2008年02月18日

記憶喪失の現代に問いかける、中世修道院の聖なるメモリー空間

日本では聖徳太子が十人の話を同時に聞いて理解したという伝説がある。一方西洋ではジュリアス・シーザーが4人の秘書官に異なる手紙を同時に口述筆記させ、さらに自分でもう1つの手紙を書いていた、という伝説がある。

聖徳太子はワイワイ、ガヤガヤとカクテルパーティーのような会話を“同時”に聞くわけだが、シーザーは4人に向かって“同時”にしゃべるわけではない。羊皮紙やパピルスへの筆記は彫刻のように時間がかかる。そのため、書記官Aに「5月に決議した元老院の4条8項に関しては」と言い、続いて書記官Bに「先日は遠くからはるばるお越しいただきまして」と言い、書記官Cには「ガリア地方のカルヌート族の信仰について・・・」などとしゃべる。で、自分も私信として「クレオパトラ様、この次の満月の夕べに是非・・・」と書いていたかもしれない、という話だ。

1日に200通以上のメールや、数十本の電話、数回のミーティングをこなしている人からすると、たいしたことはないように思える。ただし、4通のメールを単にバラバラに書くのではなく、4通の文章をすべて完璧に頭で組み立てた上で、小出しにしながら書くという作業だ。中世まではこのような4人への同時口述筆記は「神業」だった。実際、13世紀の神学者トマス・アクィナスが4通の同時口述筆記をしたことが記録されており、天才神学者の彼を称える逸話になっている。

中世にはほかにも神業がある。修道院の書写室(図書室)で音読が禁止されるのは9世紀からで、それまではいかなる本も「音読」されるのが常識だった。「黙読」は神の領域だったのだ。図書館で本を開く人がすべて音読している状況を思い浮かべてほしい。中途半端に静かな環境では、ヒソヒソ話や携帯はうるさいが、全員が音読する図書館ならば、駅前の待ち合わせ場所のように活気がある。

ゴシック大聖堂の建築ラッシュよりも200年ほど遡る11世紀に、フランスのシャルトルでは大学教育の前身となる修道院学校が設立された。自由学芸(Liberal Arts)七科目と呼ばれる科目分けがあり、現代風にいうと文系3科目(文法、修辞、論理)と理系4科目(算術、幾何、天文、音楽)を勉強した。修辞学(Rhetoric)の中でとりわけ重要なテーマになっていたのは記憶術(mnemonics)だ。本はすべて貴重品であり、気軽にメモができる鉛筆やノートもない。字の読める知識人にとって、本を読む作業とはすなわち、読んだ内容を同時にすべて暗記していく作業でもある。時間を置いてから、手許にない原典を引用して語ったり、これに対する注釈書をつくったり、論争がある場合には暗記した内容をもとに反論しなければならない。

中世の修道院では読む作業も、書写する作業も、すべて聖なる営みだった。暗誦の基礎は、旧約聖書の詩編150編から始まる。優秀な生徒は6ヵ月、凡庸な生徒は2〜3年をかけて、これを一字一句すべて暗記する。聖アントニウスにように耳コピーだけで聖書の全文を暗記する人物も現れる。マタイ伝の4:13、詩編の75番目のように訊かれても、すぐにその部分を暗誦できた。頭の中に「何丁目何番地の○○さん」というような地図が出来上がっていればこそできる芸当だ。

このような丸暗記を可能にする記憶術のテクニックは、

  • BC4世紀のアリストレスの『De Memoria』(記憶論)
  • BC1世紀のキケロの『De oratore』(弁論家について)
  • キケロと同時代で作者不明の『Rhetorica ad Herennium』(ヘレンニウス宛 修辞学)
  • 1世紀のクインティリアヌスの『Institutio Oratoria』(雄弁家教育論)

    でほぼ網羅されている。キケロ式記憶術とも呼ばれ、心の中に既知の地理・建物を思い浮かべ、そこに覚える対象をイメージ化して配置する「場所とイメージ」の記憶術だ。

    ■■■■■■十■■■■■■  

    この記憶術の手順は2つ。1つは、すでによく知っている風景、道順、建築物などがありありと、順序よく思い浮かべられること。もう1つは、覚えたい内容のキーワードをイメージに連想変換してその風景、道順、建築物に置いてくること。

    2000年前からしっかり指摘されていることだが、記憶術で使う「場所とイメージ」は完全にパーソナルな空間だ。他人がどんなに重宝にしている連想空間があったとしても、自分にはまったく役に立たない。「白」というキーワードを記憶するとして、連想するべきは「シャツ」なのか「ミルク」なのか、あるいは「ハト」や「歯磨き」にするのかは、自分にしか決めることができない。

    私が高校生のときに手にした記憶術の本では、「場所」は東京の山手線の各駅、「イメージ」はプロ野球の巨人軍の打順を例に上げていた。残念ながら、当時の私は山手線の駅を何1つ知らず、巨人軍の打順にも興味がなかった。これにこだわってしまうと、練習を行う時点でつまずいてしまう。

    毎日の通学・通勤路は誰でも順序よく思い出せるはずだ。が、詳細にありありと、生き生きと思い出せるかというと、さにあらず。しっかりと見て歩いていない自分に気がつく。電車やバスに乗っても、車窓の風景にまったく関心がないという人もいる。高校生の私は自転車通学だったが、学校に行き着くことで忙しく、赤毛のアンのように風景を楽しんだ思い出がほとんどない。大学になると徒歩2分の場所に居を構えたので、慣れ親しむ通学路が存在しなかった。

    イメージ変換には訓練がいる。「自宅の玄関」を場所に使い、そこに「赤いリンゴ」を結び付けたいとする。そもそも「自宅の玄関」がありありと思い浮かばない人がいる。場所がありありと思い浮かばない人は、そこに置こうとした「赤いリンゴ」も当然のこと、ぼんやりとしている。

    準備に時間がかかるのがいけない。新約聖書の福音書をマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順序で覚えたいとして、マタイを何にイメージ変換しようか・・・と時間がかかるのは不経済だ。そもそも関心の高いものは何度も出会ううちに記憶に定着するものであり、頭文字をとって「マ・マ・ル・ヨ」と繰り返していれば覚えられたりする。

    数字をイメージに変換する記憶法では、「26=風呂」、「35=珊瑚」などを使って、いくつかの電話番号をイメージ連結で覚えた記憶はあるが、現在は忘却のかなただ。それよりも、セリフのように何度もつぶやいた「いい国つくるの鎌倉幕府」や、ルート2は「ひとよひとよにひとみごろ」のような語呂合わせのほうは、イメージなしでいまでも口について出てくる。

    「場所とイメージ」の記憶術では成果が出なかった私だが、イメージ変換の小手先の記憶術はそれなりに役に立ったものもある。

    スペイン語を始めて覚えるときに、右が「デレチャ(derecha)」で左は「イスキエルダ(isquierda)」だった。このときトッサに想像で右側に「デレデレしてお茶を飲んでいるお姉さん(=女性名詞)」を置き、左側に椅子を置いて「椅子消えるだ!」と心の中で叫んだら、一発で覚えた。

    電池の単1、単2、単3は、単1と単3のどちらが小さい電池なのか、幼少期よりいつも混乱していた。そこで、単3は「炭酸のコカコーラのビンに入る小さな電池」と想像したら覚えられた。

    どちらも語呂合わせだが、単に言葉遊びで面白がるのではなく、実際にイメージで思い浮かべる。「椅子消えるだ!」を初めて覚えたときの状況や、「コカコーラのビンに電池を入れる」シーンは、30年近くなった今でも覚えている。

    ■■■■■■十■■■■■■  

    現代は記憶喪失の時代だ。ワープロが普及してくると漢字が書けなくなる。カラオケでは歌の歌詞を覚える必要がない。携帯電話では、登録してある他人の番号はもとより、自分の番号を覚えていない人もいる。手紙を書かなくなると、自宅の郵便番号も忘れられる。

    読み書きの能力が強まれば強まるほど、記憶する能力が弱くなるという説もある。どんな楽譜でもすぐに初見で弾けるが、暗譜はサッパリというピアニストは、読み書きと記憶の能力が対立する例証になるだろうか。小川洋子の小説『博士の愛した数式』にあったように、短期記憶がほとんどなくなっても、しっかりと記録する能力と後からそれを読む能力があれば、知的創造に支障はない、と居直ることができるだろうか。

    古代ローマで考案された記憶術や、暗記に全身全霊を捧げた中世の知的活動から、さて、学べることは何であろうかと考えてみた。

    1.「本は手許に置いておけば後からいつでも読める」という天国は中世には存在しなかった。が、いつでも読めるという甘さがゆえに、積んドクで読まれていない本、表面的に読んでわかったと思っている本が本棚に眠っていたりする。また、本屋の立ち読みや図書館の貸し出しで“勝負をつける”という意気込みがなくなっている。

    2.読む本がたまり、目の疲れが気になってくると、本の存在自体が鬱陶しくなる。こんなとき、自分の本棚にある本を「聖書」であると思い込んでみる。世の中には自分の本棚にある本しか存在しない。その本を通して、1つでもいいから「聖なるもの」「価値あるもの」に出会いたい。すでに他界した著者の本の場合は、あの世とこの世の神秘的な対話なのだ。

    3.暗記から解放された現代人の頭は何に使われるべきだろうか。頭を言葉から解放し、もっとよく見ること、もっとよく聞くこと、自分の感情や内面の変化をもっとよく感じることに専念できないものか。自分の枠を広げること、新しい概念を読み取ることにもっと多くの時間を割けるはずだ。

    4.「Think globally, memorize locally」という形で、世界の地誌と歴史を身近なローカルの空間に圧縮する。中央アジアのマップを近所の公園に対比し、ヨーロッパの地図を大学の建物にはめ込んでみる。歴史を覚えるときは、10世紀の事象は○○商店街に、13世紀の事件は××散歩道に埋め込んでみる。ローカルの世界をもっとしっかり見ようする気持ちにもつながる。

    5.現代の生活では、人の名前を覚えることに記憶術は使うべきではないか。事象を忘れても、キーになる人物名を覚えていれば検索、調査、井戸端会議は発展する。人の名前をしっかり覚えることは、人間関係のよりよい潤滑油としても機能する。自分の身の回りにいる人たちで、フルネームで覚えている人たちの領域を50人、100人、500人と広げていくと何が起こるだろうか。

    6.トマス・アクィナスは国王の晩餐会でも暗記や作文を続け、いい文章がまとまると「これだ!」と大声叫んでしまった。長文を頭の中だけで構成し、口から発せられたときに“完成文”にするという訓練は、「場所とイメージ」を上手に使えば可能だ。1980〜90年代にはメモだけを頼りに、週刊誌などに電話送稿で完成文を送るルポライターがごくわずかながら存在した。

    7.とりあえずで書き始め、あとから文章をいくらでも修正できる「奇跡のワープロ」が普及してから、まだわずか20年あまりだ。中世の知識人はワープロを神として崇めるだろう。「私は文章の才能がない」などと卑下せずに、中世の修道院に思いを馳せながら、このようなすばらしい神器の可能性をもっともっと追及してみよう。

    ■参考文献:
  • Mary Carruthers 『The Book of Memory - A Study of Memory in Medieval Culture』
  • Alberto Manguel 『History of Reading』
  • posted by ヒロさん at 08:51 | Comment(1) | TrackBack(0) | 神話・宗教・民俗学
    この記事へのコメント
    TITLE: メアリー・カラザース『記憶術と書物』
    千夜千冊:メアリー・カラザース『記憶術と書物 ― 中世ヨーロッパの書物文化』
    http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1314.html
    Posted by Hiro-san★ブログ主 at 2009年09月02日 00:39
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