2006年05月31日

ファロスと世界樹を廻る「メイポール」のリボン踊り

5月にはイギリス各地のコミュニティで「May Fair」(5月祭)が行なわれる。5月祭の出し物や形式はさまざまだが、中心になるのは「メイポール」だ。

「メイポール」の準備の手順はこちらの写真をどうぞ。伝統的には、サンザシ(hawthorn)または白樺(birch)の棒を使う。柱のテッペンから、数十本の色鮮やかなリボンをたらし、そのリボンの端を持ちながら踊ることになる。

小学1〜2年生の場合は、音楽に合わせて、みんなで同じ方向に回る。リボンは次第に「メイポール」に巻きついていく。ある程度巻きついたところで、今度は逆の方向に回ってほどいていく。

3〜4年生ぐらいになると、右回りと左回りに別れて簡単なパターンをつくる。5年生以上になると、もっと複雑なパターンをつくる。これが大人になると、ポールに巻きつけるのではなく、リボンで「くもの巣」のような模様を編んでいく。必ず、元の状態に解いて終了なので、練習は欠かせない。

Wikipedia:Maypole(English)によると、メイポールはゲルマン民族の祭りで、ドイツ、オーストリア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、フィンランド、スウェーデン、イギリスで盛んだという。ドイツ語では「マイバウム(Maibaum)」と呼んでいる。

このメイポールの柱が象徴するものは、北欧神話に出てくるユグドラシル(Yggdrasil)という「世界樹」である。これを世界中の神話に広げると、ファロス崇拝(Phallus Worship)につながる。

反・ギリシア神話:男根崇拝(Phallus Worship)
  男根原理は、「メイポールmaypole(五月柱)」や「花嫁の杭」のような聖なる杭や柱として、ひそかに崇拝された。「花嫁の杭」は結婚式のとき立てられ、その周囲を「客人たちが、メイポールの周りをまわるように、踊りながらまわった」。スタブズは1583年に、一般の人々が踊りながら、メイポールに花輪をかける様子を描写している。彼はメイポールを「卑しむべき偶像」と呼んだ。古代ローマの女性たちは、「蒔いた種を実らせるために」、神リーベルの勃起したペニスに花輪をかけるのを常とした、と聖アウグスティヌスは述べている。

メイポールのダンスは、結婚の儀式でもある。これにあやかって、小学校の行事でも「May King」や「May Queen」が選ばれて、馬車に乗って登場する。

◆ソース同上
  男根に女性の輪をかける同様の性の儀式は、アントワープではかなり後まで行われた。ここではプリアポスの古い男根像が聖ワルプルガWalpurga〔ラテン語形Walpurgis〕の祭壇の前に立てられた。ワルプルガはかつては「ワルプルギスの夜」(4月30日夜)、つまり「五月祭の前夜」に狂宴を行う女神であった。毎年春の祭りのときに、女性たちはプリアポスのペニスに花輪をかけた。この神の像はナポリの聖なる行列のときに、あごまで届きそうな長いペニスを示しながら、街路を運ばれた。この異常生成物は「聖なる男根」il santo membroとして知られていた。

「メイポール」=「世界樹」=「ファロス」は、女神の火祭り「ワルプルギスの夜」ともつながる。これはケルトの火祭り「ベルテン(Beltane)」に相当する。ベルテンは5月1日が多いが、春分と夏至の中間点を祝ったもので、天文学的には5月5日前後である。

スコットランドの伝統行事・Beltane・五月祭
ベルテンはヨーロッパに古くからある火祭りの一つである。この名称はケルトのBelenusに由来している。ベルタンのかがり火とメイポールは多産と土地の豊穣を祝うものである。 春の女神ペルセポネーは性の経験を積む年齢に達している。<中略>メイポールの周りで一日中ダンスがなされ(今も)夜には恋人達はベルテンのかがり火を飛び越えて夏至に結婚あるいは婚約するかを宣言する。ベルテンは聖なる結婚のときでもあり、その女神と神はメイクイーンとメイキングとして知られている。これらの祭礼は自然の豊穣を祈るものであり、そのかがり火はあらゆる災厄を清めるものと信じられていた。

男女の裸踊りのほうは、さすがに現在は行われていない(はず)。どこかでやっていたら、見に行きたいものだが。

このメイポール祭りは、さすがに日本ではないだろう、と思っていたのだが、2つ発見した。さながら「新体操」と「フォークダンス」を合体した「マスゲーム」のように見える。

  • 福岡女学院:メイクィーンとメイポールダンス
  • 岡山大学教育学部附属中学:メイポールダンス
  • posted by ヒロさん at 06:12 | Comment(12) | TrackBack(0) | 神話・宗教・民俗学

    2006年05月29日

    「同調する体質」にカツを入れるための、ささやかな提言

    アメリカ先住民について、あれやこれやと調べているうちに、以下のような記述に巡り会った。「同調する体質」にどう対処するか、というお話である。

    everblooming:同調する体質(2006/5/14)
      私はけっこうな霊媒体質、というか憑依体質?・・どちらでも良いのですが、そんな体質のため、よくいろんな物を貰ってきます。数日前も、もらってきてしまいました。キャー!(効果音)
      その筋の人にも、貰って来やすいので気を付けてね、と言われるのですが、何をどう気を付けたらいいのかは、今ひとつわかってません。知識はあるんですけど、身に付いてないのですね。一応、貰ったか貰ってないかの区別だけはつくようになりました。前進(・・)
      それで、貰うとね、どうなるのかというと、、もぅ寝る寝る(ーー; 眠くて起きてられないんですよ。起きても目の下にくっきりクマができていたり。<中略>
      なんにせよ、シンクロしやすい体質の方は、ガードする方向に進むよりは、何に同調するかの意図をはっきり持つことが良いのかなと思います。それと、自分の境界域について、学びを深めること。

    このような話は多くの人にとって、どうでもいいことかもしれないが、拙ブログに訪れる人にも、数十人ぐらいは、同じような体質で悩んでいるような気がするので、私の考えをまとめてみたい。

    「霊媒体質」や「憑依体質」という人もいるし、「敏感体質」あるいは「受ける体質」という人もいる。各人の体質の内容は、実はバラバラかもしれないし、受けているものも何なのかわからない。が、私の経験からの想像ではあるが、人混みに行くとすぐに疲れ、人の怒り・恨み・嫉妬で、すぐに具合が悪くなる人のことだとしておこう。

    ■ウツ病の対策をやってみる

    「同調体質」の人は、ウツ病的な症状に近いときがある。「くる」「もらう」「受ける」「かかる」「やられる」というテンコモリの被害妄想である。外に出る、早起きする、日光浴をする、土日は散歩やハイキングに出かける、など。特に、光にあたる時間を増やし、ある程度の運動をしたほうがよい。

    ■今すぐ、掃除をやる、押入れを片づける

    「受ける」という状態は、「たまる」でもあり、「よどむ」でもある。部屋にホコリがたまっていないか。机の上に未整理の書類が散乱していないか。自宅にいる人は「押入れを片づける」というのが特に効く。押入れを片づけると、なぜ体がスッキリするのか、理屈はわからない。が、自分の家に「ゴミの掃き溜め」のような場所をつくって、放置しておく状態と、体に「異質」がたまる状態とは、何らかの関係があるようだ。

    ■原因追究はほどほどにする

    「自分にすべて原因がある」というのは、たぶん真理だろう。しかし「原因」なるものを追いかけても、出口はない。「受けるもの」は何なのか、なぜなのか、と悩んでもロクなことはない。霊なのか、意識なのか、念なのか、波動なのか。そんなことは、どうせわからない。わかる必要もない。原因は「宇宙の森羅万象のすべてだ」と割り切るべし。

    ■「人の気持ちを察するのがいいこと」という考えをやめる

    人間関係で、なぜ彼はああ言ったのか、なぜ彼女はあんなことをしたのか、と1人で悩むことがある。そんなことは、当人に聞いてみなければわからない。実のところ、当人もわかっていないかもしれない。「人の気持ちがわかる」ことが、感受性が高く、人間的である、という考えを捨ててみる。

    ■「自分の気持ち」は整理せよ(でも、迅速に)

    人のことはさておいて、自分がどういう状態になりたいのか、日記に整理する。モヤモヤしている状態は、外に書いて出してしまう。場合によっては、書いたものは「捨てる」のもよし。「たまる」状態は、動きが遅い状態でもある。書いてもいいが、時間を決めて、サッサとやることである。

    ■「孤立、反発、切断、内向」は独創の源である

    あるセミナーで面白い実験をしたことがある。「前後左右の人と、同じになりたい!」と念じて、「0〜9」の10個の数字の1つを書く。そうすると、前後左右で一致する確率が高くなる。一方、「前後左右の人とは、絶対に同じになりたくない!!」と念じて、数字を書く。そうすると、統計的に有意な形で、一致率が低下する。

    「同調」とはすなわち、他人と簡単に共鳴してしまうことだ。「同調」する人は、無意識のうちに「共鳴、共感、連帯、シンクロ」がいいことで、「孤立、反発、対立、切断」が悪いことだ、と考えているフシがある。同調大好きさんは、自分の頭では何も考えおらず、体は「無防備宣言」をしている状態のことだ。

    ■どうせ同調するなら、いいものに嵌れ

    生まれつきの体質なら、どうせ同調するしかない人生である。ならば、いいものに同調して、いいものを繰り返すのも得意なはずである。ワクワクする音楽、キレイなヌード写真、感じのよいセッケン・・・・など。とくに、何十回も繰り返して聞ける「自己実現」や「癒し」のCD、毎日少しずつ読める「セルフヘルプ」の本を見つけた人は、幸いである。

    ■“都合のよい過去”に同調する

    「たった今、宝クジで1億円が当たったと想像してみてください」という訓練がある。何を買うか、どんなことをするか、ありありと思い浮かべてみる。そして、その直後に「当たったと思ったのが、じつはまちがいだったとわかった」と想像してみる。それはもう、ガッカリする。ありありと、惨めなほどに絶望してほしい。

    つまりイメージで気分はかなり左右される。「同調する人」は、「病・貧・争」の悪いイメージをたくさん持っている。なので、過去の体験で「感動、驚き、発見、納得、感謝、喜びetc」だけをリストアップする。このリストをときどき眺めて、随時追加していく。本やCDや映画をあれこれ探すのもいいが、自分の心の中に「キラリと光る映画」がたくさんあることをお忘れなく。
    posted by ヒロさん at 08:07 | Comment(10) | TrackBack(0) | カラダ・気づき・癒し

    2006年05月27日

    偽書の精神史:シアトル酋長がピアス大統領に宛てた手紙

    映画『スターウォーズ』の生みの親となった神話学者ジョセフ・キャンベルは、小さい頃にアメリカン・インディアン(先住民)の物語に熱中した。その彼が『Power of Myth(邦訳:神話の力)』の中で、シアトル酋長の感動的な逸話を伝えている。

    ◆Joseph Campbell 『The Power of Myth』 (ネットソース)
      In about 1852, the United States Government inquired about buying the tribal lands for the arriving people of the United States, and Chief Seattle wrote a marvelous letter in reply. His letter expresses the moral, really, of our whole discussion.
      "The President in Washington sends word that he wishes to buy our land. But how can you buy or sell the sky? The land? The idea is strange to us. ...

    1854年のこと、白人との戦いに疲れ、これ以上の抵抗は無益だと考えたシアトル酋長は、アメリカ政府に土地を売却し、保留地へ移動することに合意する。「しかし、合意の前に、はっきり言わせてもらいたいことがある」と啖呵を切った、名文中の名文である。(注:キャンベルの「1852年」は誤りで、1854年が正しい)

    シアトル酋長のメッセージ
    しかし、我々には分からない。
    土地や空気や水は誰の物でもないのに、どうして売り買いできるのだろう。
    土地は地球の一部であり、我々は地球の一部であり、地球は我々の一部なのだ。

    無数のバッファローが面白半分に殺された。
    すべての生き物を殺し去ったとき、人間が死ぬだろう。
    他に降りかかったことは自分にも降りかかる。
    すべてはつながっているのだから。

    すべて生命は一つの織物である。
    それを織ったのは人間ではない。
    人間も一本の織り糸に過ぎない。
    生命の織物に対してすることは、自分自身に対してすることなのだ。

    この土地を売ったとしても、この土地を我々が愛したように愛してほしい
    我々が手塩にかけたように愛してほしい。
    この土地を手に入れたときそのままに、その土地の思い出を心に刻んでほしい。
    力の限り、知恵の限り、情熱の限り、子供たちのためにこの土地を守ってほしい。
    神が我々を守るように…。

    マルチン・ルサー・キング牧師の名演説にも匹敵する、感動的なメッセージである。アメリカ西海岸のシュタイナー学校でも、「文明史」の教材として使われているという。アメリカでは1990年頃から『Brother Eagle, Sister Sky』(Susan Jeffers)という絵本が登場し、小学校の推薦図書になっている。

    シアトル酋長のメッセージは、消費社会や自然破壊を戒める「警世の書」となった。エコロジー団体の間では、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』に並ぶ「教科書」となり、アメリカ先住民の教えを信奉する人たちの間では「聖典」となった。

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    しかし「空や大地をどうやったら売り買いできるのか」という感動的なスピーチは存在しない。「バッファロー」の死を悼んだはずのシアトル酋長は、そもそもバッファローを見たことがない。「生命は一つの織物」(Web of Life)という表現は、欧米の詩文からの転用である。「我々が愛したように愛してほしい」いう美談は果たしてあったのか。

    1992年のニューズウィーク誌も、「シアトル神話」に疑義をはさんでいる。

    Newsweek:『Just Too Good to Be True: The Chief Seattle Speech』(1992.5.4)
    It is too perfect. Chief Seattle did give a speech in 1854, but he never said "The earth is our mother." He never said "I have seen a thousand rotting buffaloes on the prairie, left by the white man who shot them from a passing train." The chief lived in the Pacific Northwest. He never saw a buffalo.

    私が「シアトル酋長の演説」の改変・捏造問題を追及し始めた発端は、
    • キャンベルの『神話の力』の引用
    • シュタイナー学校で使っているとされるテキスト
    • 絵本などに出てくるフレーズ
    の表現にばらつきがあることだった。それもそのはず、テキストのバージョンは少なくとも4つは存在するのである。

    非常によくまとまっている「eJournal website:Chief Seattle Speech」ならび「"Thus Spoke Chief Seattle: The Story of An Undocumented Speech" By Jerry L. Clark(1985 Spring)」から要約すると、こういう話だ。

    1) 演説は1854年(ペリーの黒船が浦賀にやってくる1年前)にあったとされる。そしてこの演説は、翌年、書簡の形でピアス大統領に送られたとされる。しかし、そのような書簡はどこにも存在しない。
    2) 演説の「テキスト」が登場したのは、33年後の1887年である。1854年当時に、教育長や立法を担当していた スミス博士(Henry A.Smith)が「メモ」を頼りに、新聞向けに書き起こしたものだ。これを「★バージョン1」とする。
    3) スミス博士は、シアトル酋長が話すドゥアミッシュ語(Duwamish)に堪能だった。しかし、シアトル酋長が演説した相手とされるスティーヴン知事(Issac Steven)の通訳をしたという記録がない。公式の通訳は、「英語」→「チヌック語(Chinook)=貿易の共通語」→「各部族語」のリレー通訳だった。シアトル酋長は、英語を理解せず、ドゥアミッシュ語の読み書きもできなかった。
    4) 当然のことながら、ドゥアミッシュ語による原文テキストは存在しない。

    そもそも、演説そのものがあったという証拠すら存在しないのだ。このような背景の中で、「聖典」のひとり歩きが始まる。

    5) 1960年代に、詩人アロウスミス(William Arrowsmith)が、スミス博士のビクトリア風の英文(バージョン1)を現代風に書き換える。これを「★バージョン2」とする。
    6) 1971年、ネイティブ・アメリカンを扱った『Home』という映画が制作される。テキサスのペリー教授(Ted Perry)が「シアトル酋長のスピーチ」の台本を創作する。映画制作者がこれをさらに改変し、ありもしない「ピアス大統領への手紙」という形式にする。これを「★バージョン3」とする。
    7) 1974年、ワシントン州スポーケンで開かれた万博で、「バージョン3」の短縮版が展示される。これを「★バージョン4」とする。

    追加:1931年、バグリー(Clarence B.Bagley)が『Washington Historical Quarterly』に掲載した改変バージョンもある。このバージョンから『どうやって空気を売るというのか?』という本が生まれた)

    さまざまな本で引用され、ネット上でも「霊験あらたか」として賑わっているのは、「バージョン3」と「バージョン4」である。googleで検索してみると、「シアトル+酋長」「父は空+母は大地」で、改変バージョンがよくヒットする。

    「大統領に宛てた手紙」は存在しないにもかかわらず、いまだに捏造神話が蔓延している。

    ビーケーワン・オンライン書店:『父は空 母は大地』 内容説明
    1854年アメリカのピアス大統領はインディアンの土地を買収し、居留地を与えると申し出た。翌年インディアンの首長シアトルはこの条約に署名。その時首長が大統領に宛てた手紙。95年に絵本版も刊行されている。英文併記。

    複数のバージョンと改変・創作があることを理解しながらも、それでも「オリジナル」のメッセージはすばらしい、という人もいる。

    神をまちのぞむ:「父は空 母は大地」
    この新しいヴァージョンはオリジナルの精神を受け継ぎ、さらに洗練されたものであり、シアトル首長の言葉を汚すものではない。むしろシアトル首長によって触発され、人々のなかから新しく生まれた美しい言葉の結晶であるといっても過言ではない。本書は、オリジナル・テキストをベースにしながら、新しいテキストを参考に改めて再構成したものであり、新しいテキストにより近いものである。最もオリジナルに近いとされているテキストは1931年の「ワシントン・ヒストリカル・クォータリー」に収録されたもので、すでに邦訳され絵本として出版されている。(「どうやって空気を売るというのか?」)北山耕平訳・新宿書房 1994年)。

    オリジナルのどこに「空気を売る」話があるというのか?オリジナル・テキスト(すなわち「バージョン1」)は以下のような内容である。全訳するパワーはないので、全体の流れを損なわない形で抜粋・要約する。
    • ワシントンの大酋長(=米大統領)はご親切にも友好とねぎらいの言葉を寄せてきたが、我々からの友好など必要としておるまい。
    • かつて、わが民はこの地を覆っていたが、すでに過去のものとなった。我々の時代は終わった。かといって、白人を責めるつもりはない。
    • 白人への復讐に燃える若者たちもいる。しかし敵対したところで何の実りもない。老人や母親たちは短絡的な「若気の至り」を戒めている。
    • ワシントンの偉大な父は、我々が素直に従うなら、我々を保護するという。ワシントンの父は、我々の父になるということだ。
    • が、そんなことあり得るか。あなたがたの神は、我々の神ではない。あなたがたの民を愛しても、我々の民を愛さない。
    • 我々の民は引き潮のように消え去り、戻ることがない。白人の神は我々の民を愛さず、守ることもない。白人と「兄弟」になることがあり得ようか?
    • 先祖の墓から離れて放浪する白人とは違い、我々は先祖の灰とともにある。我々の宗教は、先祖の伝統であり、老人たちが見る夢だ。
    • 夜と昼は共存できない。白人が近寄れば、赤人(=先住民)は朝霧のように引くしかない。我々は保留地に移り、ひっそりと暮らす。
    • インディアンの夜は暗く、星は1つして輝かない。悲しい風がうめくばかりだ。しばらくすれば、偉大なスピリットに守られた先祖たちを思い起こすものは、みな姿を消してしまうだろう。
    • だが、わが民の不遇を嘆いてはなるまい。民も、国も、大海の波のごとく、生まれては消える。
    • 土地を売ってもいいが、我々の先祖の墓を訪れる権利は保証せよ。自然物象のいたるところに、我々の記憶が宿る。
    • 赤人の最後のひとりが消え去ったとしても、白人オンリーの世界だと思う勿れ。この世に孤独寂寥の地などありはしない。我々の霊が常に満ち溢れているのだ。死者には力がある。
    白人に追いやられる無念の気持ちが込められると同時に、仏教的な「諸行無常」の響きもある。そして、白人と赤人は所詮相容れないとした上で、日本の「怨霊信仰」のように、霊の世界を忘れるな、と最後にクギを刺すのである。

    現在流布しているバージョンは、「オリジナル」の原型をとどめていない。ネイティブ・アメリカンの聖なる教えを取りまとめた(創作の)「聖典」なのだ。「聖なる教え」に触れるのは結構だとしても、これを「1854年のシアトル酋長のスピーチ(手紙)」とした場合は、紛れもない「偽書」であり、歴史の「捏造」であることをお忘れなく。

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    それでは、時間の余裕がある方は、以下のソースから「聖典」をじっくりと読んでみてほしい。

    寮美千子訳・編 『父は空 母は大地―インディアンからの手紙』(パルロ舎)
    (ネットソース1)(ネットソース2)
    とてもすばらしい文章だ。

    ■この記事には続きがあります。是非お読みください。(追加:2006/7/3)
  • 「寮美千子・編訳 『父は空 母は大地』 の絶版を勧告する」

    追加(2006/5/29):
    コメント欄にある通り、著作者の寮美千子さんより反論をいただいている。「全文引用」の是非に議論が振られるのは、私としても不本意なので、引用は削除することにしたい。興味のある方は、上の「ネットソース」から当分は読めるはずである。寮美千子さん曰く、ネットソースの中に「本とは異なる部分」があるそうである。

    『父は空 母は大地』は、「1995年寮美千子バージョン」であり、「大統領への手紙」が存在していないことも、解説の中で明記してあるという。寮美千子さんの創作文章を何ら貶める意図はない。私は、「シアトル酋長のスピーチ(手紙)」とした場合は、紛れもない「偽書」であり、歴史の「捏造」である、と書いている。

    ビーケーワン・オンライン書店(bk1)の記述は、「MARCデータベース」からのもので、アマゾンの記述も同様である。

    Amazon.co.jp:父は空 母は大地 対訳版
    内容(「MARC」データベースより)
    1854年アメリカのピアス大統領はインディアンの土地を買収し、居留地を与えると申し出た。翌年インディアンの首長シアトルはこの条約に署名。その時首長が大統領に宛てた手紙。95年に絵本版も刊行されている。英文併記。

    アマゾンでは「対訳版」と書かれている。寮美千子さんが「創作編集」したことを示す「編」の字はない。

    いずれにしても、『父は空 母は大地』の「解説」に書かれている「歴史的経緯」なるものを読んでみないことには話にならないので、この本を発注し、到着後にブログ上で報告することにしたい。

    ■この記事には続きがあります。是非お読みください。(追加:7/3)
  • 「寮美千子・編訳 『父は空 母は大地』 の絶版を勧告する」
  • posted by ヒロさん at 00:42 | Comment(37) | TrackBack(0) | 日本史・世界史

    2006年05月25日

    ピアノという「神殿」で癒される、私の「聖なる時間」

    ピアノを弾くようになって3年が経過した。3年前の5月に練習していたのは、竹内まりあの『駅』という歌謡曲である。特に大好きな曲というわけでもない。楽譜に運指(指の番号)もついていない。教えてくれる先生もいない。まったくの自己流で、気が向いたときに弾く、15分程度の気まぐれ練習である。

    『ハ調で弾くピアノ』という楽譜&CDを2〜3年前に買っていたのだが、本棚に眠り続けていた。同じ頃、安いデジタルピアノを買い揃えたが、ホコリがかぶり続けていた。

    そよ風の吹く、とても気持ちのよい6月のある日曜日のこと、いつもながらに『駅』の練習を始めたのだが、相変わらず、10ヵ所ぐらい引っかかるところがあって、お話にならない。ふと考えた。「間違うところは全部わかっているんだから、それを1つずつ潰せば、もしかして、最後まで通しで弾けるってことじゃない?」

    5分ぐらい弾くつもりで座ったのが、2時間になった。弾き間違えなしに6小節、10小節と続く瞬間が訪れる。そして後半のクライマックスを弾いているときに、突然「恍惚状態」が訪れたのである。大袈裟にいえば「変性意識」だが、ありきたりにいえば「できなかったことができる」ようになって、「ワクワク」したのである。そして気がつくと、5時間が経過していた・・・。

    いままで「コマ切れ」だった曲が、1つの「ストーリー」として体の中に流れ、思わず自分がピアノで歌っている気分になってしまったのだ。最後までミスなしで弾けるようになるのは、結局1年ぐらいあとになるのだが、この日の5時間が、私のピアノ人生を開くことになる。

    その後、イギリスに行くことが決まり、せっかく始まったピアノもこれで終わりなのかな、と寂しい気持ちなっていた。ところが留学先に来てみると、教室のとなりが講堂になっていて、そこにグランドピアノが置いてあるではないか。

    これって、触っていいのかな・・・。小学校以来、友人や親戚のうちで、アップライトのピアノは触ったことがある。でもグランドピアノという「高級車」に触ったことはない。講堂に誰もいないときに、ソーっとピアノに忍び寄り、鍵盤のカバーを開けて、Aのキー(音階のラ)をポーンと叩いてみる。いい音だなぁ。

    講堂のドアの外で人の声が聞こえて、そそくさと鍵盤のカバーを閉じて、講堂から逃げ出した私である。しかしその後、いろんな人がこのピアノを弾いているのを聴いて、じゃあ、私も、と午前中の休み時間にピアノの前に座ることが多くなった。

    私にとっての「聖なる時間」である。とても古いBeckstein製で、共鳴板を開けると、中はホコリだらけである。が、鍵盤は象牙で、タッチがとても軽い。年に2回はチューニングしており、チューニングの直後は、音がとてもよい。

    イギリスの大学の講堂に、竹内まりあが響き始めたのである。私のつたない音を聴いたある日本人は、「あ、これカラオケの曲だ」と懐かしがり、台湾人のピアニストは「楽譜がほしい」という。

    このグランドピアノがきっかけで、欲が出てきた。『駅』は『ハ調で弾くピアノ』から取ったもので、左手は「ポン、ポン、ポン」と同じような3拍子パターンのアルペジオである。以前聴いた「ピアノ名曲集CD」の中に、リヒナーの『忘れな草』という物悲しい曲があり、大好きだった。これも同じようなアルペジオなので、原曲で弾けるのではと思い、インターネットで楽譜を買い求めることにした。

    好きだなぁ、いいなぁ、と憧れる曲はすぐに没頭できるものだ。楽譜が届いてから1ヵ月以内に、通しで弾けるようになってしまった。自宅にもピアノが欲しくなって「グランドピアノ・タッチ」と謳っている、デジタル・ピアノも購入してしまった。わが家の中古車よりも高いので、イギリスでもっとも「高価な買い物」をしてしまったことになる。

    そして、なんとまあ大胆なことに、2004年春の大学の音楽発表会で、50人以上の前でピアノを演奏してしまうことになる。何度か間違えたが、流れを乱さずに最後までたどり着くことができた。心臓バクバク、視界真っ暗になりながらの、ピアノ初デビューである。2003年6月の「恍惚」から10ヵ月後のことだ。

    その後、半年ほどピアノの先生について、ヒマがあればピアノを弾いて、レパートリーは10曲前後に増えた。最近は「ピアノの時間」が「ブログの時間」に置き換わってしまったので、同じレパートリーを延々と「般若心経」のように弾き続けている。

    ピアノは「私の神殿」、奏でるひとときは「聖なる時間」。40才を過ぎても、人生捨てたものではない。


    ■ヒロさんの「ピアノ修行日記」
  • 「本番」に強くなるコツ、「あがり症」を克服する知恵(2006/2/27)
  • ディスレクシアという「個性」を受け入れる素地づくり(2005/11/21)
  • posted by ヒロさん at 08:28 | Comment(7) | TrackBack(0) | ピアノが好きなの♪

    2006年05月24日

    グラバーと坂本龍馬は、本当にフリーメーソンだったのか

    「日本属国論」で有名な副島隆彦センセが、今話題の『ダ・ヴィンチ・コード』のネタについに参入です!

    副島隆彦学問道場:今日のぼやき758(2006/5/19)
    映画『ダヴィンチ・コード』は、現在の世界を支配するアメリカのロックフェラー・金融ユダヤ人どもが、まず、自分たちを軽蔑し反抗するフランス人への侮蔑と憎しみを込めて、そして、ローマ教会(ヴァチカンの総本山)への憎しみを込めて、作られた映画なのである。こうして、すべての話はつながった。謎は解かれました。

    フリーメーソンの筆頭格である「金融ユダヤ人ども」が、バチカンを攻撃するためにつくられた映画ということである。ハリウッドの大手映画は、すべからく「政治的」であることは確かだが、ハリー・ポッターあれ何であれ、売れ筋の小説は映画化されるのが世の習いである。

    原作者のダン・ブラウンに、ロックフェラーが大規模な資金を提供していた、という話なら「すべての話はつながった」と、少しは面白がってもいいのだが。

    ◆ソース同上
    キリストが処刑されたときに、ローマ教会の教義では、売春婦だったとされるマグダラのマリア Mary Magdalane (メアリー・マグダレーン)が、イエス・キリストの母親(こっちが、聖母マリア様)と妹と一緒に、遺骸を引き取りにゴルゴダの丘に来た。これは事実だ。マグダラのマリアは実は、その時に、キリストの子どもを懐胎(かいたい)していた。マグダラのマリアは、キリストの妻であり、ふたりは夫婦だったのだ。これもどうやら、真実だろう。

    マグダラのマリアの伝承は、山ほどある。イエスがマグダラのマリアと結ばれたことは、「死して地母神と結ばれる」というエジプト神話の延長としても説明できる。マグダラのマリアが、フランスのマルセイユあたりに上陸した伝承があるからといって、「どうやら、真実だろう」とつぶやくわけにはいかない。

    副島センセの「今日のぼやき」は、フリーメーソンの歴史をおさらいするテキストとしては悪くないが、「聖杯伝説」や「テンプル騎士団」といった話をクリアしないといけないので、なかなかやっかいである。フリーメーソンの取りかかりとしては、日本人になじみの深いフリーメーソンから始めるのがよさそうだ。

    吉村正和 『フリーメイソン―西欧神秘主義の変容』(講談社現代新書):読者レビュー
    日本人初のフリーメイソンは西周津田真道であるそうだ。フリーメイソン精神の最も重要な概念の一つである“理性”という用語を、フリーメイソン会員の西周が作った(訳出した)という事実は面白かった。

    以前、『韓国に「自由」も「民主主義」も必要なし』でも取り上げたが、西周(にし・あまね)は、「権利」「義務」「哲学」「芸術」「文学」「心理」「科学」「技術」といった、西洋の抽象概念を次々に訳出した、明治時代の先覚的な知識人である。その彼が、日本のフリーメーソンの先駆けなのである。

    ウィキペディア:「西周 (啓蒙家)」
    江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者である。江戸幕府将軍徳川慶喜の政治顧問、明治の貴族院議員。男爵。<中略>漢学の素養を身につける他、1841年(天保12)に養老館で蘭学を学んだ。1862年(文久2)には幕命で榎本武揚らとともにオランダ留学し、法学や哲学、国際法などを学ぶ。このとき、フリーメイソンに入会、その署名文書はライデン大学に現存する。1865年(慶応元)に帰国した後は、軍政の整備や哲学の基礎を築くことに尽力した。

    オランダのライデン大学は、現在もヨーロッパの日本学研究の中心地である。江戸時代末期には、長崎の出島経由で情報を収集・解析する「対日工作司令部」であったにちがいない。西周は、ライデン大学から徒歩5分のところにある「ラ・ベルトゥ・ロッジNo7」でフリーメーソンに加盟し、大学のフィッセリング教授から推薦を受けた。(入会には、会員の推薦を必要とする)

    西周以外に、有名な日本人フリーメーソンはほかに誰がいるのだろうか。ウィキペディア:「フリーメイソン」の執筆者は次の10人をあげている。
    • 西周 1829生・・・・将軍・徳川慶喜の政治顧問
    • 津田真道(つだ・まみち) 1829生・・・・法学博士、西周とライデン大学に留学
    • 坂本龍馬 1835生・・・・土佐脱藩、海援隊を設立
    • 林董(はやし・ただす)1850生・・・・幕府留学生で英国へ、初代陸軍軍医総監
    • 米内光政(よない・みつまさ)1880生・・・・第37代首相、東久邇宮&幣原喜内閣で海軍大臣
    • 東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)1887生・・・・昭和天皇の叔父、第43代首相
    • 幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう) 1872生・・・・外交官、第44代首相
    • 吉田茂 1878生・・・・東久邇宮&幣原喜内閣で外相、第45、48〜51代首相
    • 鳩山一郎 1883生・・・・第52〜54代首相
    • 沢田教一 1936生・・・・写真家、ベトナム戦争の写真でピューリッツア賞
    昭和天皇の叔父である東久邇宮稔彦もフリーメーソンである。第37代から第54代までの日本の内閣は、おおむねフリーメーソン政権ということになる。

    フリーメーソンには入会名簿がある。「生前」は本人の希望で非公開にするのが普通だが、「故人」になった場合は、遺族への断りなく、フリーメーソンであった事実を公表するのは自由である、という。ウィキペディアは10人を上げているが、坂本龍馬に関しては、フリーメーソン入会の証拠がない。

    坂本龍馬は、幕末・明治維新を操った政商グラバーの「駒」であったというのが、フリーメーソン史観で明治維新を見る人たちの主張である。

    アキラのランド節:アイン・ランドとフリーメイソン(2004/10/25)
    グラバーというスコットランド人は、ジャーデン・マセソン商会というグローバル経済を先取りしていたようなスコットランド系大商社の日本支店長さんだった。この人の手引き=この大商社がその傘下にあるロスチャイルド財閥の方針で、英国産の武器が大量に薩摩や長州に売り渡されて、明治維新が成ったというのは、副島隆彦氏の『属国日本論』(五月書房)マンガ『属国日本史幕末編』(早月堂書房)によって、すでに多くの人々に知られる「隠れた史実」です。

    さくら俊太郎の『司馬遼太郎の置き手紙―幕末維新史の真相』(文芸社)も同じ視点である。副島隆彦とさくら俊太郎のタネ本となっているのは、石井孝 『明治維新の舞台裏』(岩波新書第2版 1975)と思われる。

    明治維新の偉才・奇才・英雄としての坂本龍馬のイメージは、司馬遼太郎の小説に負うところが大きい。「ニッポン人が好きな100人の偉人」というテレビのアンケートでも、坂本龍馬は堂々の第2位である。

    灼熱(HEATの日記):ニッポン人が好きな100人の偉人
    「ニッポン人が好きな100人の偉人」という番組を観た。これは日本人に限らず外国人も含めた“偉人100名”のランキングで、番組のサイトによると、1万人のアンケートにより1位から100位までを決定したものらしい。1万人のアンケートが日本人全体の意見をうまく反映しているのか疑問ではあるが、番組ではわれわれ日本人が選んだ偉人と紹介されていた。

    1.織田信長 2.坂本龍馬 3.エジソン 4.豊臣秀吉 5.松下幸之助 6.徳川家康 7.野口英世 8.マザー・テレサ 9.ヘレン・ケラー 10.土方歳三

    坂本龍馬は時代の黒子である。決して有名人ではなかった。司馬遼太郎以前に、坂本龍馬を「有名人」に引きづり上げたのは誰だったのか?

    坂本龍馬について(その一)
     坂本龍馬を初めて有名にしたのが坂崎紫瀾です。明治16年から高知の「土陽新聞」に連載された「汗血千里駒」は、自由民権運動の活動家だった坂崎紫瀾が、藩閥政治と自由平等の主張を龍馬に代弁させベストセラーになりました。そして明治37年、日露戦争開戦の直前に昭憲皇太后の夢枕に立った龍馬の話は有名で、「死して護国の鬼となる」で爆発的な龍馬ブームを興しました。
     当時海軍は薩摩、陸軍は長州が牛耳っていて、土佐の入る隙はなく閑職に追いやられていました。宮内省もその一つで時の宮内大臣、田中光顕は海援隊の生き残りであり、この逸話により失地挽回の一策として、龍馬を大日本帝国海軍の祖に祭り上げてしまいました。そしてこれから先、皇国史観とも合流し、軍国主義思想が高揚されていく中にあって、「忠心義肝の英霊」として、国民の戦意高揚に利用されることになります。

    龍馬は「海軍の神様」に祀り上げられている。昭憲皇太后(明治天皇の正室なのに「皇太后」と追号された謎の皇后)の「夢枕」の話も、おそらく創作であろう。龍馬の神話は作り上げられたものだ。

    実際は、イギリスの「スパイ」であり、武器商人グラバーの「御用聞き」であったとすると、聖徳太子の神話に続いて、坂本龍馬の神話も地に落ちることになる。龍馬の何が疑われているのか。

    このテーマでは、加治将一の『あやつられた龍馬』がもっとも詳しいと思われるが、手許にないので、同じ著者の『石の扉 -- フリーメーソンで読み解く世界』からまとめてみたい。

    1)1865年5月に、日本最初の商社「亀山社中(のちの海援隊)」を設立したが、わずか3ヵ月後に第1回の買い付けの「7800挺の銃」が到着している。「注文」ではなく「到着」である。
    2)貿易の実務担当は、実業家・小曾根英四郎(26才)で、数回しか会っていない龍馬(31才)に、資金、商売のノウハウ、人材、事務所をすべて提供している。

    つまり、貿易の手回しがあまりにもよすぎるということで、坂本龍馬と小曾根英四郎を「大物」の政商グラバーが仲介したのではないか、という推理が生まれてくる。

    グラバーが長崎に訪れたのは1859年9月で、当時弱冠21才。4年後の25才のときに、豪邸「グラバー邸」を完成させた。グラバーは終始一貫して、徳川幕府打倒を唱えていた。バックについていたのは、アヘン戦争の仕掛け人でも知られるジャーディン・マセソン商会である。

    長州ファイブ、横浜出港
     文久3年5月7日(1863年6月22日)、長州藩士の井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国商船に便乗して横浜を出発しました。<中略>
     文久3年の時点でも、海外渡航は国禁なのですが、密航に失敗した吉田松陰との大きな差は、彼らの場合は藩公認で資金援助も得ていたことです。また、準備も周到でした。英国領事の紹介でジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発したのでした。
     この5人は、上海などを経て、英国に到着すると、ロンドン市内に下宿(どちらかというとホーム・ステイ)をし、ロンドン大学で物理・化学などを学びました。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介された、ちょっとした有名人だったようです。彼らのうち、井上と伊藤は元治元年(1864年)4月に四国艦隊の下関砲撃計画を知って、途中帰国しますが、残りの3人は数年間学業を続けました。

    1863年に、グラバーの手引きで、長州5人組がイギリスに密航。1865年には、薩摩藩17人を同じくイギリスに密航留学させる。グラバーとフリーメーソンを軸に、明治維新前の数年の動きをまとめると、以下のようになる。

    ■■年表
    • 1862年・・・・西周と津田真道がオランダに留学。
    • 1863年・・・・長州藩の伊藤博文、井上馨ら5名がイギリス留学(5月)。
    • 1864年・・・・4ヵ国(英仏蘭米)の下関襲撃計画で、伊藤と井上が急遽帰国(6月)。西(10月)と津田(11月)がフリーメーソンに入会。龍馬が行方不明(11月)
    • 1865年・・・・薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名がイギリス留学(4月)。龍馬が再登場(5月)。西と津田が帰国(12月)。
    • 1866年・・・・薩長同盟(2月)。
    • 1867年・・・・津田真道が『泰西国法論』を発表、船中八策(7月)、大政奉還(10月)、龍馬暗殺(12月)
    • 1868年・・・・明治維新。
    幕末備忘録付属日記:森鴎外の「西周伝」寸話(2006/4/10)
    薩摩藩士五代友厚らの欧州留学については、五代友厚の『廻国日記(かいこくにっき)』に記録されており、この日記の中で、五代は、パリ滞在中12日間に亙って連日、幕生西・津田両人と面会し共にパリ見物や料理屋通いもしていたことなどを書き記している。そして上述の様に西自身も、パリで出逢った諸人の一人に五代を含めているのである。

    グラバーは倒幕派であり、長州と薩摩に「ヨーロッパの現実」を見せるべく、密航留学を斡旋する。一方、オランダでフリーメーソンに入会する西周は、徳川幕府の政治顧問である。本来ならば、相容れるわけがない。

    が、フリーメーソンとなった西・津田は、パリで薩摩藩士と合流している。そして坂本龍馬には、1864年11月より6ヵ月間の消息不明の「空白」がある。この空白期間に、龍馬もヨーロッパに渡り、グラバー主導の明治維新の「打ち合わせ」が進んでいたのではないか、という疑惑である。

    グラバーがフリーメーソンであったという証拠はまだ上がっていない。フリーメーソンの入会儀式は「20才以上の男子」に限られており、スコットランドを離れた19才当時に、入会していた可能性は低い。グラバーは父親と兄と一緒に、2年間上海に滞在しており、上海で入会した可能性はある。

    龍馬や、長州・薩摩藩士がフリーメーソンであったかどうかも、今後の研究待ちである。イギリスにどこかに証拠が転がっているはずなんだが。(私にやれと?まぁまぁ・・・)

    森鴎外は、「幕臣の西周と薩摩藩士の五代」が接触したことを隠蔽しようとしている。明治政府による緘口令なのか。私にとって、森鴎外の評価はガタ落ちなのだが、もっと落ちそうだ。

    ◆ソース同上
     津田や森鴎外は、幕臣西周と薩摩藩士五代友厚との接触を公にしないよう策しているのは明らかであり、鴎外に至っては、西周は「唯々有礼と交わりしのみ」として、西・五代面談の事実を完全に隠蔽している。何故であろうか。 『西周伝』は歴史書ではなく小説であることや、『廻国日記』は当時まだ公表されていなかったことなどを考慮したとしても、事実と全く反対のことを記述することには奇異感を抱かざるを得ない。<中略>
     「外国において処かまわず伸び伸びと動き回る西周助(西周)の真実の姿を、鴎外は完璧に隠してしまい、西の活躍振りを伝える代わりに、西の実像とは程遠い別の姿を語る虚構の物語を繰り広げているわけである。国際社会に羽ばたく西の実像とは著しく異なった、鎖国の心性に囚われた西の虚像を描き上げているのである」とする記述が蓮沼啓介氏の「『西周伝』の成立事情」にあり、森鴎外に何らかの作為があったのは間違いない。

    欧州のフリーメーソンは一枚岩ではない。仮にフリーメーソンのメンバーだとしても、どのロッジ(=入会事務所)のメンバーかによって、利害関係は変わってくる。

    れんだいこ:グラバー考(フリーメーソンの動き)
     1866(慶応2)年、日本にメーソンのロッジが初めて設立されている。英国陸軍第20連隊が香港から横浜の居留地警備の為に派遣され、この連隊に軍人結社「スフィンクス」があり、これがアイルランド系の移動式ロッジで、メーソンの儀式を行っている。<中略>
     フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立している。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。
     プロシア(独逸)のメーソンであったエドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助している。戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソンのブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗し敗れる。
     これらの動きを見れば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンが触手を伸ばしていた中での代理戦争だった観がある。「メーソン特有の“両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めたのである」と評されている。

    その後の昭和史への展開だが、大英帝国系メーソンと手を組んでいた「統制派」が、反フリーメーソン&日本原理主義の「皇道派」を抑えられなくなり、日英同盟に亀裂が生じていく、ということか。
    posted by ヒロさん at 05:49 | Comment(20) | TrackBack(0) | 日本史・世界史