読んでいた本のリストには、さらに過激な「南朝正統論」である三宅観瀾の『中興鑑言』が入っていた。

    吉田松陰研究C
    1.長崎滞留中の松陰の読書(28〜29冊)
    • 『中興鑑言』(三宅観瀾著 南朝正統論を主張)(『皇学叢書』12巻 昭和3年所収)
    • 『海防説階』(足代弘訓著 『日本海防史料叢書』4所収)
    • 『穀堂文』 3冊 (古賀穀堂著『穀堂遺稿抄』のことか)
    • 『新策』(頼山陽) 4冊(『頼山陽全集』所収 天保13年版4冊静嘉堂外)
    • 『国性爺忠義傳』 5冊(う飼信之?著)
    • 『海国聞見録』(清の陳倫炯=ちんりんけい著) 1冊
    • 『南郭文』 4冊(服部南郭著『南郭詩集』か『南郭先生文集』か)
    • 『洗心洞箚記』(せんしんどうさっきG28頁。大塩平八郎著。1835年刊)5冊(岩波文庫 昭和15年刊所収)
    • 『漂流人申口』(レザノフが津太夫らの漂流民を送還) 4冊
    • 『夢物語』(高野長英著。1838年) 1冊(『日本海防史料叢書』4所収)

    『中興鑑言』(ちゅうこうかんげん)のイメージ写真は、こちら、または、こちらでどうぞ。

    吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である。

    「明治天皇」は暗殺されていた!!
    1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
    2) 孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった。
    3) 薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。

    将軍家茂は、慶応2年(1866年)の6月25日に急死。20才。
    孝明天皇は、慶応2年(1866年)の12月25日に急死。36才。

    この2つの急死はあまりにも怪しい。「明治天皇=大室寅之祐」説では、さらに半年後に孝明天皇の皇太子(睦仁親王)も暗殺され、明治維新では、南朝の大室寅之祐が(替え玉として)即位した、というシナリオである。

    南北朝正閏論纂(4)
     江戸末期から明治10年頃までは、世の中は南朝正統説一色になって、他の説は皆無になったとあります。つまりは、この時期、南朝正統説などという説は存在しなく、誰疑う事の無い歴史的事実とされていたという事でしょうね。
     明治10年、元老院では『皇位継承編』を作成し、後醍醐天皇は偽神器を光厳天皇に渡したとする公式見解を発表しました。これにより、隠岐に流された当時の後醍醐天皇は、皇位を保持していたとされました。もちろんそれ以降、後醍醐天皇がただの一度も神器を手放した事はないとしているのは当然の事です。
     この後宮廷史局による『大政紀要』などが出たほか、各界の南朝支持が続き現在(明治末期)にいたるのだそうです。

    正統性の証となる「三種の神器」は、南朝から北朝に禅譲されたことになっていたが、実は「ニセモノ」だったよー、という話。明治10年には『皇位継承編』と『大政紀要』が発表され、明治天皇自らが「南朝正統論」を宣言したことになる。その結果、さまざまな歴史の書き換えが進むことになった。

    ウィキペディア:天皇の一覧 (抜粋・一部短縮編集)
    明治以前の歴代天皇(帝)は、現在とはいくらかちがっていた。明治時代に歴代天皇の変更が行われた。これらの変更については、水戸藩による『大日本史』・水戸学および尊王論の影響によるものとされている。
    • 明治以前は神功皇后を15代の帝と数えていたが、歴代天皇から外された。
    • 壬申の乱で敗死した大友皇子は、即位が確認されたとされ、明治3年に「弘文」天皇した。現在では非即位説が有力。
    • 47代「淡路廃帝」に対して明治3年に「淳仁」と追号した。
    • 承久の乱に敗れた「九條廃帝」は天皇に数えていなかったが、明治3年に「仲恭」と追号した。
    • 明治44年に明治天皇の命令で、南朝2代を正統な天皇と認め、従来の96〜100代の天皇を北朝として正統から外した。
        *義良親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後村上」天皇とした。
        *熙成親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後亀山」天皇とした。
    • 大正15年に大正天皇(実質は摂政の裕仁皇太子=昭和天皇)の命令で、南朝を正統とした後も即位の是非で意見が別れていた寛成親王を、即位が確認されたとして「長慶」天皇とした。

    「南朝正統」による歴史の書き換えを画策したとはいえ、北朝派の勢力はたくさんおり、歴史を一気に抹消するのは不可能だ。

    ウィキペディア:皇国史観
    南北朝正閏論
     1911年(明治44年)、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡以後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。
     現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では南朝を正統と唱えていた。また幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。

    1982年の「侵略→進出」書き換え事件にも匹敵する、1911年の「教科書書き換え事件」である。小学校の歴史教科書で「南北朝時代」という記述は、圧力によって「吉野朝時代」に変えられてしまったのだ!!

    次第に天皇は神格化され、学問と言論の自由は、紆余曲折をへて、抑圧・統制されていく。

    ◆ソース同上
     当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと機を一つにする。

     その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、大正24年(1935年)、美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも関わらず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には早稲田大学教授津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。

    「明治天皇=大室寅之祐」説をさらにバックアップしているのが、明治天皇の正妻・一条美子(いちじょうはるこ)が、「昭憲皇后」ではなく「昭憲皇太后」と追号された問題である。

    なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか?
    ところがこの御祭神名について有識者の中から疑問の声が出てきたのです。理由は
    • 両陛下を相並んでお呼びする場合、「天皇皇后両陛下」と称するのであって「天皇皇太后両陛下」とは称さないこと。「皇太后」は天皇の母親の意味であること。よって明治神宮の御祭神は御夫婦であられるから「明治天皇・昭憲皇后」が正しい。
    • 亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「皇太后」の称号は「皇后」より下の位になる。だから昭憲さまは生前「皇后」でしたので、「昭憲皇后」と称するのが正しいことになる。

    明治天皇にすり替わった大室寅之祐は、「新王朝」あるいは「南朝復興」の天皇だったが、後宮の勢力を一掃できず、いいなずけの「正室」はそのまま残ってしまった。大正天皇は、明治天皇と側室・柳原愛子の間に生まれており、真相を知っていた大正天皇は、一条美子を「皇后」とは呼べず、1代前の「北朝の正室」とみなして「皇太后」にした、ということ。

    今回は取り上げないが、大正天皇は反骨精神と自由の気風を大切にする人で、これを封じ込めるために軍部は「精神異常者」のデマを流したのではなかろうか、と思う。


    ■追加:それでも万世一系は成立するという主張
  • 足利簒奪、南朝革命、それでも「万世一系」は成立する─男系皇位継承の奇跡
  • posted by ヒロさん at 05:39 | Comment(22) | TrackBack(1) | 日本史・世界史

    2006年04月22日

    つくる会騒動の謎解き:保守派に紛れ込む「カルト思考」

    「つくる会」の内紛をシャーロック・ホームズのように謎解きしていた「西尾幹二のインターネット日録」だが、4月19日の記事をもって、謎解きは終了したようだ。

    西尾幹二のインターネット日録:「怪メール事件(四)八木秀次氏の犯罪の可能性を立証」(2006/4/19)
     11月と1月の理事会で私は私が「四人組」と名づけた固い団結の分派活動に、異質の政治性を見た。会を呑み込まんとする陰険なネットワークの暗い闇を感じた。「四人組」とは新田均皇學館大学教授、内田智弁護士、勝岡寛治明星大学職員、松浦光修皇學館大学助教授であり、それに宮崎正治前事務局長がからむ。彼らは昭和44年5月発足の全国学生連絡協議会という早大を中心とした右派系学生運動の一団につながる。

    文化大革命の「四人組」(江青、張春橋、王洪文、姚文元)になぞらえられたのは、以下の4人。

  • 新田均(皇學館大学教授)
  • 内田智(弁護士)
  • 勝岡寛治(明星大学職員)
  • 松浦光修(皇學館大学助教授)

    これに加えて、紛争が表面化する引き金となったのが、宮崎正治(つくる会前事務局長)だ。さしずめ彼は、文化大革命の黒幕として知られる「康生」か。

    ◆ソース同上
       彼らの目的は歴史教科書ではない。政治的支配権そのものが狙いだ。そして、新田氏の早大大学院政治学科の後輩である八木秀次氏は会長である立場を忘れ、昨年10月頃から事実上このグループの一員となって行動している。
       「四人組」は私に言わせれば「つくる会」の一角に取り憑いたガン細胞のようなものであって、放って置けばどんどん増殖するだろう。新しい理事として昔の組織の仲間を多数入れて、やがて八木氏も追い払ってしまうかもしれない。思い切って切除し、今のうちに強権で排除するか、それができなければ会そのものをスクラップにするしか、増殖を阻む手はない。Scrap and build againである。

    一連の暴露記事で、西尾幹二は歯に衣を着せず、「ガン細胞」というコトバすら出てくる。上記のエントリのコメントには、「4人組+α」をさらに詳しく分析した投稿も出ていた。西尾幹二によれば、投稿者は「著作もある若い思想家」で、「背景の諸事情によく通じている人」であるという。

    ◆ソース同上 (投稿者:ストーンヘッジ 2006/4/20 22:45)
      今回明らかになったつくる会の問題は、実はつくる会内部の問題だけではありません。もっと大きな保守界全体の問題であるということをまず指摘しておきたいと思います。まだこのブログ、ならびにインターネットの掲示板などでも指摘されていない重大な事実があります。それは、「なぜ宮崎正治事務局長を解任しようとしただけで、4人組(松浦光修、勝岡寛次、内田智、新田均)が反対したのか」というところに最大の鍵があるということです。<中略>

      まず、西尾先生がお書きになられているように、昭和44年の全学協というものが発足したとあります。しかし、そのさらに3年前に通称、生学連、生長の家学生連盟という組織が作られていた事実に目を向けなくてはなりません。生学連とは宗教団体である生長の家の学生組織です。保守系の学生運動では強い力を保持していた団体でありました。その中心的人物が日本会議事務総長の椛島有三であり、日本政策研究センターの伊藤哲夫であり、今回辞任に追い込まれた宮崎正治つくる会事務局長だったのです。

      また、あの4人組のうち3人は早稲田大学出身です。しかも3人とも同じサークルに属しており、そのサークルこそが早稲田大学ニューソート研究会というサークルだったのです。ニューソートとは生長の家の教えのことです。この組織は谷口雅春を教祖と仰ぎ、その思想を実践し、学生をオルグする集団です。生学連のトップだったのが長崎大学教育学部出身の日本会議事務総長の椛島でした。ちなみに、長崎大学は現在でも生長の家系のサークルが学生自治会を乗っ取っているという全国でも珍しい大学であります。大学自治会のほとんどは左翼に乗っ取られています。長崎大学教育学部自治会だけは生長の家のサークルが持っています。

    個人的には、生長の家の「ニューソート(New Thought=新思考)」には好意的な印象をもっている。「思ったことは実現する」「この世の事象は、すべて潜在意識の表れ」のように考えるグループで、渡部昇一がペンネーム「大島淳一」で長年紹介してきたジョセフ・マーフィーも、これに分類される。

    ◆ソース同上
      この生長の家系保守派学生運動の一連の流れの中で大きな力を持っていたのが早稲田大学、九州大学、長崎大学の3校でした。そのうちの早稲田大学出身なのが勝岡寛次、内田智、新田均です。新田均と内田智は同学年、一つ上の学年なのが勝岡寛次に当たります。彼らの運動方針に「生学連の会員は、谷口哲学と生学連運動方針に対し絶対の忠誠を誓う誓約者でなければならない」いうものがあります。さらに、「生長の家の教えを理論化するのが教育学だ」と説くのがあの高橋史朗です。高橋史朗は今回辞任した宮崎正治事務局長の早稲田大学時代の後輩に当たり、つくる会の内部においても宮崎事務局長は高橋史朗を「高橋君」と呼んでいたのはその所以である。<中略>

      さらに言うと、生学連が大きく発展してできた組織が日本青年協議会です。30周年を迎えた団体であり、この日本青年協議会が日本会議を実質的に動かしています。その証拠に日本会議と日本青年協議会の住所を見比べると、同じマンションの同じ階になっています。そのことからも察して頂けると思います。

      従って、生学連のトップを務めていた椛島事務総長が日本会議を仕切り、生学連の流れを組む日本青年協議会が日本会議を仕切っているとあっては、今回の一連の行動は幕屋云々や他の宗教団体などという問題では全くありません。これはあくまで生長の家の問題なのです。彼らの意識の中では当初からつくる会よりも日本会議、さらにそれを動かしている日本青年協議会こそ第一に置く見方をしていたのです。彼らは「日本会議を動かしているのは我々日本青年協議会である」という意識を常に抱いて行動しています。その日本青年協議会のあくまで「出先機関」としてつくる会を考えていたわけです。彼らの一人が言ったセリフで「つくる会の執行部に西尾と藤岡を据えているのは客寄せパンダになるからだ。私たちが実質的につくる会を動かしているんだ」と言っているのを聞いたことがあります。

      つまり、今回の宮崎正治の辞任問題に関して言えば、いわば「出先機関の客寄せパンダごときが本部のお目付け役をクビにするなどとはどういうことか!」というのが今回の真相なわけです。ですからつくる会は、初めのうちは心ある知識人の「日本の歴史教科書を良くしよう」という心から始まった活動だったのが、知らず知らずのうちに生長の家グループの組織構造の中に投げ込まれていったというのが真相であります。

    この件は、私も「つくる会」と「日本会議」を支える、宗教団体の顔ぶれを書いたときから、気になっているものである。

    ◆ソース同上
      生長の家がなぜ危険なのかと言いますと、いわば一種のカルト的要素を保持しているというところです。戦前の八紘一宇の精神をさらに突き詰めて、「天皇国日本の下に全てを従える」という独善的な発想があるのです。そのことを指摘しておかなければならないと思います。<中略>

      なお、現在は生長の家本体と日本青年協議会や日本会議との関係は非常に弱くなっています。その背景には谷口雅春の死去後に教団を継いだ2代目と3代目が左翼的思想の持ち主であり、谷口雅春の本を次々に廃刊に追い込んでいるという事実があります。いわば谷口雅春的な右派から政治色を除いた純宗教的な左翼的宗教になっているのです。そのあたりの確執から生学連は生長の家という名前を捨て、日本青年協議会あるいは日本会議という組織に生れ変わり未だに保守界の中で活動しているのです。

    生長の家の2代目は、「天皇教」をやめて、むしろ「左翼」に転向してしまっている。

    絶版は一出版人として納得できない!
      『台湾人と日本精神』の文庫本(小学館)が復刊されるという『産経新聞』(8月3日朝刊)の記事を読み、さっそく書店で買いました。平積みの文庫復刻版を手にしている若者の姿を目にし、「これで多くの人が読むことができる」という安堵感とともに、「なぜ、こんな素晴らしい内容の本を“絶版”にしてしまったのか!」と、改めて日本教文社と生長の家に対し、悲しみと怒りがわき上がってきました。
      『産経新聞』の記事によれば、関係者らは「復刊できてホッと」しているとのことだが、これで3月の絶版事件を引き起こした日本教文社と生長の家の責任が回避されるわけではない。今回の復刊実現に力を尽くされた小学館の雑誌「SAPIO」の竹内編集長の「蔡さんは日台の懸け橋としてかけがえのない人。その著書を日本の読者の前から消し去ることは、一出版人として納得できない。」というコメントや、「私の気持ちはまったく変わっていません。国を愛し、先祖を愛し、日台友好のために死ぬまでがんばらせてもらいます」という蔡焜燦氏の談話を読むにつけ、著者の権利を一方的に踏みにじった日本教文社と生長の家の谷口雅宣副総裁の犯した罪は重いと言わざるを得ない。

    日本教文社は生長の家の出版社である。台湾語でいう「日本精神(リップンチェンシン)」のことを書いた本だが、出版の準備が順調に進んでいたところが、「政治には関わらない」という2代目さま(=谷口清超)と3代目候補さま(=谷口雅宣)のご意向で、出版が中止されたという事件だ。詳しく知りたい方はこちらへ。

    生長の家
    谷口雅宣先生は祖父・谷口雅春先生の右翼的な主張(明治憲法復興、天皇信仰)を退け教義を現代化する動きを見せており(右翼的な思想を残すことは教団の世界進出にあたり、とくに韓国・中国への布教に対して大きな障害となるため)、これがもとで古株の信者の間では谷口雅春の思想に立ち返る「原理主義」運動が起こり、後継者・谷口雅宣に帰依する者との間で紛争が起きているという・・・。

    そこで初代・谷口雅春の原点に戻ろうという強力な復古運動の部隊が「生長の家学生連盟」(生学連)であり、そのトップにいるのが日本会議事務総長の椛島有三や、つくる会元事務局長の宮崎正治ということになる。

    問題の「四人組」が属するグループを「カルト」と呼んでいいのかどうかは、議論が分かれるところだが、「つくる会」=「生長の家・天皇崇拝主義」となってしまうのは、さすがにまずいのではないか。

    ■追加:カルトといえば・・・・
  • フランス国営放送の『創価学会―21世紀のカルト』の翻訳
  • フランス議会がセクトに指定した宗教団体の一覧
    参考までに、日本に淵源を発するものとしては、「幸福の科学」、「霊友会」、「清明教」、「神慈秀明会」、「真光(崇教真光)」などが含まれています。SGIフランスについては、そこに「Soka Gakkai internationale France」と表現されています:
  • posted by ヒロさん at 07:20 | Comment(13) | TrackBack(0) | 日本史・世界史
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