ある程度の距離を走るとき、私のビート音楽は♪=84〜88に設定している。が、カラダに負担なくゆっくりと走ってみたいので、♪=80〜84の曲ばかりを選曲して走ることにした。
いつもよりギアを1段下げての走行なので、ほんとうにゆったりしている。前半は歩いているような気分で、呼吸はいっさい苦しくない。後半はゆるやかなクロスカントリーのようなコースなるので、少しは走っている感覚になり、終盤は大腿に少々気だるい心地よさが広がっていた。
走行時間は1時間1分、距離は約10キロだ。38年ぶりに10キロを完走したので、めでたし、めでたし、である。業界では、このようなゆっくりとした走りをLDS(long-distance slow)と呼ぶらしい。幻覚剤のLDSにも似た怪しい響きのコトバだ。
ビート音楽ジョギングは、聞いている音楽のリズムに乗って走ることだが、音楽に引っ張られながら、無理やり走らせられるという側面もある。意識は音楽の気持ちよさに浸っていることはもちろんだが、これにしっかりとリズムを合わせようとする足の動きにもフォーカスしている。
だが、今回のようなスロージョギングをやってみて、いつもとは心の状態が少し違うことに気がついた。腕の振り、肩の感覚、足の裏の着地点など、カラダの細部に意識を向ける余裕があるのだ。さらに周囲の景色を眺める余裕も少しある。
自分を励ますコトバも少し試してみると、「ありがたいなぁ〜、ゆたかだなぁ〜、しあわせだなぁ〜」という簡単なフレーズならば、これを繰り返しながら、しみじみとした気分に浸ることもできる。
そう言えば、村上春樹は『走ることについて語るときに僕の語ること』の前書きで、ある新聞記事について触れている。有名なマラソンランナーが走行中に何を考え、どんなコトバを繰り返し、どんなイメージを描いているか、という話だ。原文を読んでみると、トップランナーたちの頭の中は以下のようになっているという。IHT: For marathoners, it's all in the mind (2006.11.3)
- 数字を1から100までゆっくりと数える(100まで数えると約1マイル走った、という目安)
- 足のステップ通りに500まで数える
- 「弾み(momentum)」という1語を繰り返す。
- 「はっきりさせろ(Define yourself)」という短い文を繰り返す。
- 「痛みは避けられない、苦しみは自分次第(Pain is inevitable, suffering is optional.)」を繰り返す。
- 「暑さに耐えられないなら、私の通りから出ていきな(If you can't stand the heat, then get off my street)」というマドンナの『I Love New York』の一節を繰り返す。
- もう1つ次の電信柱をゴールと思い込み、それを繰り返す。
- 故郷で体験した過去のトレーニングシーンを思い浮かべる。
- ゴールインで最後のデッドヒートを演じている場面を思い浮かべる。
- 将来自分の孫にマラソン体験を笑って話しているシーンを思い浮かべる。
- 前の夜に小さな袋に何百万の酸素分子を入れるイメージ儀式をする。当日のマラソンで苦しい局面が訪れたら、その袋を口の前に取り出し、酸素を吸入していると思い込む。
ここで使われているコトバやイメージは、状況がだんだん苦しくなってきたときに、意識をどのようにシフトさせるか、という意味で参考になる。マラソン以外の人生のさまざまな局面においても「意識をラクな方向にシフトさせる」というヒントが得られるかもしれない。
■つぶやき
10キロぐらい走ることができれば、ハーフマラソンの21キロは何とか行けるそうだ。だが、私は1時間を超えるような長距離には今のところまったく興味がない。(まして40キロの4時間なんて、とんでもない、他に楽しいことがいっぱいあるもの!) 10キロを超えたら、脳内麻薬物質の分泌が全開になり、幻覚剤LDSさらながらのお花畑が訪れるというなら是非ともやってみたいが、そういう幸せな話はあまり聞かない。20キロ、30キロ、40キロ(さらにはウルトラマラソンの100キロ)の挑戦にこだわるのは、健康法としても疑問。それよりも3キロ、5キロ、7キロという短い距離を手を変え、品を変えて走った方がおもしろい。