
『Call the Midwife(助産婦を呼べ)』は1950年代のロンドンの下町を舞台にした助産婦によるノンフィクション。この世に看護婦を主人公にしたドラマや小説は山ほどあるが、すでに歴史的遺産になりつつある「助産婦」の物語はほぼ皆無に等しい、と前書きにある。日本の小説で助産婦を扱ったものは何かあっただろうか?
小説のサブタイトルは「1950年代のイーストエンドを舞台にした真実の物語」だ。現在のロンドンのイーストエンドには金融街シティが鎮座しているが、もともとは「East End」が庶民の下町で、「West End」は繁華街という区分だった。そのイーストエンドの中でも港湾労働者が住むアパート住宅街を舞台とした、数々の出産物語となっている。
貧民街では出産時の赤ん坊の死亡率は50%、産婦の死亡率も30%に近かったという。このような生と死の境界線に立ち会う助産婦にとっても数々の試練がある。
早朝深夜であれ、クリスマス当日であれ、危険な赤線地帯にも自転車で駆けつけなければならない。トイレ・水道は中庭で共同使用という家がほとんどだ。風呂に入る習慣がない女性たちを検診するときの体臭。ベッドに広げる“出産シーツ”の焼却処分。不潔な環境、性病の処理、家庭内暴力、売春で生計を立てる母親などなど。
出産は女性だけが関わる聖域であり、重労働だった。英語では今でも出産を「labour」と呼ぶ。夫の立ち会いが許されるのはここ40年程度の現象で、男性医師が関わり始めたものせいぜい100年前からだ。産婦人科の父とされるのはエジンバラ大学のJ.W.Ballantyne博士。1860年のイギリスで年125万件の出産があったが、医師が関与したのはわずか3%だった。
私の義理の妹はかつて「帝王切開はあるのに、どうして女王切開はないの?」というふざけたことを真面目に質問していたが、イギリスで帝王切開に国民健康保険(NHS)が適用されるのは1948年からだ。日照不足の北欧などに多いくる病患者の女性の場合は、骨盤がゆがみで産道が小さくなっているため、帝王切開が推奨だが、貧民街でこの手術を受けられる人はまれだ。まさに命がけの出産となる。
数十の体験エピソードが語られているが、印象的だったのは42才で24人目の子供を生む人の話。双子なしでこんな人数が可能なのか訝ってしまうが、16才から出産を続け、ほとんど生理を体験したことがない出産人生だという。狭い家の大所帯であるにも関わらず、子供たちはみな協力的で、喧嘩がいっさいなく、食事もとても静かだ。
この夫婦は、スペイン内戦に赴いたイギリスの義勇兵がスペインの田舎娘をロンドンに連れて帰って結婚したもの。妻はロンドンに16年住んでいるのに、ひと言も英語をしゃべらない。一方の夫はスペイン語を片言しかしゃべらない。助産婦の著者は「なるほど、これが家庭円満の秘訣だったのか」とほのぼのと結論している。
売春絡みの逸話もある。アイルランドから家出してきた15才のメアリーは、売春宿で奴隷状態になり、妊娠しながら逃げ回ったあげく、著者のもとにやってくる。ケント州のカトリック教会施設に移されて出産し、ひとときの至福を経験するが、子供が取り上げられ、承諾なしに里子に出されたことで狂乱状態になってしまう。3年後、バーミンガムの赤ちゃん誘拐事件が新聞を賑わせるが、このメアリーが犯人であったことがわかり、著者は深く心を痛める。
出産セットを抱えて早朝深夜に遠距離訪問するためには自転車が必須だ。体重が80キロ近い同僚の助産婦チャミーが、生まれて初めての自転車経験で七転八倒していたが、近所の腕白小僧がペダルを踏み、彼女はハンドルだけを操作するというコラボレーションが功を奏して、徐々に上達していく。そのお礼に、このおデブの助産婦さんが腕白小僧に「高級自転車」を買ってあげるという微笑ましいエピソードある。ちなみに、この悪ガキ小僧はのちに出世して、故ダイアナ妃のボディーガードを務めるまでになったとのこと。