大規模災害のニュースを聞くたびに、このような苦難に見舞われたのが、なぜ“彼ら”であって、“私(たち)”ではなかったのか、と宙を見つめながらいつも思う。
2004年のスマトラ沖地震のときは、あの世とこの世の境界がぼやけていくのを感じていた。犠牲者25万と簡単に言うものの、1人ひとりに家族があり、喜怒哀楽の物語があり、夢や希望があったはずだ。一瞬にして失われる25万の魂のゆくえはどうなったのか、とあてもなく想いが漂っていく。シュタイナーに言わせれば、天災で亡くなった魂は、すぐに生まれ変わるというのだけれど。
当たり前のことだが、身近な大惨事はより大きく見え、より痛ましく感じられる。2008年の四川省大地震では7万人が亡くなったが、友人の安否が確認されたあとは、遠い世界の物語のようになってしまった。2010年1月のハイチ大地震では、20万人以上が命を落としたが、ほとんどの日本人にとってはただの“事件”であったことだろう。
大規模な死はつねに目の前にあるものだ。ここで言う“大規模”とは、必ずしも大災害を意味するものではない。昨年1年で世界中で亡くなった人の数は、
約5000万人(*)。自分の親族の死は、限りなく自分の問題に近い。だが、この世を去った5000万人の人たちのストーリーはいかほどであったのか。5000万冊の自伝が並ぶ図書館を想像してみてほしい。
去年亡くなった人ではなく、キリスト生誕以来、過去2000年間にあの世へ旅立った人の数はどうか。科学者、数学者がさまざまな推計をしているが、最大で
約500億人が正解のようだ。経済記事で500億円、500億ドルという数字は目にするが、自分と同じように人間として生まれた人が500億いると言われて、何をどのようにイメージできるか。
さらに、今日までこの地球上で生まれた人の総計は何人か。2万年前を基点とする計算、200万年前を基点とする計算などいろいろあるようだが、凄まじい誤差を覚悟の上で
約5000億人としておきたい。
輪廻転生を考える人は、この5000億の中から自分史の系譜を探すことになる。輪廻転生説には多様性があり、動植物への転生はもとより、地球外の惑星の転生や、分魂・合体魂を考える人もいる。さらに、パラレルワールド的に、現在同時代に生きている複数の人が、自分の過去世であり、未来世であるという考え方もある。
記憶の連続性があり、時系列に従っている輪廻転生論がおそらく一番の人気なのだろう。唯識仏教哲学では「妄念の連続する流れ」が輪廻であると解釈した。妄念がなくなった人は解脱し、転生すごろくゲームから“あがり”になる。が、解脱した仏様も、この世の救済のために何度も生まれ変わっているという教義もあるので、それはそれでありがたい。
自分とは何だろう。なぜ今ここにいて、私はなぜAさんでもBさんでもなく「私」なのだろうか、と考える。自分が不幸に見舞われたとき、あるいは、偉人、天才、実業家、お金持ち、ラッキーな人たちの物語を聞くとき、なぜ「私」は「彼ら」でなかったのだろうか、とふと思う。
いやいや、一人ひとりは奇跡の存在なんだよ、お父さんの精子とお母さんの卵子の出会いの奇跡を考えたら、「私」という存在は
5億分の1の確率なんだよ。すでにもの凄い生存競争をへて、この世に生まれてきたエリートなんだよ・・・という話は、私は中3のときに初めて聞かされた。だが、この話に違和感を覚え、その後も納得したことはない。違う精子と卵子であっても、「私」は存在しているはずだ。
死んだ人の数を数え、この世の生存競争に思いを馳せるよりも、去年1年だけでこの星で1億4000万という新しい命が誕生していることに意識を向けてみよう。「遍在転生観」という考え方によれば、その1億4000万人の中の1人が「私」であってもよいのだから。
■注:
*昨年1年の全世界での死亡者は、正しくは6000万人前後。今回の記事は覚えやすいように数字は大ざっぱ。精子と卵子の出会いも「3億分の1」という人もいる。
■参考:
How Many People Have Ever Lived on Earth?
World Population Since Creation
posted by ヒロさん at 22:08
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神話・宗教・民俗学