2007年11月28日

二拍子、三拍子で踊ったあとは、テイクファイブでひと休み

この世にある音楽は、ほとんどすべて二拍子か三拍子だ。

二拍子(四拍子を含む)の世界は、往復の振り子運動であり、右左の歩行運動だ。一方の三拍子はワルツに代表されるような舞踏の回転運動がイメージされる。

単純作業の労働歌や、歩きながらつい口をついて出てくる曲は2ビートではなかろうか、と考えていた私だが、世界は広い。とりわけ、日本列島と朝鮮半島の間には、リズムの足並みが揃わない大きなギャップがある。

◆小泉文夫 『音楽の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー) p69
「日本音楽には三拍子がないのに、朝鮮・韓国の音楽は三拍子ばかりなのは何故か?」という疑問は、少しでも朝鮮・韓国の民謡をきいた人なら、専門家・素人を問わず、一度は必ずいだく疑問である。

西洋音楽が入り込む前の日本には、一部の雅楽を除いて二拍子しかない。田植えや粉引き労働歌も当然にして二拍子だが、朝鮮半島の民族音楽は三拍子の嵐だ。

◆ソース同上 p71
これは私にとって少なからず驚きであった。生まれて初めて、三拍子のリズムで仕事をする人たちを知ったからである。二本の手をもち、二本の足で歩く人間が、どうして三拍子で踊ったりうたったりするかは、うまく説明できないにしても理解できる。それは普通に歩くのではなく、踊りのように上下に身体を浮動させたり、はねたりする動きの時、平面的な二拍子よりも、三拍子の方がはるかに躍動的になる。実際韓国の踊りは、日本のそれとはちがって、動きの中に足のヒザの伸縮によるバネの効いた上下動がある。ところがただ平面的に歩いたり、二本の手で仕事をする時、つまり浮き浮きと踊ったりする芸能ではなく、本当に日常的な仕事と密着した運動を行っている時にも三拍子になるということは、私の想像を超えたことなのだ。

世界中の民族音楽を研究した大碩学・小泉文夫が「想像を超えたこと」と驚いているくらいなので、このテーマは研究に値する。(どなたか時間のある方はどうぞ)

一方、西洋音楽に三拍子が根付いた理由は、キリスト教の三位一体にある。

中世の秋、というよりも中世の冬が深まりつつあった1320年頃に、フィリップ・ド・ヴィトリという音楽家が『記譜法の新しい技芸(Als Nova Nodandi)』という音楽の理論書を発表した。

◆岡田暁生 『西洋音楽史』(中公新書) p26
ここで彼が行ったのは、三位一体をあらわす従来の三拍子系だけでなく、二拍子系のリズムの正確に表現できる記譜理論の提示だったのである(ヴィトリの考案した理論は現在の記譜法の基礎になった)。

◆ソース同上 p27
このヴィトリの新理論は当時の宗教者たちの逆鱗に触れ、その是非をめぐって大論争が起きた。ジャック・ド・リエージュという年輩の僧は『音楽の鏡』(1323/24年)という本で、同時代のモテットが二拍子の導入や不自然なリズムでもって音楽を切り刻んでいると非難し、ついには当時アヴィニヨンにあった教皇庁から、こうした音楽を禁止する命令がヨハネス22世によって出されるまでになったのである(1324/25年)。

「モテット」はラテン語ではなく、フランス語の俗語で歌われた曲のこと。二拍子の音楽を「不自然」と叫ぶ僧侶や、挙句の果ては禁止命令を出す教皇がいるのだから、中世キリスト教は恐るべしだ。


Jim Hession plays "Take Five"(3分)
おかげさまで、二拍子も三拍子も自由に聴くことのできる今日だが、オフィスワークのBGMにはどちらがいいのだろうか・・・と思っていた矢先、フルート奏者の友人から五拍子の楽譜を渡された。現在、練習に没頭している。

ジャズでは定番の『テイク・ファイブ(Take Five)』だ。「5ビート」と「5分間休憩しよう」が掛け言葉となっている。五拍子といわれてもピーンと来ない人は、映画『ミッション・インポシブル』のテーマ曲を思い出してほしい。(あるいは古いテレビ番組シリーズの『スパイ大作戦』のテーマ曲)

五拍子は、三拍子と二拍子の融合リズムだ。5ビートを思い浮かべながら歩くと不思議な躍動感がある。ご飯を食べるときも五拍子の咀嚼リズムで食べるとおいしい。(マジ?) 生活に新しいリズムを求めているあなたにお勧めしたい。

 

posted by ヒロさん at 09:37 | Comment(2) | TrackBack(0) | ♪音楽たのしいなぁ

2007年11月26日

ひとり芝居のあなたを癒す「七つの人形の恋物語」

世の中には本格的な「自作自演ブログ」が(まちがいなく)ある。ここでいう自作自演とは、たくさんの人がコメントしているように見えるが、実はブログ主が複数のハンドル名と文体を使い分け、壮大なひとり芝居を演出しているブログのことだ。

「いつも読ませていただいています。寒くなってきましたが、お体にはくれぐれもお気をつけください」と自分で自分をなぐさめる。「今日のエントリは少々極端ではございませんか。○○の解釈は××もあると思うのですが・・・」と少々書きすぎたかなと思える本文を、自らトーンダウンさせる。

このような自作自演ゲームは、自分の「個室パソコン」で勝手にやっていてほしいところだが、観客・聴衆がいればこそ、やる気満々に燃えてくるのが、芝居の芝居たるゆえんだ。

すべてはゲームであり、ドラマなのだ。最初は軽いお芝居のつもりで始めたのかもしれないが、複数のハンドル名を使い分けて何度も何度も書いているうちに、Aさん、Bさん、Cさんに独特の人格や人柄が形成されていく。

仮にブログ主のハンドル名を「ソクラテス」としよう。コメント欄には当然のごとく「プラトン」が質問攻めにやってくる。「ピタゴラス」がオカルトまがいの茶々を入れたかと思うと、弁証法の「ヘーゲル」が自分勝手な総括を始め、一息ついたところで「スピノザ」が神の審判だ!と叫びながらブログを荒らしまくる。

自分のブログのひとり芝居で物足りなくなると、人様のブログにも同じように「多重人格」で次々と投稿を続ける。一日の大半をパソコンに張りついて暮らしているので、現実と仮想の境目が怪しくなっていく。自宅から一歩も出ていないのに、「今日は海外のホテルから書いています」と平気でウソが書けるようになる。

この話で思い出すのは、ポール・ギャリコ(Paul Gallico)の逸品『Love of Seven Dolls(邦訳:七つの人形の恋物語)』だ。

舞台はフランスのパリ。踊り子を目指して田舎から出てきた少女が、夢破れて、セーヌ川に身を投じようとしていた。と、そのとき、背後から声がする。「セーヌ川の底は冷たいよ・・・。ザリガニが肉をボロボロに食いちぎるよ・・・」

人形劇のブースから、キツネの人形が乗り出して話かけている。このブースには7つの人形が代わる代わる登場する。甘える人形もあれば、なだめすかす人形もある。攻撃するもの、冷笑するもの、理知的に振舞うものもある。

人形たちに心の琴線をくすぐられた少女は、自殺を思いとどまり、この一座に歌姫として加わり、一緒に旅に出ることになる。“一座”とはいうものの、ギター弾きの黒人のアシスタントが1人いるだけで、7つの人形を操っているのは座長がただひとりだけだ。7つの人形の人格も声色も口調も、すべてのこの座長の内部に潜む多重人格が乗り移って表現されている。

人形の人格はとってもやさしいのに、人形ブースから出た瞬間、この座長はシニカルで暴力的だ。動物のようなギラギラとしたまなざしで睨み付け、誰にも心を許さない。そしてある夜、この少女に襲い掛かる。そして翌日には、何もなかったかのように人形劇の舞台が続いていく・・・というストーリーだ。

多重人格の自作自演ブログの場合も、多様性や柔軟性があり、人形のようにやさしく擦り寄ってくる。コメント欄にいろんな意見の書き込みがあることに油断したあなたは、ついうっかり、正直な意見を書いたり、メールを送ったりしてしまう。いけない、いけない。

すべては癒されない心が生み出した「仮想空間」だ。このわが世の春の仮想空間に、ただの1つでも異を呈する意見を書いたら最後、卓袱台(ちゃぶだい)がひっくり返る。人形劇ブースを丸ごとセーヌ川に投げ込むような大乱闘が始まる。

このような人形劇ブログは、そっーとしておいてあげることだ。そっー・・・と。

さて、自省をこめて振り返ると、どんな人にも癒されない部分、分裂したままに放置されて部分はある。かつて「ヒロさん日記」は、「ヒロ子」と「サン吉」の男女2人がペアで書いているという説もあった。2人と言わず、7人ぐらいの人格があれやこれやと書き散らかしているともいえる。実際、ピースボート、神話学、911、ピアノ&音楽の記事は、それぞれ異質な人格であるかのようだ。

ポール・ギャリコの『七つの人形の恋物語』の結末は美しい。分裂していた7つの人格に統合の瞬間が訪れるからだ。無理に一貫性のあるブログを書くことはない。正直に分裂しながら、年を追うごとに統合されていけばよろしいのではなかろうか。

posted by ヒロさん at 09:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | ネット生活と読書

2007年11月08日

魔女はどうしてホウキに乗って空を飛ぶのか

今年の夏からロンドンのDVD店では宮崎駿の「スタジオ・ジブリ(Studio Ghibli)」シリーズがずらりと並び始めた。『魔女の宅急便』も『Kiki's Delivery Service』として人気DVDだ。「魔女はなぜ箒に乗って飛ぶのか」は、神話学・民俗学・聖書学ではとても興味深いテーマだが、大っぴらに語りにくいテーマでもある。

エハン・デラヴィ:Halloweenの由来(2007/10/31)
なぜ魔女はほうきの柄 に乗って空を飛ぶ?・・その由来は驚くべきものだ。次元の壁が薄くなる季節として古代人は異次元へシフトするためにLSDのような作用がある、パンの表面に出来たカビを食べてシフトしたと思われる。しかし食べるだけではなく、肉体のとても敏感な粘膜から体内に浸透させる方法としてほうきの柄にその麦角菌を濡らして、それが女性の膣にこすって、変性意識になると・・

麦角菌の研究からLSDが発見されたそうだ。エハン・デラヴィがさりげなく書いているのは「飛び軟膏」の話でもある。『魔女の宅急便』の主人公の少女は人間界で暮らしている間に魔力がどんどん落ちてくる。しかしパン屋で働いていたことが幸いし、彼女がスランプを脱して再び空を飛べるようになった秘密は、パンに繁殖していた麦角菌にあったというわけだ・・・(飛びすぎかしら?)

魔女の軟膏
  伝統的な魔女とは本来、キリスト教布教以前のヨーロッパで信仰されていた土着の神々、特に豊饒の女神に帰依する巫女である。そのため、ほかの多くの文化圏に存在していた呪術者と同様、薬品や毒物を扱う術を心得ていた。そうした薬の中に、俗に「魔女の軟膏」と呼ばれるものがあった。<中略>
魔術的な力を持っていたとされる魔女の軟膏は、主に魔宴(サバト)に参加する魔女が、箒に乗って会場へ飛んでゆくために使っていたとされている。その用法から、こちらの軟膏は「飛び軟膏」とも呼ばれていた。飛び軟膏を使う際には、魔女は一糸纏わぬ姿となり、全身にまんべんなく軟膏を塗り、さらには飛行術に使用する箒の柄にもそれを塗る必要があったとされている。そのため、教会は「魔女は箒の柄を使って自慰行為を行っている」として魔女たちを批難した。
魔女の多くが豊饒の女神に帰依するものであり、女神の加護を与える方法として男性と性交渉を持つことを厭わなかった点が、そうした偏見を持たれる一因になったのではないかと思われる。
飛び軟膏は魔女が自分の体質や霊的志向に合わせて調合をカスタマイズしてていたため、使用する材料や製法は様々だったようだが、コウモリの血液やマンドラゴラ、毒せり、白スイレンなどの材料が共通して使われていた。共通した材料のほかに、魔女たちは自分の好みにより、ベラドンナや大麻、アヘンなどを添加していたという。
材料に見当識障害をもたらすベラドンナ、幻覚症状を発症させる大麻とアヘンがあることからもわかるように、飛び軟膏を肌に塗ることにより、意識状態が変容し、幻覚状態に陥ることとなる。さらに、毒セリや白スイレンといった催淫効果を持つとされた材料があったことをあわせると、精神的に「飛んだ」状態になっていたのかもしれない。

「魔女はどうして箒に乗って飛ぶのか」という命題は、「悪い」「女」はどうして「細長いもの」「上からまたがって」「昇天するのか」と因数分解できる。上からまたがる悪い女限定すると、その起源は旧約聖書の悪女リリト(lilith)にある。

◆大和岩雄『魔女はなぜ空を飛ぶか』(大和書房)p79
 聖書で名ざしで魔女といわれているリリトは、イヴと結婚する前のアダムの妻であったと初期の「創世記」に書かれていた。そのリリトと、アダムは土から一緒に創造され、アダムはリリトと性交しようとして、男上位をとろうとしたところ、リリトは「なぜ女が下になるのか」といい、アダムが強引にのしかかると、リリトは怒って空中へ飛び上がって、アダムの許を去ったと、「創世記」は書いている。空を飛んで去ったというのは、リリトは翼をもっていたからである。

旧約聖書の『創世記』1章27節にあるとおり、イブが登場する以前に、神は自分に似せて男と女の両方をつくっている。古い「創世記」によると、動物にはペアがあるのに、どうして僕にはパートナーがいないのか・・・と不満顔なアダムに対して、神は女リリトをつくった。アダムは純粋な土ぼこりからつくったが、リリトの土には不純な堆積物が混じっていたという(つまり失敗作)。男性上位を要求したアダムに、リリトは「あんたも同じ土からできたんだから、私たちは対等なはずでしょ!なんで私が下になるのよ!」と怒りまくって、家を出て行ってしまったとさ。(横臥側位にすればよかったのに・・・)

このリリトだが、現在の聖書では旧約『イザヤ書』34章14節のみに登場し、しかも「夜の魔女」としてぼかされている。アダムの前妻の話は内緒、内緒・・・という配慮からか。ただしヘブライ語訳や英語のジェームズ欽定訳(17世紀)では、リリトという言葉も明記されているという。

アダムを捨てたリリトは、悪女としてとても恐れられていた。とくに修道院では・・・。

◆大和岩雄『魔女はなぜ空を飛ぶか』(大和書房)p80
 アダムとイヴがエデンの園から追放されたとき、リリトはそこにいなかったので、キリスト教社会では、リリトは不死でいまだに生きており、夢をみている男たちの前に魔女の姿であらわれ、女上位で交わるといわれている。修道僧は睡眠中にしばしばリリトに襲われて夢精した。すると夢精した修道僧を嘲笑するリリトの笑い声が、修道院にひびきわたったという。リリトは夜あらわれて、女上位で男と交合しようとするので、修道僧は男根の上に十字架を置いて寝たといわれている。

十字架の使い方もいろいろだ。宣教師たちがあまりにもこだわったためなのか、男性上位は今日でも「宣教師の体位」「伝道の体位」(missionary position)と呼ばれている。

悪女リリトは翼をもった鳥のような存在でもあった。おそらく汚名として着せられた「悪女」という衣を取り除くと、「細長いものにまたがって昇天する女性」は「女神と白鳥」となる。ルネサンス時代にはゼウスが白鳥に化けてレダに近づいたというギリシャ神話のテーマが描かれたが、このストーリーの原型は「アプロディテ+白鳥」とされている。左がミケランジェロ作。右はモンロー作。

■参考
  • 色眼鏡日記:旧約聖書 アダムはバツイチだった?(2007/3/4)

  • posted by ヒロさん at 09:11 | Comment(6) | TrackBack(1) | 神話・宗教・民俗学

    2007年11月06日

    元MI6長官の「異常な愛」:情報操作、大量虐殺、ビルダーバーグ

    イギリス人は公共の場ではおおむね大人しい。わが子の学校の校医はドイツ人だが、職員会議に出席すると要領を得ない話ばかりでうんざりだという。彼に言わせると、イギリス人は一般論や周辺の話ばかりをしていて、核心に迫ることも、自分の意見を表明することもしないのだという。

    イギリスの携帯電話マナーはひどい。朝の静かな列車で、いきなり大音響の着信音を鳴らし、延々と大声で話している連中がたくさんいるが、隣に座っている人は眉間とこめかみにイライラのマークを表示しているものの、「すいません、もっと小さな声で話していただけませんか」とか、「電話はやめていただけませんか」と切り出すことがない。

    だが、秘密情報機関MI6(エム・アイ・シックス)の元長官リチャード・ディアラヴ(Richard Dearlove)の2007年10月31日の講演会にやってきた人たちは、違っていた。やりたい放題のいかさま「007」に怒りの声を上げている。


    YouTube: Richard Dearlove(7分)
    右のビデオはディアラヴの過去の発言から始まる。「イラクは、現存のアクティブな軍事計画において生物・化学兵器を45分以内に使用可能にでき、核兵器能力の取得にも精を出している」と述べ、イラクに大量破壊兵器があると主張し、イラク攻撃を後押しした。(参考:September Dossier

    聴衆からの質問の第1弾は、2005年7月のロンドンテロに関してだ。「MI6と内務省が7/7テロの黒幕ではないか」という質問に対して、「ノーコメント」「そんなのはゴミだ」と一蹴し、「知らないね、そのときはもう退任していたんだから」と逃げをかました。確かにリチャード・ディアラヴの任期は1999年〜2004年5月で、ロンドンテロの1年2ヵ月前に辞めている。

    次は911テロ。質問者が「911の真相究明で世界的な運動が起こっている。学術界、科学者、エンジニア、パイロット、軍事関係者、元情報部メンバー、目撃者、犠牲者の遺族などが米政府の公式発表に異議を唱えている・・・」と延々と始めたので、ディアラブは業を煮やしたかのように割り込んで「それは質問なのか? 答える、答えないの自由はある」と切り返した。

    イラク関連と見られる質問に対して、ディアラヴが「イラクに関する情報収集が混乱していた原因の1つは、イラク国民自身の内部の混乱にあると、私は考えるわけです・・・」ととぼけたことを言い始めると、「事実は確定していると言ったのは、あんただろ」「イラク人虐殺の戦争犯罪じゃないのか」という突っ込みが入り、大きめ拍手が湧き起こった。

    元MI5の女性も質問した。「1990年代にISS(=MI6)にはメディアにかく乱情報を流す“psy-ops”という部署があったが、その部署は今でも存在するのか?」と質問したが、「個別の質問には答えられない」と逃げたので再び場内が沸いた。

    ビデオの4分付近からが面白い。ディアラヴは米国にあるような国家安全保障会議(National Security Council)の設立を推進しているが、「あなたはどうして設立に積極的なのか? NSCは何を解決するのか?」という質問に口ごもっている間に、場内からヤジが飛ぶ。

    「ビルダーバーガーだろ」
    「えっ、なんですって?」
    「あなたがビルダーバーガーだからでしょ。何の話かご存知でしょうに」
    (口ごもりながら)「そ、そう、確かに私はビルダーバーグの会議には参加してますが・・・」
    (別のヤジ)「ビルダーバーグって何なの?」
    「う〜ん・・・それは〜、ここでやっているのと同じように、いろんな問題を討論する場であり、ただし公開形式にはなっていないだけで・・・」

    という具合に、非常に歯切れが悪くなってしまった。『Dr. Strangelove』(「異常な愛」博士)という映画があるが、この秘密情報機関の元トップは「Dearlove」(「いとしい愛」、「法外な愛」)という風変わりな苗字の持ち主だ。2007年にトルコで開催されたビルダーバーグ会議にも参加し、国際金融財閥に「いとしい愛」やら「異常な愛」やらを注いでいる御仁である。

    ■関連記事:
  • ネオコンを糾弾する言論テロリストが、各地に出没中
  • 「7/7テロ」の偽装トリック、有効期限切れが迫る!
  • posted by ヒロさん at 09:35 | Comment(1) | TrackBack(0) | 国際政治/謀略

    2007年11月01日

    ザ・シークレットの源流:エスター・ヒックスの“感情ナビゲーション”

    自己啓発DVD『ザ・シークレット』の書籍版が日本語に翻訳されて10月29日に発売されたので、拙ブログ記事への検索アクセスが増えている。「The Law of Attraction(引き寄せの法則)」は昔から語られている成功哲学の要だが、これを上手に映像化したところにDVD『ザ・シークレット』の価値がある。

    このDVDはまた、成功哲学分野で人気のある指導者が勢揃いしているので、自分好み指導者を探すことができる。成功哲学大学の講義・教官目録のようなものとして使える。各指導者の素顔に近づきたければ、CNNラリーキング・ライブの出演ビデオをチェックするという手もある。

    「思考は現実になる」「引き寄せの法則」「ビジョンボード」「潜在意識のパワー」など、みな同じことを言っているが、各指導者にはそれぞれの体験談とスタイルがある。また先生を選ぶにあたって、生徒の側にも好みや思い込みがある。

    知人に『Effort-free Life』というCDを薦めたところ「声が気に入らない(スコットランド訛りがある)」という理由だけで一蹴されてしまった。エックハルト・トール(Eckhalt Tolle)著作の『Power of Now』は、人類の総体意識における身体論を展開した名著だが、友人は「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」というおせっかいな翻訳タイトルがゆえに、読む気が起こらないという。

    かという私も、宇宙意識が語るとか、高級霊とのチャネリングと称するものは、今まで極力遠ざけてきた。が、『ザ・シークレット』のおかげでこの偏見を乗り越え、エスター・ヒックス(Esther Hicks)に深く出会うことができた。「バイブレーション(波動)の共鳴する人、しない人」で明らかにしたように、『ザ・シークレット』の原点はエスター・ヒックス(Esther Hicks)にある。

    エスター・ヒックスは言語明瞭だ。はっきりとした英語で弾丸のようにしゃべり続ける。何よりもいいのは、意外なエピソードを数多く交えながら笑いを取りまくるユーモアセンスだ。

    エスターは「感情のみに注目して思考を修正せよ」という。目標設定が大事だとか、視覚化(ビジュアライゼーション)をもっとやれとか、どんな小さな一歩でもまず踏み出すべき、というようなことは言わない。「いやな感じ」を感じているうちは、その「いやな感じ」に合致した現実を引き寄せる。よって第一歩があるとすれば、「いやな感じ」が少しでも「いい感じ」になるように、言葉や思考を変えることだ。

    最近私に起こったことでいうと、「右脚が冷えてしょうがない」という冷え性による「いやな感じ」があった。両脚なら「今日は寒い日だ」といえるが、どうして右脚だけ冷えるんだ、今日はとても天気がいいのに、右脚が冷えて不愉快だ・・・となる。もうかれこれ、4年以上続いている。

    静かに部屋で読書をしていても、インターネットで調べものをしていても、右脚が冷える。不愉快だ。不愉快だといって、脚を多少さすったところで直らない。そこで、スクワットなど多少運動したうえで「脚がとっても温かい」と思う。口に出して言う。紙に書いて目の前に貼る。お風呂に入ったら、ことさら「脚が温かい」と意識を向ける。

    しばらくすると、ふと気がついた。結跏趺坐などの座禅のポーズで、常に右脚を内側にしているので、右膝を曲げる角度が大きい。つまり右脚の血行が悪くなっている。椅子に座って脚を組むポーズをすると、無意識にうちに右脚を圧迫している。さらに、夜寝ている間に、右脚を曲げて寝るクセがあることも発見した。「右脚が冷える」ことは、困った問題でもなんでもなく「血行をよろしく〜」という体からのメッセージなので、ありがたいと感ずるようになる。

    スクワットをするときの言葉にも「脚がとっても温かい」を追加する。右脚のストレッチを意識的に多くするようになる。寝るときも右脚を伸ばして寝るようになる・・・という具合に、4年間の不愉快な事態もみるみる好転していくわけだ。

    「問題・不快・いやな感じ」は、「願望・快感・いい感じ」のあり方を教えてくれる。「脚が冷える」「金がない」「子供が言うことを聞かない」「誰も私を認めてくれない」・・・などは、そこに意識が行き、その言葉を繰り返している限り、繰り返せば繰り返すほど症状は強まり、一向に解決することはない。

    だが、いまトラブルと不平不満で真っ最中の人が、いますぐ「最高の感じ」にひっくり返すといっても、そうは問屋が卸さない。「絶望」よりも「復讐」のほうが、気分が晴れるという意味でまだマシだ。「復讐」よりは、あいつは許せないと「怒りまくる」ほうがまだいい。「怒り」よりは「イライラ」程度のほうがいいだろうし、人生捨てたもんじゃないという「かすかな希望」のほうがずっとよい。

    そして1日24時間、気持ち・気分だけに着目して、一瞬でもいやな気分を感じたときは、ほんの少しでも楽で、マシになる方向に言葉や思考を変えていく。そして、常に気持ちが「マシなほうに移行している」状態になったときに、必ずや意外な形でよい出来事や、体調の好転や、救世主や、発見が現れるというわけだ。それが「ザ・シークレット」なのだ。

    posted by ヒロさん at 08:46 | Comment(1) | TrackBack(0) | 「引き寄せ」の考察
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