「日本属国論」で有名な副島隆彦センセが、今話題の『ダ・ヴィンチ・コード』のネタについに参入です!
◆副島隆彦学問道場:今日のぼやき758(2006/5/19)
映画『ダヴィンチ・コード』は、現在の世界を支配するアメリカのロックフェラー・金融ユダヤ人どもが、まず、自分たちを軽蔑し反抗するフランス人への侮蔑と憎しみを込めて、そして、ローマ教会(ヴァチカンの総本山)への憎しみを込めて、作られた映画なのである。こうして、すべての話はつながった。謎は解かれました。
フリーメーソンの筆頭格である「金融ユダヤ人ども」が、バチカンを攻撃するためにつくられた映画ということである。ハリウッドの大手映画は、すべからく「政治的」であることは確かだが、ハリー・ポッターあれ何であれ、売れ筋の小説は映画化されるのが世の習いである。
原作者のダン・ブラウンに、ロックフェラーが大規模な資金を提供していた、という話なら「すべての話はつながった」と、少しは面白がってもいいのだが。
◆ソース同上
キリストが処刑されたときに、ローマ教会の教義では、売春婦だったとされるマグダラのマリア Mary Magdalane (メアリー・マグダレーン)が、イエス・キリストの母親(こっちが、聖母マリア様)と妹と一緒に、遺骸を引き取りにゴルゴダの丘に来た。これは事実だ。マグダラのマリアは実は、その時に、キリストの子どもを懐胎(かいたい)していた。マグダラのマリアは、キリストの妻であり、ふたりは夫婦だったのだ。これもどうやら、真実だろう。
マグダラのマリアの伝承は、山ほどある。イエスがマグダラのマリアと結ばれたことは、
「死して地母神と結ばれる」というエジプト神話の延長としても説明できる。マグダラのマリアが、フランスのマルセイユあたりに上陸した伝承があるからといって、「どうやら、真実だろう」とつぶやくわけにはいかない。
副島センセの「今日のぼやき」は、フリーメーソンの歴史をおさらいするテキストとしては悪くないが、「聖杯伝説」や「テンプル騎士団」といった話をクリアしないといけないので、なかなかやっかいである。フリーメーソンの取りかかりとしては、日本人になじみの深いフリーメーソンから始めるのがよさそうだ。
◆吉村正和 『フリーメイソン―西欧神秘主義の変容』(講談社現代新書):読者レビュー
日本人初のフリーメイソンは西周と津田真道であるそうだ。フリーメイソン精神の最も重要な概念の一つである“理性”という用語を、フリーメイソン会員の西周が作った(訳出した)という事実は面白かった。
以前、
『韓国に「自由」も「民主主義」も必要なし』でも取り上げたが、西周(にし・あまね)は、「権利」「義務」「哲学」「芸術」「文学」「心理」「科学」「技術」といった、西洋の抽象概念を次々に訳出した、明治時代の先覚的な知識人である。その彼が、日本のフリーメーソンの先駆けなのである。
◆ウィキペディア:「西周 (啓蒙家)」
江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者である。江戸幕府将軍徳川慶喜の政治顧問、明治の貴族院議員。男爵。<中略>漢学の素養を身につける他、1841年(天保12)に養老館で蘭学を学んだ。1862年(文久2)には幕命で榎本武揚らとともにオランダ留学し、法学や哲学、国際法などを学ぶ。このとき、フリーメイソンに入会、その署名文書はライデン大学に現存する。1865年(慶応元)に帰国した後は、軍政の整備や哲学の基礎を築くことに尽力した。
オランダのライデン大学は、現在もヨーロッパの日本学研究の中心地である。江戸時代末期には、長崎の出島経由で情報を収集・解析する「対日工作司令部」であったにちがいない。西周は、ライデン大学から徒歩5分のところにある「ラ・ベルトゥ・ロッジNo7」でフリーメーソンに加盟し、大学のフィッセリング教授から推薦を受けた。(入会には、会員の推薦を必要とする)
西周以外に、有名な日本人フリーメーソンはほかに誰がいるのだろうか。
ウィキペディア:「フリーメイソン」の執筆者は次の10人をあげている。
- 西周 1829生・・・・将軍・徳川慶喜の政治顧問
- 津田真道(つだ・まみち) 1829生・・・・法学博士、西周とライデン大学に留学
- 坂本龍馬 1835生・・・・土佐脱藩、海援隊を設立
- 林董(はやし・ただす)1850生・・・・幕府留学生で英国へ、初代陸軍軍医総監
- 米内光政(よない・みつまさ)1880生・・・・第37代首相、東久邇宮&幣原喜内閣で海軍大臣
- 東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)1887生・・・・昭和天皇の叔父、第43代首相
- 幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう) 1872生・・・・外交官、第44代首相
- 吉田茂 1878生・・・・東久邇宮&幣原喜内閣で外相、第45、48〜51代首相
- 鳩山一郎 1883生・・・・第52〜54代首相
- 沢田教一 1936生・・・・写真家、ベトナム戦争の写真でピューリッツア賞
昭和天皇の叔父である東久邇宮稔彦もフリーメーソンである。第37代から第54代までの日本の内閣は、おおむねフリーメーソン政権ということになる。
フリーメーソンには入会名簿がある。「生前」は本人の希望で非公開にするのが普通だが、「故人」になった場合は、遺族への断りなく、フリーメーソンであった事実を公表するのは自由である、という。ウィキペディアは10人を上げているが、坂本龍馬に関しては、フリーメーソン入会の証拠がない。
坂本龍馬は、幕末・明治維新を操った政商グラバーの「駒」であったというのが、フリーメーソン史観で明治維新を見る人たちの主張である。
◆アキラのランド節:アイン・ランドとフリーメイソン(2004/10/25)
グラバーというスコットランド人は、ジャーデン・マセソン商会というグローバル経済を先取りしていたようなスコットランド系大商社の日本支店長さんだった。この人の手引き=この大商社がその傘下にあるロスチャイルド財閥の方針で、英国産の武器が大量に薩摩や長州に売り渡されて、明治維新が成ったというのは、副島隆彦氏の『属国日本論』(五月書房)やマンガ『属国日本史幕末編』(早月堂書房)によって、すでに多くの人々に知られる「隠れた史実」です。
さくら俊太郎の
『司馬遼太郎の置き手紙―幕末維新史の真相』(文芸社)も同じ視点である。副島隆彦とさくら俊太郎のタネ本となっているのは、
石井孝 『明治維新の舞台裏』(岩波新書第2版 1975)と思われる。
明治維新の偉才・奇才・英雄としての坂本龍馬のイメージは、司馬遼太郎の小説に負うところが大きい。「ニッポン人が好きな100人の偉人」というテレビのアンケートでも、坂本龍馬は堂々の第2位である。
◆灼熱(HEATの日記):ニッポン人が好きな100人の偉人
「ニッポン人が好きな100人の偉人」という番組を観た。これは日本人に限らず外国人も含めた“偉人100名”のランキングで、番組のサイトによると、1万人のアンケートにより1位から100位までを決定したものらしい。1万人のアンケートが日本人全体の意見をうまく反映しているのか疑問ではあるが、番組ではわれわれ日本人が選んだ偉人と紹介されていた。
1.織田信長 2.坂本龍馬 3.エジソン 4.豊臣秀吉 5.松下幸之助 6.徳川家康 7.野口英世 8.マザー・テレサ 9.ヘレン・ケラー 10.土方歳三
坂本龍馬は時代の黒子である。決して有名人ではなかった。司馬遼太郎以前に、坂本龍馬を「有名人」に引きづり上げたのは誰だったのか?
◆坂本龍馬について(その一)
坂本龍馬を初めて有名にしたのが坂崎紫瀾です。明治16年から高知の「土陽新聞」に連載された「汗血千里駒」は、自由民権運動の活動家だった坂崎紫瀾が、藩閥政治と自由平等の主張を龍馬に代弁させベストセラーになりました。そして明治37年、日露戦争開戦の直前に昭憲皇太后の夢枕に立った龍馬の話は有名で、「死して護国の鬼となる」で爆発的な龍馬ブームを興しました。
当時海軍は薩摩、陸軍は長州が牛耳っていて、土佐の入る隙はなく閑職に追いやられていました。宮内省もその一つで時の宮内大臣、田中光顕は海援隊の生き残りであり、この逸話により失地挽回の一策として、龍馬を大日本帝国海軍の祖に祭り上げてしまいました。そしてこれから先、皇国史観とも合流し、軍国主義思想が高揚されていく中にあって、「忠心義肝の英霊」として、国民の戦意高揚に利用されることになります。
龍馬は「海軍の神様」に祀り上げられている。
昭憲皇太后(明治天皇の正室なのに「皇太后」と追号された謎の皇后)の「夢枕」の話も、おそらく創作であろう。龍馬の神話は作り上げられたものだ。
実際は、イギリスの「スパイ」であり、武器商人グラバーの「御用聞き」であったとすると、
聖徳太子の神話に続いて、坂本龍馬の神話も地に落ちることになる。龍馬の何が疑われているのか。
このテーマでは、加治将一の『あやつられた龍馬』がもっとも詳しいと思われるが、手許にないので、同じ著者の『石の扉 -- フリーメーソンで読み解く世界』からまとめてみたい。
1)1865年5月に、日本最初の商社「亀山社中(のちの海援隊)」を設立したが、わずか3ヵ月後に第1回の買い付けの「7800挺の銃」が到着している。「注文」ではなく「到着」である。
2)貿易の実務担当は、実業家・小曾根英四郎(26才)で、数回しか会っていない龍馬(31才)に、資金、商売のノウハウ、人材、事務所をすべて提供している。
つまり、貿易の手回しがあまりにもよすぎるということで、坂本龍馬と小曾根英四郎を「大物」の政商グラバーが仲介したのではないか、という推理が生まれてくる。
グラバーが長崎に訪れたのは1859年9月で、当時弱冠21才。4年後の25才のときに、豪邸「グラバー邸」を完成させた。グラバーは終始一貫して、徳川幕府打倒を唱えていた。バックについていたのは、アヘン戦争の仕掛け人でも知られるジャーディン・マセソン商会である。
◆長州ファイブ、横浜出港
文久3年5月7日(1863年6月22日)、長州藩士の井上馨(聞多)、伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助が、ロンドンへ密航するために、英国商船に便乗して横浜を出発しました。<中略>
文久3年の時点でも、海外渡航は国禁なのですが、密航に失敗した吉田松陰との大きな差は、彼らの場合は藩公認で資金援助も得ていたことです。また、準備も周到でした。英国領事の紹介でジャーディン・マディソン商会の船に乗って横浜を出発したのでした。
この5人は、上海などを経て、英国に到着すると、ロンドン市内に下宿(どちらかというとホーム・ステイ)をし、ロンドン大学で物理・化学などを学びました。英国の新聞で「長州ファイブ」と紹介された、ちょっとした有名人だったようです。彼らのうち、井上と伊藤は元治元年(1864年)4月に四国艦隊の下関砲撃計画を知って、途中帰国しますが、残りの3人は数年間学業を続けました。
1863年に、グラバーの手引きで、長州5人組がイギリスに密航。1865年には、薩摩藩17人を同じくイギリスに密航留学させる。グラバーとフリーメーソンを軸に、明治維新前の数年の動きをまとめると、以下のようになる。
■■年表
- 1862年・・・・西周と津田真道がオランダに留学。
- 1863年・・・・長州藩の伊藤博文、井上馨ら5名がイギリス留学(5月)。
- 1864年・・・・4ヵ国(英仏蘭米)の下関襲撃計画で、伊藤と井上が急遽帰国(6月)。西(10月)と津田(11月)がフリーメーソンに入会。龍馬が行方不明(11月)。
- 1865年・・・・薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名がイギリス留学(4月)。龍馬が再登場(5月)。西と津田が帰国(12月)。
- 1866年・・・・薩長同盟(2月)。
- 1867年・・・・津田真道が『泰西国法論』を発表、船中八策(7月)、大政奉還(10月)、龍馬暗殺(12月)。
- 1868年・・・・明治維新。
◆幕末備忘録付属日記:森鴎外の「西周伝」寸話(2006/4/10)
薩摩藩士五代友厚らの欧州留学については、五代友厚の『廻国日記(かいこくにっき)』に記録されており、この日記の中で、五代は、パリ滞在中12日間に亙って連日、幕生西・津田両人と面会し共にパリ見物や料理屋通いもしていたことなどを書き記している。そして上述の様に西自身も、パリで出逢った諸人の一人に五代を含めているのである。
グラバーは倒幕派であり、長州と薩摩に「ヨーロッパの現実」を見せるべく、密航留学を斡旋する。一方、オランダでフリーメーソンに入会する西周は、徳川幕府の政治顧問である。本来ならば、相容れるわけがない。
が、フリーメーソンとなった西・津田は、パリで薩摩藩士と合流している。そして坂本龍馬には、1864年11月より6ヵ月間の消息不明の「空白」がある。この空白期間に、龍馬もヨーロッパに渡り、グラバー主導の明治維新の「打ち合わせ」が進んでいたのではないか、という疑惑である。
グラバーがフリーメーソンであったという証拠はまだ上がっていない。フリーメーソンの入会儀式は「20才以上の男子」に限られており、スコットランドを離れた19才当時に、入会していた可能性は低い。グラバーは父親と兄と一緒に、2年間上海に滞在しており、上海で入会した可能性はある。
龍馬や、長州・薩摩藩士がフリーメーソンであったかどうかも、今後の研究待ちである。イギリスにどこかに証拠が転がっているはずなんだが。(私にやれと?まぁまぁ・・・)
森鴎外は、「幕臣の西周と薩摩藩士の五代」が接触したことを隠蔽しようとしている。明治政府による緘口令なのか。私にとって、
森鴎外の評価はガタ落ちなのだが、もっと落ちそうだ。
◆ソース同上
津田や森鴎外は、幕臣西周と薩摩藩士五代友厚との接触を公にしないよう策しているのは明らかであり、鴎外に至っては、西周は「唯々有礼と交わりしのみ」として、西・五代面談の事実を完全に隠蔽している。何故であろうか。 『西周伝』は歴史書ではなく小説であることや、『廻国日記』は当時まだ公表されていなかったことなどを考慮したとしても、事実と全く反対のことを記述することには奇異感を抱かざるを得ない。<中略>
「外国において処かまわず伸び伸びと動き回る西周助(西周)の真実の姿を、鴎外は完璧に隠してしまい、西の活躍振りを伝える代わりに、西の実像とは程遠い別の姿を語る虚構の物語を繰り広げているわけである。国際社会に羽ばたく西の実像とは著しく異なった、鎖国の心性に囚われた西の虚像を描き上げているのである」とする記述が蓮沼啓介氏の「『西周伝』の成立事情」にあり、森鴎外に何らかの作為があったのは間違いない。
欧州のフリーメーソンは一枚岩ではない。仮にフリーメーソンのメンバーだとしても、どのロッジ(=入会事務所)のメンバーかによって、利害関係は変わってくる。
◆れんだいこ:グラバー考(フリーメーソンの動き)
1866(慶応2)年、日本にメーソンのロッジが初めて設立されている。英国陸軍第20連隊が香港から横浜の居留地警備の為に派遣され、この連隊に軍人結社「スフィンクス」があり、これがアイルランド系の移動式ロッジで、メーソンの儀式を行っている。<中略>
フランス人でベルギーのメーソンだったシャルル・ド・モンブランは、薩摩藩の五代才助(友厚)に近づき、1865年、ブリュッセルで五代と共に商社を設立している。又、薩摩藩からパリ万国博覧会の事務総長に任命されたりしている。
プロシア(独逸)のメーソンであったエドワルド・スネルは、長岡藩の河井継之助に接近して、長岡城の戦い(1868年、官軍との戦い)を援助している。戊辰戦争の最後の戦いとなった五稜郭の戦いでは、フランスのメーソンのブリュネが、榎本武揚ら徳川家臣幹部と共に五稜郭に立て籠もり、最後まで官軍に抵抗し敗れる。
これらの動きを見れば、明治維新は、フランスを中心とするヨーロッパ系メーソンと、大英帝国系メーソンが触手を伸ばしていた中での代理戦争だった観がある。「メーソン特有の“両面作戦”がとられた。そして結果的にはイギリス系のメーソンが勝利を収めたのである」と評されている。
その後の昭和史への展開だが、大英帝国系メーソンと手を組んでいた「統制派」が、反フリーメーソン&日本原理主義の「皇道派」を抑えられなくなり、日英同盟に亀裂が生じていく、ということか。