
この番組で第5回「ショパンを弾く」に出演した馬場みさき(1978年生)、第6回「リストを弾く」で演奏した上原彩子(1980年生)は、上原ひろみとともにヤマハマスタークラスの受講生だ。ショパンを弾いた馬場みさきは、その後パリ国立高等音楽院を卒業し、現在フランスで活躍中。リストを弾いた上原彩子は、2002年にチャイコフスキー国際コンクールでトップに輝き、プロとして活躍。
ショパン好きはフランスへ行き、リスト好きはチャイコフスキーやラフマニノフを征服していくので、ある意味でわかりやすい。一方、シューマンを弾いた上原ひろみは、その後ボストンのバークレー音楽院に進み、いわゆる“ジャズ”ピアニストとしてデビューする。ヤマハでは彼女のクラシック演奏は“規格外”だったかもしれないが、作曲・編曲では抜群の才能を発揮していた。
中1〜高2のときの上原ひろみは、ヤマハが毎年8月末に主催しているJOC(Junior Original Concert)で毎年、自作のピアノ曲を披露している。
曲名はすべて英語だ。それぞれの年の翌5月には、ヤマハとユニセフが共催するユニセフ・チャリティコンサートがあり、やはり同じ曲を演奏している。国際体験も豊かだ。ヤマハJOCの国際コンサートでは、チェコスロバキアで開催された1993年の身障者向けチャリティーコンサートで地元の交響楽団と共演。また、1997年の米ミシシッピー州のコンサートに(ジュニア資格を卒業した)特別ゲストとして参加している。
上原ひろみが勉強した浜松北高校は、毎年、東大と京大に計30人を送り出すという進学校。この浜松北高校の国際科を選択しているので、英語の授業は普通科よりも多い。昼休みはいつも学校ホールのグランドピアノを弾きまくり、放課後は軽音楽部でロックピアニストをやるなど、音楽三昧の日々であったという。ヤマハがこの作曲科の逸材をChick Coreaに会わせたのは、高校2年の12月だった。彼のコンサートで飛び入り演奏をするなど、その才能を認められ、かわいがられている。
インタビュー記事の1つで興味津々だったのは、彼女が高校生のときに惚れ込んでいたというアーティストたちだ。
――軽音楽部では、どんな音楽を演奏していたのですか?
上原「ジャニス・ジョプリン、ビートルズ、コーデュロイをはじめ、当時流行していたアシッド・ジャズだったり、とにかくいろいろなアーティストの曲を演っていました。<中略>TOTOやジェフ・ベックも聴いてましたけど、あの頃の音楽はいいですね。音楽が歌ってますし、ビートに頼ってない。ドラムやビートを抜いても、いい音楽なんですよ。それに加えて、上手いドラマーが叩いていますから、たまらないですよね」
――かなり幅広く聴いていたんですね。
上原「本当に、まとまりがないですよね(笑)。でも高校の音楽科に行ってたら、スコット・ジョプリンは知っていてもジャニス・ジョプリンは知らない……そういうことになったかもしれません。当時演っている音楽の中で、一番好きだったのはロックンロール。チャック・ベリーは、赤坂までライヴを見に行きましたし、未だにジェリー・リー・ルイスのHPとか、チェックしてるんです。ルイスの「火の玉ロック」、一度でいいから生で見たいなと思いますもん(笑)
(ソース:ラプライズ)
上原「ジャニス・ジョプリン、ビートルズ、コーデュロイをはじめ、当時流行していたアシッド・ジャズだったり、とにかくいろいろなアーティストの曲を演っていました。<中略>TOTOやジェフ・ベックも聴いてましたけど、あの頃の音楽はいいですね。音楽が歌ってますし、ビートに頼ってない。ドラムやビートを抜いても、いい音楽なんですよ。それに加えて、上手いドラマーが叩いていますから、たまらないですよね」
――かなり幅広く聴いていたんですね。
上原「本当に、まとまりがないですよね(笑)。でも高校の音楽科に行ってたら、スコット・ジョプリンは知っていてもジャニス・ジョプリンは知らない……そういうことになったかもしれません。当時演っている音楽の中で、一番好きだったのはロックンロール。チャック・ベリーは、赤坂までライヴを見に行きましたし、未だにジェリー・リー・ルイスのHPとか、チェックしてるんです。ルイスの「火の玉ロック」、一度でいいから生で見たいなと思いますもん(笑)
(ソース:ラプライズ)
全身全霊の絶叫で魂をゆさぶるロック・シンガーのジャニス・ジョプリン(Janis Joplin:1943-1970)のファンだったそうだ。スコット・ジョプリンは知っていても、ジャニス・ジョプリンを知らなかった私は、麻薬漬けのジャニスが亡くなる直前のYouTube映像を垣間見ることになった。2年間で200万というアクセス数がこの伝説のシンガーの存在感を物語っている。
上原ひろみはその後、意外にも法政大学の法学部に進学する。法学部を卒業した6歳上の兄の影響だという。が、すでにアメリカ留学を堅く心に決めており、法政中退は時間の問題だった。大学1年の18歳のときにアメリカに1人旅に出掛け、20歳のときにヤマハの留学奨学金を獲得し、アメリカの音楽大学を3つ視察した結果、バークレー音楽院の作曲編曲科に決めた。
上原ひろみは6歳のときから12年間、ヤマハ音楽教室に通った。ヤマハはこの教室指導に加え、JOCという演奏の場、チック・コリアとの出会い、バークレー留学の奨学金などを提供し、彼女の成長に大いに貢献した。プロデビュー後には、ヤマハのCMにも登場するようになったが、25秒のCM録画のために何度も同じ曲を弾き直すシーンでの彼女のコメントが印象的だ。
「途中から違う方向に行きたくなりますねー。クラシックのピアニストの人って、本当にすごいなって思うんですよ。同じことを弾いて、それを違うように毎回料理して・・・」(ソース:YouTube)
一体どの方向に爆発するか、奇想天外で予想がつかないのが上原ひろみの魅力だ。YouTubeビデオのコメント欄には、女版のChick Coreaだとか、Bill Evansをすでに凌駕した、いやしていないとか、そもそも上原はジャズのセンスがない、あれはプログレッシブ・ロックだ、似ているアーチストがいるとすればMichel Petrucciani、そんなことより彼女は神懸かっている、こいつは化け物だ、彼女と結婚して20人の子供を生せたい、最近のあの曲は以前のと似ている、あの表情は受けを狙っている、いや、心の底から全身・全震で音楽を楽しんでいるだけ・・・と、まあ、これも面白い。
彼女の音楽センスを育てたのは、2人の先生。ヤマハ音楽教室(作曲)の先生はジャズ好きで、インプロビゼーションのセンスがどんどん展開された模様。また、ヤマハと並行で同じく12年間通った自宅近くのピアノの先生も大のジャズ好きで、8歳の頃からこの先生のLPを借りて、聴き始めていた。初めて聴いたジャズは、Oscar Petersonの『ウィー・ゲット・リクエスト』とErroll Garnerの『コンサート・バイ・ザ・シー』で、子ども心に「楽しい!」と感じたのを覚えているという。
このジャズ好きのピアノの先生は、上原ひろみの『シューマン』もおおらかに指導していたことだろう。NHKの放映で15歳の彼女の演奏風景を観たという人によると、番組のロシア人の先生から「もう少し感情をこめて」「作者の気持ちを考えて」といろいろ注文がつけられたが、これに対して「こうですか?こんなですか?それともこれ?」と気迫を込めて、挑戦的に質問していたのが印象的だったという。そんな挑戦心と納得するまで引き下がらない気迫も、今日の上原ひろみの原点であろうか。(参考リンク)
■私がお奨めする上原ひろみ
幼い頃、初めて行った海外で音楽があれば知らない人たちとわかりあえるということに感動したのが原点です
http://international.aol.co.jp/voices/hiromiuehara.html
語学面では何か特別な勉強はされましたか?
「高校は国際科のあるところに行きましたけど、語学というよりは、帰国子女の友達との文化や意識の違いという面で学んだところが多かったですね。クラスの半分が帰国子女で、アメリカ、フランス、インドネシア、マレーシア…と本当にいろんな国からやってきた子が多かったんですが、授業中寝ていた子が先生に注意されると、「寝る授業をする方が悪い」って言うんですよ(笑)。それを聞いた時に「なんて自己主張が強いんだろう」とカルチャーショックを受けましたね。」
その主張するための語学力はどうやって上達させたんですか?
「まず映画をたくさん、字幕付きで見ていました。アメリカではクローズドキャプショニングっていって、聴覚障害者の方のために字幕が出るんですよね、英語で。それを見て勉強したり、ラジオを聴いたりとか、あとコーヒーショップに行って人の話に聞き耳を立てていたこともありました(笑)。それと大事なのは友達と話すこと。友達の英語も、みんながみんなアメリカの人だけじゃないのでそれぞれ自然になまってるんですね。でもその中で、逆にアメリカ人みたいに発音しなくてもいいんだって気付いたことで、すごく気が楽になりました。ラテン系の英語だったり、スコットランドの人の英語だったり、ドイツの人の英語だったり、いろいろな英語を実際に聞いて、じゃ、私も別に“ジャパニーズ”でいいんだって安心しました。そう思うと不思議と上達が早かったですね(笑)。」