以下の2つのビデオを見比べてほしい。左はオスカー・ピーターソンに認められて、ボストンのバークレー音楽院に留学し、メキメキと実力をつけ、1958年(29才)にテレビ出演したときの映像。右はプロデビュー60周年を記念し、2006年(77才)に日本で演奏したときの映像。
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Toshiko Akiyoshi Piano Trio (1958年) |
Toshiko Akiyoshi - The Village (2006年) |
どちらの映像も、後半でノリノリになってくると、楽しそうにニカッと口角を上げるのが印象的だ。
77才で60周年ということは、17才がプロデビューだ。1929年、満州の遼陽生まれ。四人姉妹の末っ子で、満州紡績社員の父親のもとに生まれた。ピアノを始めるきっかけは小学1年のときのこと。学芸会で小3の女の子が弾いたモーツァルトの『トルコ行進曲』に魅せられて、学校の先生から週2回のペースで習い始めた。16才のときに終戦を迎え、遼陽はロシアの占領化に入ったが、ロシア人兵士の慰問コンサートなどで活躍した。
翌年、九州の別府に引き揚げ、17才で進駐軍ダンスホールのバンドピアニストになる。プロピアニストとしての出発点だ。看護・医学学校に行かせる予定だった父親は当初、猛烈に反対したが、さしあたり収入のない一家としては彼女が高給取りの稼ぎ頭だった。初日に楽長から渡された“楽譜”は曲名とコード記号だけで面食らったものの、すぐに慣れたという。
その後、ファンの自宅に呼ばれ、78回転のレコードで聴いたテディ・ウィルソン(Teddy Wilson)演奏の『Sweet Lorraine』に衝撃を受ける。テディ・ウィルソンのように弾きたい!という強い憧れをもつことになる。
1953年(24才)に東京のライブハウスでオスカー・ピーターソンとの出会い。夜は麻布で演奏、昼はバド・パウエルのレコードを採譜して、その通りに弾けるようになるまで、何度も練習した。1954年に、アメリカの『ダウンビート』誌に自分のレコードに関する評が掲載。1956年1月、バークレー音楽院に留学。
アメリカでデビューしてからも、まとまった仕事は入らず、生活は厳しい。今でこそ女性ジャズピアニストは珍しくないが、当時は基本的に男の世界、かつ黒人の世界。日本人への人種差別もある上に、取り立てて美貌というわけでもない彼女は、着物をまとってジャズピアノを弾く「もの珍しい見せ物」のように思われていたのかもしれない。
ニュージャージーに在住し、1963年(34才)に最初の夫マリアーノとの間に一女を出産。夫は前妻との間に4人の子供がおり、前妻が家出をしたため、彼のみボストンへ。別居はやがて離婚となり、家賃を払うのが大変になった。子供がいるため、地方巡業の仕事ができない。安定した収入を求めて、コンピュータープログラマーの養成学校に申し込みをいれたほどだ。
2度目の結婚の後に、もうピアノはやめて子育てに専念しようか、と真剣に迷ったことがある。姉の結婚式で一時帰国したときに、知人(庄子さん)の紹介で京都の高名なお坊さんを訪ね、「ピアノを捨てるべきでしょうか」と答えを求めた。
◆秋吉敏子 『ジャズと生きる』(岩波新書) p202
私の姓名の書いてある紙を見ていた恰幅の良いそのお坊さんは、テーブルの前に座った私に、紙を差し出した。見るとそこには「一女、離婚」と書いてあった。驚いている私に「何を知りたいのですか?」とお坊さんはおっしゃった。私は自分が庄子さんと同様、仕事を持っている人間であること、しかし、それを捨てようと思っているが、果たして私はそれを捨てる運命にあるのか、それを知りたい、といった。お坊さんは「捨ててはいけません。あなたは今、2つ目の山を越した下の所にいる。しかし、私にはもう1つの山が見える。そしてこの山は今までよりももっと高く大きいのですから、今やめてはなりません」といった。
彼女はこのコトバ通りに、高く大きな山を登りつめることになる。