二拍子(四拍子を含む)の世界は、往復の振り子運動であり、右左の歩行運動だ。一方の三拍子はワルツに代表されるような舞踏の回転運動がイメージされる。
単純作業の労働歌や、歩きながらつい口をついて出てくる曲は2ビートではなかろうか、と考えていた私だが、世界は広い。とりわけ、日本列島と朝鮮半島の間には、リズムの足並みが揃わない大きなギャップがある。
◆小泉文夫 『音楽の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー) p69
「日本音楽には三拍子がないのに、朝鮮・韓国の音楽は三拍子ばかりなのは何故か?」という疑問は、少しでも朝鮮・韓国の民謡をきいた人なら、専門家・素人を問わず、一度は必ずいだく疑問である。
西洋音楽が入り込む前の日本には、一部の雅楽を除いて二拍子しかない。田植えや粉引き労働歌も当然にして二拍子だが、朝鮮半島の民族音楽は三拍子の嵐だ。
◆ソース同上 p71
これは私にとって少なからず驚きであった。生まれて初めて、三拍子のリズムで仕事をする人たちを知ったからである。二本の手をもち、二本の足で歩く人間が、どうして三拍子で踊ったりうたったりするかは、うまく説明できないにしても理解できる。それは普通に歩くのではなく、踊りのように上下に身体を浮動させたり、はねたりする動きの時、平面的な二拍子よりも、三拍子の方がはるかに躍動的になる。実際韓国の踊りは、日本のそれとはちがって、動きの中に足のヒザの伸縮によるバネの効いた上下動がある。ところがただ平面的に歩いたり、二本の手で仕事をする時、つまり浮き浮きと踊ったりする芸能ではなく、本当に日常的な仕事と密着した運動を行っている時にも三拍子になるということは、私の想像を超えたことなのだ。
世界中の民族音楽を研究した大碩学・小泉文夫が「想像を超えたこと」と驚いているくらいなので、このテーマは研究に値する。(どなたか時間のある方はどうぞ)
一方、西洋音楽に三拍子が根付いた理由は、キリスト教の三位一体にある。
中世の秋、というよりも中世の冬が深まりつつあった1320年頃に、フィリップ・ド・ヴィトリという音楽家が『記譜法の新しい技芸(Als Nova Nodandi)』という音楽の理論書を発表した。
◆岡田暁生 『西洋音楽史』(中公新書) p26
ここで彼が行ったのは、三位一体をあらわす従来の三拍子系だけでなく、二拍子系のリズムの正確に表現できる記譜理論の提示だったのである(ヴィトリの考案した理論は現在の記譜法の基礎になった)。
◆ソース同上 p27
このヴィトリの新理論は当時の宗教者たちの逆鱗に触れ、その是非をめぐって大論争が起きた。ジャック・ド・リエージュという年輩の僧は『音楽の鏡』(1323/24年)という本で、同時代のモテットが二拍子の導入や不自然なリズムでもって音楽を切り刻んでいると非難し、ついには当時アヴィニヨンにあった教皇庁から、こうした音楽を禁止する命令がヨハネス22世によって出されるまでになったのである(1324/25年)。
「モテット」はラテン語ではなく、フランス語の俗語で歌われた曲のこと。二拍子の音楽を「不自然」と叫ぶ僧侶や、挙句の果ては禁止命令を出す教皇がいるのだから、中世キリスト教は恐るべしだ。
Jim Hession plays "Take Five"(3分) |
ジャズでは定番の『テイク・ファイブ(Take Five)』だ。「5ビート」と「5分間休憩しよう」が掛け言葉となっている。五拍子といわれてもピーンと来ない人は、映画『ミッション・インポシブル』のテーマ曲を思い出してほしい。(あるいは古いテレビ番組シリーズの『スパイ大作戦』のテーマ曲)
五拍子は、三拍子と二拍子の融合リズムだ。5ビートを思い浮かべながら歩くと不思議な躍動感がある。ご飯を食べるときも五拍子の咀嚼リズムで食べるとおいしい。(マジ?) 生活に新しいリズムを求めているあなたにお勧めしたい。