日本史で気に入らなかったのは、1度も足を踏み入れたことのない「関西」がやたらと舞台になっていて、しかも国語では習わない、正則以外の「漢字の読み」が溢れかえっていたことが原因か。倫社、数学、英語、生物、それから大学受験のための世界史以外、日本史なんか、な〜んにも知らない、高校時代を送った。
大化の改新があって、聖徳太子と仏教の奈良時代があり、なくよ(794)平安京で女流文学が栄え、源平の合戦のあとに、いいくに(1192)つくるの鎌倉幕府があり、元寇ですったもんだのあとに、後醍醐天皇と足利幕府が登場し、織田信長と豊臣秀吉の戦国時代があって、関が原の戦いで徳川時代が訪れ、鎖国をしているうちに、黒船がやってきて、明治維新で欧米を見習って近代化して、日清戦争と日露戦争はうまくいったけど、太平洋戦争で壊滅しましたとさ、という程度。
そんな私が、とりわけサッパリわからなかったのが、南北朝時代。数字の並びがよかった「1333年、後醍醐天皇による建武の新政」は覚えたが、あれっていったい何だったのだろうか・・・という疑問を抱いてから数十年。今日もお勉強だが、「明治天皇は替え玉でニセモノ」の理屈を知りたい方は、最後までおつき合いを。
◆ウィキペディア:南北朝時代(日本)
近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐり、南北朝正閏論と呼ばれる論争が行われてきた(閏はうるうと同じで「正統でないけど偽物ではない」の意)。<中略>
徳川光圀は徳川氏の祖とされた新田氏の正統性を示すため、「大日本史」で南朝を正統であると提示した。また同様に南朝正統論を支持した頼山陽は後小松天皇(北朝)は後亀山天皇(南朝)から禅譲を受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した。
一方、当時の公家社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔であり(多くは家督を巡って南北に分裂した)北朝正統論が強く、柳原紀光ら公家出身の歴史家の多くが北朝正統論を支持した。
後小松天皇(北朝)や後亀山天皇(南朝)と言われても、そんなもの知らんわい、という人は、とりあえず南北朝 天皇家系図をどうぞ。
この南北朝の戦いは、結局は「北朝」の勝ちとなって、足利幕府へとつながっていくわけだが、水戸黄門さまが「ちょっと待ったー」と印籠をちらつかせ始めた。この流れは、北畠親房の『神皇正統記』から続いているもので、水戸藩は「真実の歴史」を追求するために、財政の23%を費やし、足掛け250年をかけて『大日本史』を完成させている。
◆大日本史
こんな彼(=「水戸黄門」こと徳川光圀)が朱子学の大先生である朱舜水と出会って、水戸藩で独自の歴史書を作ろうと考えたのです。そして彰考館という歴史研究所を作り、「大日本史」の編纂を命令しました。
光圀が作った歴史研究所である彰考館のスタッフには当時の有名な学者をそろえました。彼らは崎門学派が大部分で幕府の儒教顧問である林家の弟子達ではありませんでした。林家が天皇家の先祖はチャイニーズだったなどと余りに近視眼的なことを言い出したので信用しなかったのでしょう。<中略>
光圀という人は経済観念がまるでなかったらしく、35万石の水戸藩で歳入の23%にあたる8万石を毎年大日本史編纂事業に投じたのです。1657年に編纂を開始し、1709年に本紀・列伝という主要な部分が完成し、1720年に幕府に献上されました。そして1810年に朝廷に献上されましたが、幕府に献上されたものと違って問題部分を削除したものでした。そして一般に売り出されたのは1848年のことでした。最終的に完成したのは1906年(明治39年)です。中断した時期もありましたが、250年かかってしまいました。
『日本書紀』に匹敵するような大編纂となった『大日本史』では、「南朝こそ正統なり、北朝に肩入れした足利氏は逆賊なり!」と主張しており、明治維新前の尊王論(=「幕府よりも天皇が大事」論)をおおいに盛り上げた。
「明治天皇=大室寅之祐」説を主張する、鹿島昇『裏切られた三人の天皇―明治維新の謎』によると、吉田松陰や藤田東湖も「南朝尊王論」を主張していたという。
◆れんだいこ:鹿島説の吉田松陰論
吉田松陰も水戸学の藤田東湖(とうこ)も上述の観点に立って南朝尊皇且つ攘夷を主張した。但し、同じ南朝革命論としての尊皇攘夷ではあるが、吉田松陰と藤田東湖ではその内容が異なる。吉田松陰が再興すべしとしている南朝は、歴代にわたって長州が匿ってきた大室天皇家であった。それに対して、藤田東湖が再興すべしとした南朝は、歴代にわたって水戸藩が匿ってきた熊沢天皇家であった。それぞれが、みずからが握る「玉」を担いで南朝革命を成立させようとしていたことになる。
吉田松陰は1850年に長崎に遊学したが、読んでいた本のリストには、さらに過激な「南朝正統論」である三宅観瀾の『中興鑑言』が入っていた。
◆吉田松陰研究C
1.長崎滞留中の松陰の読書(28〜29冊)
- 『中興鑑言』(三宅観瀾著 南朝正統論を主張)(『皇学叢書』12巻 昭和3年所収)
- 『海防説階』(足代弘訓著 『日本海防史料叢書』4所収)
- 『穀堂文』 3冊 (古賀穀堂著『穀堂遺稿抄』のことか)
- 『新策』(頼山陽) 4冊(『頼山陽全集』所収 天保13年版4冊静嘉堂外)
- 『国性爺忠義傳』 5冊(う飼信之?著)
- 『海国聞見録』(清の陳倫炯=ちんりんけい著) 1冊
- 『南郭文』 4冊(服部南郭著『南郭詩集』か『南郭先生文集』か)
- 『洗心洞箚記』(せんしんどうさっきG28頁。大塩平八郎著。1835年刊)5冊(岩波文庫 昭和15年刊所収)
- 『漂流人申口』(レザノフが津太夫らの漂流民を送還) 4冊
- 『夢物語』(高野長英著。1838年) 1冊(『日本海防史料叢書』4所収)
『中興鑑言』(ちゅうこうかんげん)のイメージ写真は、こちら、または、こちらでどうぞ。
吉田松陰や藤田東湖までが「南朝正統論」に傾いていたとすると、薩摩・長州の藩士がめざした「尊王運動」とは、すなわち徳川幕府を倒して、南朝天皇家を復興させる運動だったことになる。ここで登場するのが、「孝明天皇暗殺」説と「明治天皇替え玉」説である。
◆「明治天皇」は暗殺されていた!!
1) 孝明天皇は、徳川14代将軍・家茂(いえもち)を信任していた。つまり孝明天皇は、徳川将軍家との協調を本位に考える「公武合体・佐幕派」であった。
2) 孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に、会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。そして、この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、維新後、「逆賊」とされてしまった徳川将軍家も会津松平家も、孝明天皇にとっては「忠臣」であった。
3) 薩長土肥の志士達が、時代の流れに合わせて「開国維新」を目指したのに対し、孝明天皇は時代の流れをつかめず、相変わらず、「鎖国攘夷」に固執した。
将軍家茂は、慶応2年(1866年)の6月25日に急死。20才。
孝明天皇は、慶応2年(1866年)の12月25日に急死。36才。
この2つの急死はあまりにも怪しい。「明治天皇=大室寅之祐」説では、さらに半年後に孝明天皇の皇太子(睦仁親王)も暗殺され、明治維新では、南朝の大室寅之祐が(替え玉として)即位した、というシナリオである。
◆南北朝正閏論纂(4)
江戸末期から明治10年頃までは、世の中は南朝正統説一色になって、他の説は皆無になったとあります。つまりは、この時期、南朝正統説などという説は存在しなく、誰疑う事の無い歴史的事実とされていたという事でしょうね。
明治10年、元老院では『皇位継承編』を作成し、後醍醐天皇は偽神器を光厳天皇に渡したとする公式見解を発表しました。これにより、隠岐に流された当時の後醍醐天皇は、皇位を保持していたとされました。もちろんそれ以降、後醍醐天皇がただの一度も神器を手放した事はないとしているのは当然の事です。
この後宮廷史局による『大政紀要』などが出たほか、各界の南朝支持が続き現在(明治末期)にいたるのだそうです。
正統性の証となる「三種の神器」は、南朝から北朝に禅譲されたことになっていたが、実は「ニセモノ」だったよー、という話。明治10年には『皇位継承編』と『大政紀要』が発表され、明治天皇自らが「南朝正統論」を宣言したことになる。その結果、さまざまな歴史の書き換えが進むことになった。
◆ウィキペディア:天皇の一覧 (抜粋・一部短縮編集)
明治以前の歴代天皇(帝)は、現在とはいくらかちがっていた。明治時代に歴代天皇の変更が行われた。これらの変更については、水戸藩による『大日本史』・水戸学および尊王論の影響によるものとされている。
- 明治以前は神功皇后を15代の帝と数えていたが、歴代天皇から外された。
- 壬申の乱で敗死した大友皇子は、即位が確認されたとされ、明治3年に「弘文」天皇した。現在では非即位説が有力。
- 47代「淡路廃帝」に対して明治3年に「淳仁」と追号した。
- 承久の乱に敗れた「九條廃帝」は天皇に数えていなかったが、明治3年に「仲恭」と追号した。
- 明治44年に明治天皇の命令で、南朝2代を正統な天皇と認め、従来の96〜100代の天皇を北朝として正統から外した。
*義良親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後村上」天皇とした。
*熙成親王(南朝)は、即位が確認されたとされ「後亀山」天皇とした。
- 大正15年に大正天皇(実質は摂政の裕仁皇太子=昭和天皇)の命令で、南朝を正統とした後も即位の是非で意見が別れていた寛成親王を、即位が確認されたとして「長慶」天皇とした。
「南朝正統」による歴史の書き換えを画策したとはいえ、北朝派の勢力はたくさんおり、歴史を一気に抹消するのは不可能だ。
◆ウィキペディア:皇国史観
南北朝正閏論
1911年(明治44年)、小学校の歴史教科書に鎌倉幕府滅亡以後の時代を「南北朝時代」とする記述があった点が、南朝と北朝を対等に扱っているとして帝国議会で問題とされた(南北朝正閏論)。文部省の喜田貞吉は責任を取って休職処分にされた。これ以後の教科書では、文部省は後醍醐天皇から南北朝合一までの時代を「吉野朝時代」と記述するようになった。
現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた。しかし、足利尊氏を逆臣とする水戸学では南朝を正統と唱えていた。また幕末の尊王論に影響を与えた儒学者頼山陽は、後小松天皇は後亀山天皇からの禅譲を受けた天皇であり、南朝正統論と現皇室の間に矛盾はないと論じた。南北朝正閏論以降、宮内省も南朝が正統であるという見解を取った。
1982年の「侵略→進出」書き換え事件にも匹敵する、1911年の「教科書書き換え事件」である。小学校の歴史教科書で「南北朝時代」という記述は、圧力によって「吉野朝時代」に変えられてしまったのだ!!
次第に天皇は神格化され、学問と言論の自由は、紆余曲折をへて、抑圧・統制されていく。
◆ソース同上
当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと機を一つにする。
その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、大正24年(1935年)、美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも関わらず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には早稲田大学教授津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。
「明治天皇=大室寅之祐」説をさらにバックアップしているのが、明治天皇の正妻・一条美子(いちじょうはるこ)が、「昭憲皇后」ではなく「昭憲皇太后」と追号された問題である。
◆なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか?
ところがこの御祭神名について有識者の中から疑問の声が出てきたのです。理由は
- 両陛下を相並んでお呼びする場合、「天皇皇后両陛下」と称するのであって「天皇皇太后両陛下」とは称さないこと。「皇太后」は天皇の母親の意味であること。よって明治神宮の御祭神は御夫婦であられるから「明治天皇・昭憲皇后」が正しい。
- 亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「皇太后」の称号は「皇后」より下の位になる。だから昭憲さまは生前「皇后」でしたので、「昭憲皇后」と称するのが正しいことになる。
明治天皇にすり替わった大室寅之祐は、「新王朝」あるいは「南朝復興」の天皇だったが、後宮の勢力を一掃できず、いいなずけの「正室」はそのまま残ってしまった。大正天皇は、明治天皇と側室・柳原愛子の間に生まれており、真相を知っていた大正天皇は、一条美子を「皇后」とは呼べず、1代前の「北朝の正室」とみなして「皇太后」にした、ということ。
今回は取り上げないが、大正天皇は反骨精神と自由の気風を大切にする人で、これを封じ込めるために軍部は「精神異常者」のデマを流したのではなかろうか、と思う。
■追加:それでも万世一系は成立するという主張
http://www.genbu.net/engi/15.htm
『この後醍醐天皇による建武の中興は、武家中心の社会を古代の律令国家へ戻し、天皇中心の社会へ復帰させることが目的であったが、これは、徳川幕府の武家社会から維新によって、明治政府を樹立した明治天皇にとっても、意味深いものであり、建武中興に尽力した南朝側の皇族・武将は明治になって、各地に官幣社として祀られた。』
千夜千冊:北畠親房『神皇正統記』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0815.html
『われわれはついつい「倒幕」(討幕)というと江戸の幕末だけを思ってしまうけれど、実は最初の倒幕運動は鎌倉末期にこそおこったのである。』
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/nanboku/godaigo.htm
『後醍醐天皇の新政に不満を持ったのは武士だけではありませんでした。天皇はそれまで存在した関白職を廃止し、一切を独裁するようになります。神皇正統記の北畠親房の批判は武士だけではなく、天皇もその対象でした。天皇たる者はその政治制度を重んじ、正しく運営しなければならない。天皇は政務の遂行に際しては補佐の臣を選んでそれを通じなければならない。前例というものをよく調べよと親房は言います。』
後醍醐天皇は「神皇正統記」の北畠親房からも批判されているが、明治政府にとっては、「倒幕」と「独裁強権」のよきモデルです。
網野善彦『異形の王権』(平凡社)p199〜
『後醍醐の政治、人事は、王朝国家の体制として定着していた「官司請負制のオール否定」、官位相当制と家格の序列の破壊、「職の体系」の全面的な否定であり、古代以来の議政官会議−太政官の公卿の合議体を解体し、「個別執行機関の総体を天皇の直接掌裡に入れること」を「最も基本的な改革目標としていた。』
『後醍醐自身の行動の中で、もう1つ、天皇史上、例を見ない異様さは、現職の天皇でありながら、自ら法服を着けて、真言密教の祈祷を行なった点である』
書こう、書こうと思っていた矢先に書かれてしまいましたね(笑)。この問題は結構根が深くて、征韓論政変の位置づけにも関わってきます。西南戦争は、不平氏族の最後の反乱であると、戦後日本史の聖典、山川出版社の日本史教科書では習いましたが、故江藤淳の晩年の著書『南洲残影』や鹿児島県出身の伊牟田比呂多氏の労作『征韓論政変の謎』などを読む限り、特権を奪われた従来の士族の最後の反革命の企てという俗流唯物史観で片が付く問題ではありません(江藤新平が起こした佐賀の乱も同様)。数多くの名前を持った西郷隆盛の出自もまた興味深いものがあります。彼は後醍醐天皇がかつて頼った山の民の出身ではないかと伊牟田氏は推測しています。鹿島氏の研究はトンデモ本扱いされてきましたが、実際の所、どうなんでしょう?
後醍醐天皇は護持僧文観を使って真言立川流を武器に武家を調伏しようとした。
http://www.h4.dion.ne.jp/~sanryu/b~singon-tatikawa.htm
熊沢家
http://www.digistats.net/clan/na/nancho.htm
小倉宮竹内家
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/gosutoku.htm
岩倉具視と伊藤博文らの「南朝擁立」と、西郷隆盛にまつわる「征韓論の謎」は、おもしろい切り口がたくさんありますね。先日の「西郷隆盛」のエントリで、黒糖焼酎さんに紹介してもらったリンク http://www.daitouryu.com/syoudoukan/aikiage/aikiage04.html の見方からも考察してみたいところ。
鹿島昇の説は、「れんだいこ」さんが詳しくまとめています。
「孝明天皇暗殺考」
http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_komeitennocoo.htm
「大室寅之祐→明治天皇考」
http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_1_meigitennoco.htm
太田龍「長島銀蔵著「皇統正史」(昭和41年自費出版)を発見する」
http://gold.ap.teacup.com/applet/tatsmaki/200511/archive
(1)南朝の皇統は、現在の熊澤正照王(寛道王)まで続いて居り、
(2)北朝は滅亡して居る。
(3)従って、そのあとの北朝天皇は偽朝であり、足利系天皇である。
(4)熊澤大然尊憲王は、明治四十一年、十一月二日、第一回の上奉文を明治天皇に上奉した。
(5)明治天皇は、明治十年に「大政紀要」を出版されて、南朝正統とした。
(6)更に明治十年元老院発行纂輯の御系図では、貞成親王の父は不詳と明記してある。
(7)熊澤大然尊憲王の上奉文が各界に伝わると、大きな波紋を引き起こし、
(8)遂に国会で大問題と成り、
(9)明治天皇の裁決によって、南朝正統と決定され、
(10)時の桂内閣は瓦解した、
(11)しかし明治天皇が間もなく崩御、そのため南朝熊澤天皇問題は事実上封印された、と。
wmnさんも、この関連で太田龍の本を調べられていたような。
Make Your Peace掲示板:「近・現代天皇制の驚異の真相が暴露された!」
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kouzou&dd=09&re=1486
『2006年2月25日の«朝まで生テレビ»で、田原総一郎はついに、天皇制最大の禁忌に触れた。"今の天皇は南朝じゃないの?"
瞬時に会場にはただならない緊張が走った。中丸薫は"ここでいうとあまりにも影響力が大きい"と答え、すり替えを暗に認めた。昭和天皇が自らを北朝だと思い込んでいたことが宮崎哲也によって語られたが、反論になっていなかった。すり替え天皇だったのは明治天皇なのだ。
田原総一郎自身は天皇制の維持を希望しているが、天皇と天皇制についてマスコミは全てを自由に語るべきだ、という信念があるように思える。昭和天皇が死んだ直後に天皇の戦争責任を議論する番組を司会するなど、その活動はずっと命懸けだった。』
重大なテーマについて、思いつくままに書いてしまいました。たぶん間違いが沢山あると思います。御批評・御批判をいただければ幸いです。
「イギリス皇太子」ことprinceofwalesさん、はじめまして。
princeofwalesさんのブログ「国際情勢の分析と予測」には、最近より通わせていただいておりますが、展開される力強い自説にいつも感心しております。拙ブログは、意見をいうほどの中身がないものですから、セッセと資料集めに終始しております。ご参考程度のTBですので、あしからず。
911関連も資料を集めておりますが、こちらです。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/idx/?mycategory_id=31024
ちなみ、今回のTBの送り先の記事は「国際情勢の分析と予測」ブログの以下の記事です。
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/75a24751ec6779e92b1c29ada278dbfa
みなさまもどうぞ。
http://www.bk1.jp/product/03006161
「八百万の神々の宿るクスノキから神格化された楠木正成に至る日本人の信仰をひもときながら、皇室にキリスト教を戦略的に接ぎ木した現実主義者としての昭和天皇像と、皇室を支え続ける隠れたクリスチャン人脈に迫る。」
http://www.sonoda-yoshiaki.com/
第七章 「明治天皇すり替え説」の真相
http://www.sonoda-yoshiaki.com/colum7.html
えのさん紹介の園田義明HPでは、「明治天皇すり替え説」を否定。園田義明は『最新アメリカの政治地図』や『隠された皇室人脈』の著者。彼のHPにを私なりにまとめると・・・
http://www.sonoda-yoshiaki.com/colum.html
1906年の「神社廃統合」は、実は全国のクスノキの切りまくる「粗製樟脳、樟脳油専売法」であり、主導は長州。当時、日本が樟脳の世界市場シェアの70〜80%を握る。需要の7割がセルロイド原料で、映画・写真のフィルム材料にも使われた。
明治政府は国家神道の創出で「廃仏毀釈」を打ち出そうとしたが、浄土真宗西本願寺が執拗に反対。その結果、妥協案としての「神道非宗教論」が主流となり、この「内容なき宗教」の空白を埋めるかのように、長州の「クスノキ(樟脳)ビジネス」=「楠木正成信仰」=「南朝正統論」が入り込む。
学校の教科書は楠木正成で満載となるが、庶民の読む『太平記』では楠木正成は恨みの怨霊。「七生報国」(七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん)のスローガンは、戦意高揚に利用される。
園田義明は、南北朝を同等に扱いたい宮内庁と、南朝を主導にしたい長州・山県派の対立、という構図を捉え、「明治天皇すり替え説」は否定。論拠としては、
家系研究家の早瀬晴夫は『消された皇統』によって、大室家の家系の信憑性に疑義。
昭和天皇は南朝正統史観に立つ平泉澄の進講を嫌っており、皇室が一貫して北朝意識を持っていたもよう。
という2つを挙げている。
官軍の御旗に、孝明が拉致されたことを悟った慶喜さんがその後140年にわたり敵前逃亡の汚名をきることを覚悟で、私の曾祖父が孝熙(二すい)なる慈明院(戒名)を西郷の野心、有栖川の横恋慕から助けてくれていたようです。それなりの楽しい人生を送って静岡地で眠っていました。慶喜さんも同じ静岡で数十年おられて、曾祖父の父も孝帝(巾でなく友をあてています)徳相院(戒名)として眠っていました。
駿府中が不忠に通じるから、静岡と名前を変える時代に慈明院は持明院以外の何者でもないと考えていいだろうと思っています。100年以上もの間コケに埋もれた墓の石から、静岡の地元の人がタクシーの運転手まで、その存在をとぼけてくれてそっとしておいてくれた天○院というお寺(寺とは多分いわないのでしょう大覚寺統じゃないから)から
私もなんか違うんではとおもいながらも苔むしカビだらけで読めなくなった墓石には文字が。本物だろうが、影武者だろうが、ペテン師だろうが持明院をやっていくかと・・・。静岡市の野原のイメージしかない町村が葵区になりベールがはがれだしたのでしょう。
そんなことより、当時も、今も薩長土肥ですよね、権力を牛耳り続けているのは!天皇を拉致して国を作った末裔・・・というほどでもなく、せいぜいひ孫の子くらいの人たちが、北朝鮮の拉致をどの面下げて解決しようと言っているのかのが気にかかります。
『神武天皇実在論』を作家の林房雄氏が書かれており、内容は遠い昔に読んで忘れました
が、神武天皇から7代までの天皇は実在しなかったのではないでしょうか?
また、継体天皇の出自は古代史を専門とする日本の歴史学者は不明というのが定説です。
未だに天皇家の歴史は2000年以上あると主張する思想右翼の識者がおられますが、
だったら、239年に中国に使者を送った卑弥呼って誰ですか?ということになる。小学生
でも疑問を持つでしょう。
継体天皇の出自はあやしいです。
日本の天皇家は1400年程度でしょう。その1400年の万世一系もところどころ怪しい。
ちなみに「愛」という頭のおかしい人のコメントは削除しましたので、どうかご反応なされないように。このエントリーへのコメントは「明治天皇替え玉説」と「南北朝」の関連でお願いいたします。
熊本出身で近くに五家荘という平家や菅原道真公の子孫が住んでいます。そこから聞いたお話ですが、北朝が制定されたおりに朝鮮からの一族が北朝に入りこみ本来の天皇家が歪んでしまわれたと聞きました。これはどのようなことでしょうか。もしかして明治の時代に征韓論を唱えたのもこのことから来ているのではなかろうかと感じています。
水戸藩に匿われていた玉は三浦天皇じゃないですか?
はじめまして。大変興味深く読ませて頂きました。ブログ主様は、万世一系が成立するというお考えですか?ところどころ怪しいというお考えですか?
京都の名家の家系(世界帝王または公卿類別譜で検索)を見ると、養子縁組が
頻繁に繰り返えされており、また皇別摂家に関係した家に早世・夭折
している人が多い。
明治天皇すり替え説は、この事情と関係しているのではないでしょうか?
一緒に正しい歴史を学びましょう
宮崎元議員には、不倫相手にも子供ができたらそちらでもイクメンすれば少子化対策にもなり問題ないと本人にメールを送りました。
上記サイトのような党幹部の不倫ばれたくないばかりに女性子供分断策とる中国に占領してもらいたくないです。自主独立かなぐり捨て中国に占領してもらって与党になりたいだけの共産党は、高槻でシベリア抑留は日本政府が悪いというソ連盲従の日本赤軍残党辻元応援し選挙区取れてた京都3区で民主候補応援なら存在価値なくなるでしょう。
日本の人口は、マイナンバー連動DNAデータベースによる実父確定養育費強制徴収払えなければ福祉関係の強制労働制度で必ず回復します。朽木村の農作業中幼児入れる籠など銃社会故に13歳までホームアローン犯罪の欧米より女性が働きやすいからです。児童虐待漫画は一人親イジメの少子化心中虐待促進表現です。