2006年07月06日

大連の、東のかなたの空遠く、満鉄本社を訪ねましょう

その昔、社会人になるべく就職活動を始めた頃、書店の立ち読みで「電通」なる会社のことを知った。電気通信大学を卒業した人たちが行くような会社かなぁ、とぼんやり思っていた。NTTの正式名称が「日本電信電話」であるように、電通のかつての正式名称は「日本電報通信社」だった。

この日本電報通信社は、1936年に通信部門が切り離されて広告取次専門となり、戦後は満鉄調査部、満州国通信(国通)、関東軍・特務機関の優秀な人材を吸収して、巨大シンクタンクとなった。シンクタンクとしてのノウハウは満鉄調査部ゆずりなので、「電通の前身は満鉄調査部である」とよく言われる。

本日は、日露戦争の勝利とともに誕生した、南満州鉄道(=満鉄)の本社を探訪しましょう。

◆小林英夫 『満鉄調査部』(平凡社新書) p16
  本書の主題である満鉄調査部の母体となる満鉄(南満州鉄道株式会社)そのものが誕生したのは1906年11月のことである。前年の05年9月に締結されたポーツマス条約を受けて、ロシアから譲渡された東清鉄道の南半分、つまり寛城子(長春郊外)以南の鉄道とその沿線付属地を手に入れた日本は半官半民の株式会社を設立したのである。<中略>
  日本政府は、ロシアから引き継いだ利権を清国に承認させるために、1905年暮に日清満州条約を締結、翌年1月には陸軍参謀総長の児玉源太郎を委員長とする満州経営委員会が組織された。そのなかで、満鉄は軍事色が濃厚な国家機関という性格をもつ株式会社としての地位を与えられた。資本金は2億円で当時日本最大の株式会社であった。

満鉄本社は、当初東京に置かれたが、1907年に遼東(リャオトン)半島の先端にある大連(ターリエン)に移転した。右側の写真は、1907年〜08年に「満鉄本社」として使われた建物である。この町は、帝政ロシア時代には、ダーリニーと呼ばれた。

大連リポート94 (←写真もあるよ)
作ったのは帝政ロシアで、最初は鉄道事務所でした。
1902年ダーリニー市役所となり、1904年日露戦争で日本軍がダーリニーを占領すると、日本軍司令部となり、1905年日本軍が旅順を陥落し、名前が「ダーリニー」から「大連」に改名されると満鉄本社となり、以後、「大連ヤマトホテル」、「満鉄大連医院」と利用され、1926年博物館の前身「満州資源館」となりました。

この建物は、戦後は1998年まで大連自然博物館として使われている。

「ダーリニー(дальний)」はロシアで「遠い」を意味する。モスクワから見たら、それはそれは遠いところである。「極東」というコトバは、英語では「Far East」だが、ロシア語では「ダーリニー・ヴォストーク(дальний вoстoк)」で、同じく「遠い東」を意味する。「ダーリニー」は英語風に読むと「ダルニー」となる。

ある奇人の生涯(18):大連での初仕事は?
  初代市長に就任したサハロフは青泥窪に建設中の新都市を「ダルニー」と命名した。「ダルニー」というロシア語は日本語になおすと「遠大」を意味する言葉なのだそうだが、そのような背景からしても当時のロシア政府が遼東半島に託した「遠大な夢」への期待のほどが偲ばれるというものだろう。
  ダルニー市の建設に際してはパリの都市構造を模した街造りが行なわれた。現在もその姿を留める円形の中央大広場から放射状にのびる十条ほどの街路には、複数の円形街路が何重にも同心円状にクロスしている。この独特の都市の骨格構造は、実際、市街建設の当初から美しいパリの街並みを彷彿とさせるようなものであったらしい。ただ皮肉なことに、ロシアによる港湾都市ダルニーの建設着工の二年後に勃発した日露戦争は、おおかたの予想に反して日本軍の勝利に終わった。その想わぬ敗戦の結果、ロシア軍をはじめとするロシアの主勢力は遼東半島から撤退せざるを得なくなったのだった。
  そして、ロシア撤退後の明治三八年(一九〇五年)九月に日露間で締結されたポーツマス条約により、日本は遼東半島の租借権をロシアから承け継ぐことになったのだった。以降、ダルニー市は日本によって管轄統治されるようになり、市街の最終的な整備建設などもロシア人らの建設作業を承け継ぐかたちで日本人技師らが担当することになった。中国語で発音するとダルニーというロシア語の音声の響きに似ているかという「大連」という地名が新たな都市名に指定されたのは、この年のことであったという。もちろん、サハロフが命名したダルニーという都市名はその時点で世界地図上から消滅した。

現在の大連の街並みを写真で見たい方は、こちらのブログ(2006/6/18)はいかが? で、満鉄本社が1908年に移転した先は、ロシア時代に建設中だった学校で、こんな建物である。ここが、日本の頭脳、あるいは悪事の原点。

■追加1:「大連」と「舞鶴」は友好都市だそうで(地図)

■追加2:ロシア語の地名の話では、「浦塩」さんのほうが有名かも・・・
ウィキペディア:「ウラジオストク(Владивосток; Vladivostok)」
日本語ではウラジオストックと呼ぶことも多く、明治時代には浦塩斯徳と当て字され、「浦塩/ウラジオ」と略した。ロシア語ではヴラディヴァストーク(ウラディヴォストーク)と発音するが、ヴァストーク(ヴォストーク)は「東方」を意味し、ヴラディ(ウラディ)は「領有する、所有する」という意味の動詞の命令形、つまり意味は「東方を征服せよ」である

■追加3:関東軍司令部の写真を見たい方は、どうぞ
旧関東軍司令部(現在は中国共産党吉林省委員会)
posted by ヒロさん at 08:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日本史・世界史
この記事へのコメント
TITLE: 「コールセンター」中国・大連へ
職求め、日本人も続々渡航
http://job.yomiuri.co.jp/news/special/ne_sp_05042001.cfm
『これまでも、デル、ライブドア、業務請負のマスターピースなどが、「コスト減」を目的に大連へコールセンターを移した。しかし、中には月収4000元(約5万円)程度と、「生活だけで精一杯で、気持ちがすさんでしまう金額」(飯塚さん)のケースもあった。』
What's 中国コールセンター
http://kamome.cn/item/2277
『皆さんが東京の市内局番のコールセンターに電話すると、実は、大連の日本人やバイリンガルスタッフが、応対しているかもしれないですね!電話の向こうにあなたも行ってみませんか?』
Posted by えの at 2006年07月06日 22:11
TITLE: 満鉄100周年
朝日:「満鉄」創業100周年、元社員ら500人集う(2006/11/26)
http://www.asahi.com/national/update/1126/TKY200611260263.html
 『「満鉄」の名で知られた南満州鉄道株式会社が創業100周年を迎え、元社員らでつくる財団法人「満鉄会」の会員ら約500人が26日、東京都内のホテルに集まった。
 同会によると1906年のこの日、満鉄の創立総会が開かれた。同会の松岡満寿男理事長は「満鉄は産業振興や資源開発研究で多くの成果を生み出した」などと述べた。』
Posted by Hiro-san★ブログ主 at 2006年11月27日 04:00
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