うつ病者はよく考える。精神病者もよく考える。うつ病者はいつも「どうしよう、こうしよう、ああすればよかった、こうすべきではないか」と、自分の挙動や意思決定について思い悩み、同じ問題をめぐってくよくよと考え続ける。被害妄想に陥った精神病者は、他人のありもしない悪意について思い詰め、そのことだけを昼夜を問わず考え続ける。<中略>両者においては、どちらにせよ「考える」という行為が人間の偉大さではなく、悲惨さのしるしとなっている。
もちろん、うつ病者や精神病者がよく考えるとはいっても、それは頻度や持続時間など量的な評価であり、質的な意味での「よりよく」にはけっしてならない。
考える力は本来、サブルーティン化や階層化による思考の短縮や、真偽の弁別に対する直観の洗練化をもたらすものだ。それが精神の弁証法であろう。ところがこの弁証法がうまく働かなくなると、質的な発展が阻害されて量的な強度のみを強いられることになる。うつ病者のルーティンワーク的な「ぐるぐる思考」や精神病者の歯止めを失った妄想の自己増殖は、まさにそうした純粋な強度の独演劇ともいえる。
「うつ病」という診断を受けたことがない人でも、「うつ病的」な傾向はあるものだ。過去の後悔や未来の心配など、「よからぬ」考えが次々と意識を駆けめぐっている。頭の回転が速い人ほど、同じサブルーチンがループして暴走すると精神的な消耗が激しい。
以前「同調体質」と絡ませて記事を書いたことがあるが、このような「うつ的思考」に対する私の処方箋は以下のようなものだ。
- 大好きな音楽を聴く。ワイヤレスヘッドホンやMP3プレイヤを活用せよ。
- とにかく息を長く吐く(過呼吸対策)。
- PC&TVの光よりも、もっと太陽の光を。そして適度な運動を。
- 掃除をやれ。意識のゴミは、部屋・家のゴミと連動している。
- 頭に巡っていることは、書き出せ。そして不要ならば捨てよ。
- 人の気持ちを察することをやめる。そんなものは永久にわからない。
- 「なぜ悪くなったか」よりも「どうすれば良くなるか」を考える。
- 身の回りを「好きなもの」でいっぱいにする。
- 過去の「うれしい」記憶や体験をリストアップし、これを繰り返し想起して、感情の制御に利用する。
- 「世の中は悪意で満ちている」という陰謀論よりも、「みんなが私を助けてくれる」という互助論で心を満たせ。
といったところか。掃除や整理整頓で不要なものを捨てることの意味は、非生産的なサブルーチンを排除することにもつながる。パソコン回りや勉強机からは、余計な連想(=サブルーチン)を呼び出すトリガーを全部片づけてしまう。一方で「今日の目標」「自分を励ます言葉」「自分をワクワクさせるもの」を身近に置く。
「よからぬループをやめる」ことを意識するよりも、「やりたいこと」「楽しいこと」「今すべきこと」という別のサブルーチンを絶え間なく起動し、それに集中し、没頭するための工夫をする。
■吉永良正『ひらめきはどこから来るのか』(草思社2004年) p157から引用
うつ病者の病前性格をみると、単極性(うつのみが現れるタイプ)では「几帳面、秩序を重んじる、ていねい、人に気をつかう」という特徴があり、双極性(うつと躁が交代するタイプ)では「活動的、ひょうきん、社交的、世話好き」などの傾向が強い。どちらにしても社会生活への適応のために形成された性格だが、慢性的ストレスにさらされると几帳面や活動的というパターンに「行き過ぎ」が生じ、そのために疲れてしまってうつ病を発症すると考えられる。
<中略>単極性にせよ双極性にせよ、うつ病者のリアルな生活感覚の基本には「柔軟性のなさ」と「気持ちの切り替えに非常に時間がかかる」という特徴が見出される。それは結局のところ、「物事の重みづけができないこと(どれが重要で、どれがそうでないかを判断するのが苦手)」「あるネガティブな感情がいつまでも残る」の二つの問題点に根ざすことのように思われる、と氏は言う。
私の子供のころはノートをひたすら完璧にまとめる「几帳面」な子供だった。1つでも間違えるとゼロから書き直そうとするので時間がかかる。そして、ただただ几帳面を貫き通そうとするとエネルギーが枯渇していく。このとき、ひと休みするとか、やり方を変えるとか、そもそも目的は何かを再確認するとか、優先順位を見直してエネルギーを再配分するとか、そんなことがなかなかできない。
私の場合は「約束を破る、変更する、手持ちを捨てる」=「悪」のような思考パターンがあったようだ。計画や約束や決めたことは、常にどんどん変わっていくもの。途中であれこれ変えても、自分を責めることはない、よしよし、と自分を抱きしめてあげよう。
几帳面さや完璧さというものも、過度に「他人の目」を意識した結果でもある。ひょうきんさや社交性にこだわるのも他者意識に過敏だからだ。現実に失敗して「笑われた」「叱られた」という経験が多いと、ここから不幸のループに陥りがちだが、「部分と全体」の楽観主義、「拡大解釈」のアファメーションで乗り切っていきましょう。