2009年08月27日

「鼻ほじり論序説」:目くそ、鼻くそを笑うなかれ

『鼻ほじり論序説』は装丁も文体も大まじめだ。目次は以下のようになっている。

  • 1. 鼻ほじりの歴史
  • 2. 鼻ほじりとは何か
  • 3. 鼻ほじりのテクニック
  • 4. 鼻ほじりの悩み相談
  • 5. 鼻ほじりの豆知識
  • 6. ノストリダムスの大予言
  • 7. 絵画表現に見る鼻ほじり
  • 8. 詩や歌の中の鼻ほじり

    第2章の「鼻ほじりとは何か」では、初心者にもわかりやすいように、Q&A方式で丁寧に説明してくれる。

    Q: 指はどれくらいの深さで突っ込んでいいのですか?
    A: 一般的に言って、指を深く突っ込んだときに自分の名前が思い出せないようであれば、それはやりすぎといえよう。

    Q: 他人の鼻をほじってもいいのですか?
    A: 「絶対に許可なく他人の鼻をほじってはいけない。古い格言にある。
      鼻くそをほじるのは自由だ。
      友達を見つけるのも自由だ。
      だが友達の鼻くそをほじるのは自由ではない。

    Q: ベッドでは、ほじった鼻くそをシーツで拭いても大丈夫ですか?
    A: まったく問題ない。しかしベッドでは、鼻くそを拭かずに丸めて、洋服ダンスめがけて弾き、「ピシッ」という音が聞こえるかどうか耳を澄ます人が多い。暗闇で一度試してほしい」

    研究によると、鼻ほじりで使われる指には4つのパターンがあり、おおよその性格も診断できる。

    @人差し指・・・意志の強い人
    A小指・・・紳士的だが気取り屋
    B親指・・・無神経で攻撃的な人
    C二本指・・・外向的で欲張りなタイプ

    職業別で鼻ほじりがもっとも多いのは、タクシードライバー、サッカー選手、交通巡査、テレホンオペレーター、税関職員。もっとも少ないのは、ピアニスト、歯科医、美容師、タイピスト、肉屋、ゴミ収集業者だという。

    本書は序説なので、本論や概論にも期待しよう。


  • posted by ヒロさん at 22:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | そうじ力、整理学

    2009年08月26日

    思考場療法(TFT)=思考起動+経絡タッピング+眼球移動

    本日から始めたばかりだが、これは行ける、という感じがある。コメント欄で教えてもらった思考場療法(TFT: Thought Field Therapy)を左肩の肩こりに試したところ、胸や肩が燃えるように熱くなり、左後頭部にもボッと火がついている。持続時間は非常に長く、何かが活性化しているようだ。

    ネガティブ思考、経絡タッピング、眼球移動を組み合わせただけの実に単純な療法で、誰でも自分一人でできる。細かい手法では、神経言語プログラミング(NLP)、応用運動機能学(AK)、呼吸法、ハミングなども含まれている。

    一般にネガティブ思考への対処では、「回避・転換」と「直面・受容」の2通りがある。前者は楽しいことに意識を転換する方法であり、後者はしっかりと直面して受け入れるやり方だ。思考場療法は後者の直面型と言えるかもしれないが、受け入れるためのイメージ操作や言葉操作をいっさい行わない。

    使用する経絡のツボは約10カ所で、指圧ではなく、2本指または拳の突起部で叩く動作(タッピング)を基本とする。目の下、脇の下、鎖骨直下、手の甲の経絡ポイントは特に多用される。タッピングするポイントの順番は、症状に応じてアルゴリズムが決まっており、20年以上のノウハウの蓄積があるという。

    視点移動は記憶の場と深い関係があり、催眠や記憶術でも使われ、PTSD、パニック障害、恐怖症の治療でEMDR(=Eye Movement Desensitization and Reprocessing)という手法もある。拙ブログでは、以下の2つのエントリでほんの少しだけ考察した。

  • 速読講座2:あなたはどちら系の「斜め上」ですか?
  • 翻訳した瞬間に過去の映像が流れる、マドレーヌ現象について

    私の場合、翻訳作業をしているときに「マドレーヌ現象」が頻発するという経験をした。読書ではさまざな脳内連想が飛び交って当然だが、読むときの基本は意味やストーリーの流れを追いかける一方向の動きだ。ところが、日本語に翻訳するために英文の修飾構造を強く意識しながら、視点が逆方向に頻繁に移動すると、走馬燈のように過去の映像がフラッシュバックする。連想とはとても言えないような突飛なフラッシュバックばかりなので、いったいこれは何だろう、と深く考え込まざるを得なかった。

    このような眼球運動ばかりでなく、体全体の電気的なエネルギーの流れも「思考場」「感情場」に密接に関わっており、いったんネガティブな回路を発動したうえで、タッピングによって“放電”し、このエネルギーの回路パターンを壊してしまうのが思考場療法ではないだろうか・・・と、今のところ素人理解で考えている。

    医学的・理論的な側面を重視したい人は『TFT(思考場)療法入門』、とにかく今すぐ実践したい人は図解が豊富な『ツボ打ちTFT療法』がおすすめだ。私自身の成果については、また近日中に報告したい。

    思考場療法では、人差し指のツボ(商陽)は「罪悪感」、小指のツボ(小衝)は「怒り」の解消に使われているのが興味深い。爪の付け根の刺激については、免疫学の安保徹も推奨している。自律神経、経絡ツボ、眼球移動、ハミング療法について、もっと知りたくなってきた。



  • posted by ヒロさん at 00:05 | Comment(1) | TrackBack(0) | ささやかな健康法

    2009年08月25日

    「神々の糧」:トリプタミン幻覚剤と意識のビッグバーン

    ホモ・サピエンスは5万年前に知性が爆発的に急成長し、アフリカから脱出した150人程度のグループが現在のすべての人類の祖先となったとされている。アフリカで意識のビッグバーンを引き起こしたものは何だったのか。

    『神々の糧(Food of the Gods)』のテレンス・マッケナは、強いエクスタシー感覚をもたらす世界中の向精神性植物を比較検討し、アフリカ中部で幅広く植生し、人類祖先の食糧となった可能性があるのはトリプタミン幻覚剤を含有する植物・キノコ類ではないか、と推理する。

    トリプタミン系のシロシビンを摂取すると視覚が鋭敏になり、性的な興奮を誘発するという実験を引き合いにしながら、マッケナは5万年前の激変を以下の3点から考察している。

    ■ 1. 鋭敏な視力は狩猟や採集を大幅に向上させ、食糧の大量確保が可能になった。
    ■ 2. 性的な興奮を引き起こし、人類の急速な繁殖に役に立った。
    ■ 3. シャーマン的なエクスタシーを経験し、超自然的な判断力・予知能力・問題解決力をもつ指導者が現れた。

    視力向上によって「狩猟される側」から「狩猟する側」に転換したともいえる。裸眼視力が3.0〜5.0に上がっただけではなく、心の目による察知能力も高まり、安全な住み家や集落を確保したうえで、生めよ殖やせよ、が起こったのかもしれない。

    やがて超自然との交流を専門にするシャーマンの家系が生まれ、神秘世界や生命現象が徐々にコトバで表現されるようになり、ここから宗教や文字社会へと発展した、と想像できる。

    わたしが主張したいのは、初期人類の食物に含まれていた突然変異を起こさせる向精神性化学化合物が、脳の情報処理能力の急速な再編成に直接影響を与えたということである。植物中のアルカロイド、とくにシロシビン、ジメチルトリプタミン(DMT)、ハルマリンといった幻覚誘発物質は、原人の食物の中で、内省能力の出現の媒介を果たす化学的要素となり得るものだった。<中略> この過程のもっと後の段階で、幻覚誘発物質は想像力の発達を促し、人間の内部にさまざまな戦略や願望をさかんに生み出し、そしてそれらが言語と宗教の出現を助けたのかもしれない。(p41)

    著者はエクスタシー感の高い“ドラッグ”を以下の4つに分類する。

    1. LSD型化合物・・・近縁はヒルガオ、麦角など
    2. トリプタミン幻覚剤・・・DMT、シロシン、シロシビン(豆類など)
    3. ベータ・カルボリン系ドラッグ・・・ハルミン、ハルマリン(アワヤスカのベース)
    4. イボガイン科の物質・・・アフリカと南米に存在

    余談だが、本書では『神々の果実(Magic Mushroom)』にも登場するベニテングダケについては、若干の向精神性はあるものの、安定的なエクスタシーはもたらさないとして除外されている。私も『神々の果実』を読んでみたが、インドのソーマ(Soma)に関しては文献学的に説得力があるが、飲尿習慣を絶対の前提とするところが難点だ。また、神話学やユダヤ・キリスト教に関しては、拡大解釈が甚だしい。

    ともあれ、人類の祖先がアフリカのトリプタミン幻覚剤で意識のビッグバーンを経験したと仮定すると、その後の放浪地では良質の幻覚剤に恵まれなかったということか。

    エジプト脱出のモーゼは麦角(LSD)の知識が豊富だったという説もある。エレウシスの秘儀は麦角ビールのような特殊大麦飲料を使っていたという考察もある。だが、麦角は一歩間違うと大量の死者を出す猛毒物質でもあるため、扱いが困難だ。

    アヘンは中国を攻略する薬物となり、“スピリット(精神)”と呼ばれるようになった蒸留アルコール飲料も、大量の中毒者を出して社会不安を広げた。アヤワスカは現在注目されているものの、これを使っていた中南米の民族が戦略的な優位に立てていたかどうか。砂糖・コーヒー・茶・チョコレートは、医薬品や催淫剤としては期待倒れだった。現代社会が抱えるタバコの害についてはすでに周知の通りだ。

    現代社会では草原で狩猟をするような視力は不要であり、人類全体の視力は低下する一方だ。生めよ殖やせよの効果が効き過ぎたせいなのか、地球上の人口がこれだけ増えても年中型の発情は続き、それでも満足できず、「もっともっと」とドラッグを求めている。

    残された快感と英知の世界は、シャーマン型のエクスタシーの世界だ。このエクスタシーを一般庶民が常時体験するような革命の日々は、果たして訪れるのだろうか。

    ■関連記事
    モーゼが視たヘルメス蛇の幻想 ― 龍神イエスを導くマトリックス
    二重らせん構造、知的生命体の大蛇、そしてクンダリーニ
    posted by ヒロさん at 00:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | サイエンス+数学

    2009年08月23日

    「細胞から元気になる食事」:長寿遺伝子サーチュインが目覚めるとき

    『細胞から元気になる食事』(山田豊文)は、あとがきから読むとよい。少食の効能に関する3つの研究を紹介している。最初の2つは、2008年12月にテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」でも紹介された。

    ■長寿遺伝子サーチュイン・・・・米マサチューセッツ工科大のロナルド・ギャランテ教授が発見した遺伝子サーチュイン(Sirtuin)。ガンの抑制、活性酸素の消去、筋力の強化、糖尿病の予防、脂肪の燃焼、老化の抑制に関連する遺伝子で、どの生物にも存在するという。ただし、少食という引き金がないと活性化しない。

    ■サル1200匹の20年間の食事実験・・・・米ウィスコンシンン州マディソン校では、1200匹のサルに与える食事を普通食と少食の2種類に分け、20年間にわたって観察を続けた。20年後の老化の差は歴然としており、少食グループの若さに軍配が上がった。

    ■断食で活性化するレブ遺伝子・・・・京大の西田栄介教授らは、エサを減らすと線虫の寿命が1.2倍に延びるという研究を発表。とりわけ、一定の間隔でエサを全く与えない日を設定すると、寿命は1.5倍に拡大した。この断食で活性化されるのはレブ(Rheb)遺伝子だが、これは人間にも存在する。英『ネイチャー』誌の関連記事は<こちら>

    長寿遺伝子が発現する仕組みについては<こちらの記事>を参考に。

    □□□□□□卍□□□□□□  

    『食べること、やめました』の森美智代は、1日60kcalという微食だけでも奇跡だが、さらに週1回の不食を長年続けている。彼女を不治の病から救ったのは現代医学ではなく、食事療法だった。

    少食や不食で活性化する遺伝子群は、不安定な食物周期を乗り切ってきた生命の歴史が刻み込まれている。食事は腹八分目よりも五分目、1日2〜3食よりも1食のほうがよいかもしれない。人は健康になるために何かをプラスすることばかり考えているが、マイナスの「引き算革命」があることを肝に銘じておきたい。

    現在、私にも進行中の「1日完全1食」は、毎日二十数時間の断食をしているようなものであり、毎回の食事がbreakfast(破る+断食)になる。これに加えて、週末に不食の日を加えるとどうなるのか、いずれ実験してみたい。

    『細胞から元気になる食事』はわずか420円の文庫本ながら、日常食の心がけ、油の問題、脂肪対策、酵素のメカニズム、少食の効用など情報が盛りだくさんだ。活性酸素を退治するファイトケミカルは「闘うケミカル」と誤解していた私だが、ギリシャ語の「phyto=植物」であることも教えてくれる。

    ■関連記事:
  • 「レスベラトロール」という名のポリフェノールで長寿番付
  • 長寿遺伝子サーチュインが発現する仕組みについて

  • posted by ヒロさん at 23:55 | Comment(2) | TrackBack(0) | 食生活&サプリ

    2009年08月22日

    「読書の歴史 - あるいは読者の歴史」について

    かつて文字の読み書きは神官の秘め事だった。粘土板からパピルスや羊皮紙に移行したころ、読書は「音読」と同義語だった。希少価値としての書物は、数多くの人の前で朗読され、共有された。中世修道院では「読むこと=書写すること」であり、テキストは暗記の対象だった。

    「黙読」が普及するにつれて、本は1人で読まれるものになった。書籍の小型化が進むと、本は列車や旅先にも携行され、ペーパーバックや廉価版が登場すると、貸本屋が衰退し、本は自由に買われるものになった。

    今後の「書籍」の未来は、完全デジタル化とeペーパーだ。音読から黙読に進化した読書は、ここからさらに音声回路(ウェルニッケ野)に頼らない“視る読書”への飛躍がすでに始まっている。その次は、本に触っただけで情報の要不要が即座にわかる“感じる読書”であろうか。

    ■実生活はすべてデジャビュ?

    『読書の歴史 ― あるいは読者の歴史』の著者アルベルト・マングェルのように、幼少期から大量の読書を続け、数カ国語を自由に読み書きする超人たちに言わせると、実生活はすべて、すでにどこかで読んだことのあるデジャビュ(既視感)の風景なのだという。

  • 「つまり自分が先に読んだものが実現されていくという、通常の時の流れに逆らって進んでいるような印象を与えるのである。(p22)
  • プラトンのように、私は知識から出発してその対象物への道を辿った。事物よりもその概念こそ実在のものであると私は気づいたのだ。(p23)
  • 「物語は、人生の早い段階から人生と関わりを持つものであって、将来の見通しといったものを既に与えてくれるのである」(p23 心理学者ジェームズ・ヒルマンの言葉)

    ■浮気や変節を楽しむ

    本を理解したと言い張る人は、何を理解したというのか。同じテキストを読んで、ある読者は意気消沈し、別の読者はこれを笑い飛ばす。毎年同じ時期に同じ本を読むことに決めると、自分との関係が変化していく。

    新たに読む作品は、以前に読んだものの上に積み重なっていく。読者家であればあるほど、自分の人生経験の上に積み重なるのではなく、読書経験の上に累積的に、幾何学的に積み重なっていくのだ。アルゼンチンの作家エゼキエル・マルチネス・エストラーダは次のように述べる。

    ある本を読みながら、以前読んだ別のものに感じた感情を思い出したり、呼び戻したり、あるいは比較してみたりといったことをする人がいる。これは最も精巧な姦通の一形式である。(p34)

    ■読み聞かせ

    子供への読み聞かせが9〜10才で終わってしまうのはさみしい。大人の朗読会にはさまざまな楽しみがある。ある物語を読んでいるのに、地名や登場人物を勝手に地元バージョンに変えて読まれる朗読会もあった。さらに手が込んでくると、話し手の作り話にすぎないのに、本を持つという行為によって場を圧倒する業師も現れた。

    ジェーン・オースティンの家庭では、小さいころから朗読会が頻繁に開かれていた。読書は自分のペースで立ち止まる自由度があるが、一方、朗読会や読み聞かせは音楽や演劇に近く、会話が“生き物”のように聞く者の中で踊り出す。朗読本には、ピアノ、メゾフォルテ、スタッカートのような朗読記号が追加される。ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』『エマ』などの作品には、朗読会で蓄積された生き生きとした会話が花開いているはずだ。

    ■書物の形態が決めるもの

    古代アレキサンドリアに収められた書物のほとんどは巻物であり、巻物の長さが1章の長さを決めていた。『イーリアス』の24章はそのままに24巻だ。書物は「巻物」から「綴じ本」に発展したが、コンピュータ時代では再び巻物(スクロール)に回帰している。

    説教台に乗る羊皮紙は2折(30cm×40cm)のフォリオだ。このサイズで聖書を記述すると羊200頭が必要。4折のクウォートもどっしりと重く、たくさんの書物を同時参照するときは、水車のような回転机が使われた(デュマの『三銃士』にも登場する)。8折のオクタヴォがお目見えするのは1501年になってからだ。

    ■見せ本のイメージ活用

    空箱や表紙厚紙だけで、中身のない本も流行した。自宅の本棚に「俺は読んでるぞ」と鎮座させる見せ本になる。上流階級は旅行や外出で携行する本もファッションとして気を使った。出版数が少なかった時代には「同じ本を持ち歩く人」に出会うことがあり、思わず声を掛けたくなる。自分と同じ車種で色も同じ車で出会ったときは、イヨッとつい合図したくなるようなものか。

    日本では書店のレジで掛けられたカバー紙で表紙を隠している人が多いが、いっそのことクラシック風の“見せ本”カバーを販売したらどうか。村上春樹はジョージ・オーウェルの偽カバーで読んでみたい私だ。

    ■五感をすべて使った読書

    本を読むときは五感を総動員してストーリーの状況をありありと思い浮かべる、という話ではない。文字のかすれや紙の汚れ・しみをしっかり目に焼き付け、ページのめくれる音を音楽のように楽しみ、インク・紙・革の臭いに酔いしれ、ざらざらとした手触りの違いを点字のように読み取り、指を舐めながら本をめくることで本の味を確かめる。(なめた味が青酸カリだったりすると、『薔薇の名前』のように昇天してしまう・・・)

    さらに本は一語一語を噛み締め、しっかりと咀嚼し、消化して血と肉にしてしまう。人類最初の“食べる本”は、旧約聖書に登場する「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」(エゼキエル3:3)のようだ。蜂蜜たっぷりの渦巻きパンのごとしだが、時代が下ると「口には蜜のように甘かったが、食べると、私の腹は苦くなった」(新約・黙示録10:11)人もいるので、甘いもの食べ過ぎには注意しよう。

    ■麻薬のような読書

    私が大学受験で予備校に通ったとき、隣に座っていた読書マニアが「本を読んでも人生がよくなるとは限らない」と嘆いていた。せっかく勉強しようと思っているのに、読み始めたら止まらない本(平井和正の『幻魔大戦』や各種の恋愛小説)が山ほどあり、生活に支障をきたしているという。

    「本がなかったら生きていけない」という子供にカフカは説教する。

    人生においては、全てのものに意味があり、全てのものに目的があるのであって、それを何かに置き換えようたって、そうはいかない。自分の経験を他人にしてもらうことなんてことはできないだろう。この世界と本の関係だって同じさ。籠の中の鳥のように、自分の人生を本の中に閉じ込めようとしたって、それは無駄だ。

    カフカはその一方で、本に幸福を求めてはいけない、そんな本は自分で書け、という。

    要するに私は、読者である我々を大いに刺激するような書物だけを読むべきだと思うのだ。我々の読んでいる本が頭をぶん殴られた時のように我々を揺り動かし、目覚めさせるものでないとしたら、一体全体、何でそんものをわざわざ読む必要があるというのか?<中略>我々を幸福にしてくれる本なんて、困ったときに自分たちで書けばよい。(p111)

    頭にガツンと一発!の読書が必要だ。



  • posted by ヒロさん at 21:37 | Comment(2) | TrackBack(0) | ○○の歴史・文化史
    ×

    この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。