明治天皇にはたくさんの侍妾(側室)がいたが、公式に伝えられているのは5人だという。
- 葉室光子(はむろみつこ)=初花典侍(はつはな・てんじ)
- 橋本夏子(はしもとなつこ)=糸桜権典侍(いとざくら・ごんてんじ)
- 柳原愛子(やなぎはらなるこ)=早蕨典侍(さわらび・てんじ)
- 千種任子(ちぐさことこ)=花松典侍(はなまつ・てんじ)
- 園祥子(そのさちこ)=小菊典侍(こぎく・てんじ)
上記の5人から生まれた子供は計15人だ。
◆仲矢伸一 『日本を動かした大霊脈』 p25の表を編集
皇統譜による明治天皇の皇子・皇女
◎母:葉室光子 ・皇子・・・・1873年9月生。即日死亡。
◎母:橋本夏子
・皇女・・・・1873年11月生。即日死亡。
◎母:柳原愛子
・薫子(しげこ)内親王・・・・1875年1月生。翌年6月死亡。
・敬仁(ゆきひと)親王・・・・1877年9月生。翌年7月死亡。
・嘉仁(よしひと)親王・・・・1879年8月生。後の大正天皇。
◎母:千種任子
・韶子(あきこ)内親王・・・・1881年8月生。3才で死亡。
・章子(ふみこ)内親王・・・・1883年1月生。9月死亡。
◎母:園祥子
・静子(しずこ)内親王・・・・1886年2月生。翌年4月死亡。
・猷仁(みちひと)親王・・・・1887年8月生。翌年5月死亡。
・昌子(あきこ)内親王・・・・1888年9月生。1908年、竹田宮恒久王と結婚。
・房子(ふさこ)内親王・・・・1890年1月生。1909年、皆川宮成久王と結婚。
・允子(のぶこ)内親王・・・・1891年8月生。1910年、朝香宮鳩彦王と結婚。
・輝仁(てるひと)親王・・・・1893年11月生。翌年8月死亡。
・聰子(としこ)内親王・・・・1896年5月生。1915年、東久邇宮稔彦王と結婚。
・多喜子(たきこ)内親王・・・・1906年9月生。翌年1月死亡。
上の表は生まれた順に並べてあるが、明治天皇が特に寵愛したのは1人ずつだったことになる。特に園祥子は、最多の8人の子供を生んでいる。0〜3才で亡くなる皇子と皇女が10人もいるとは!
◆THIS IS 読売(1993年7月号):殿下の「恋愛」の現代史的意義
天皇の正妻は、江戸時代から皇族または五摂家の出身という慣例ができていた。まず女御になり、中宮、皇后と昇格していくのである。このような正妻の候補者がいない場合は、典侍(すけ)、掌侍(ないし)の女官のなかから側室を選ぶしきたりだった。たとえ正妻がいても、子孫ができなければ側室にたよることになる。側室には定員があって、典侍が5、6人、掌侍が4人となっていた。
側室には定員があって、典侍が「5〜6人」で、掌侍が「4人」であるという。ということは、上記の「公式の5人」以外に、やはりたくさんの落としダネがあるということなのだろうか・・・。その辺の詮索はさておいても、「典侍」だの「掌侍」だの言われても、さっぱりわからないので、困った。
後宮の仕事をする12の官職。職員がすべて女性というわけでもない。
◆官位・職種:後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)
内侍司(ないしのつかさ:帝の側近)・蔵司(くらのつかさ)・書司(ふみのつかさ)・兵司(つわものづかさ)・みかど司(みかどのつかさ:鍵の管理)・薬司(くすりのつかさ)・殿司(とのもづかさ:火の元管理)・掃司(かもりづかさ:設営・掃除)・膳司(かしわでのつかさ:食べ物関係)・水司(もいのつかさ)・酒司(みきのつかさ)・縫司(ぬいのつかさ)。
この「内侍司」という「女性省」で活躍する、トップ3の役職は以下のとおり。
★尚侍(しょうじ/ないしのかみ)・・・・内侍司の長官(長としての「内侍」)
★典侍(てんじ/ないしのすけ)・・・・内侍司の次官(宮中では「すけ」と呼ばれる)
★掌侍(しょうじ/ないしのじょう)・・・・内侍司の三等官(宮中では「ないし」と呼ばれる)
◆官職一覧表
各官は四等の職階に分けられていて、
★長官をカミ(伯・大臣・卿・大夫・頭・正・別当・尹・大将・督・帥・守)
★次官をスケ(副・大中納言・参議・輔・亮・助・五位・弼・中少将・佐・大少弐・介)
★三等官をジョウ(佑・少納言・弁・丞・進・允・六位・忠・監・尉・掾)
★四等官をサカン(史・外記・録・属・令史・疎・曹・志・典・目)と呼称した。
カミ、スケ、ジョウ、サカンとは、おもむき深い。大正時代までの帝の側近の序列は、「内侍、典侍、権典侍、掌侍、権掌侍、命婦、権命婦、女嬬、権女嬬、雑仕」という順序になっていた。「権」=「副」の意味である。
私は『源氏物語』は第1章の「桐壺」の挫折組だが、「内侍司(ないしのつかさ)」の知識があれば、少しは読む気力が湧いてくるかもしれない。
◆新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・古代の日本批判31:補遺・紫式部と女流文学
では、なぜ平安時代という時期に女流文学が栄えたのか。
国文学者の岩佐美代子氏は、これは「女房文学」と呼んだほうが正確だと述べている。なぜなら宮廷における女房として見聞きした事を自分が憧れて使えた主を中心として描いた「女房日記文学」(「紫式部日記」や「讃岐典侍日記」そして鎌倉時代の「弁内侍日記」など)以外の「日記文学」の作者たちの多くも宮廷女房を経験しており、もしくは上級貴族の妻や恋人として宮廷社会に出入りしていたからである。この観点から見ると、藤原道綱母の「蜻蛉(かげろう)日記」も、そして清少納言の「枕草子」もこの分野に入ってくる。さらに紫式部の「源氏物語」や赤染衛門の「栄花物語」などの物語も同様である。
つまりこの時代の貴族の女性たちは、宮廷と言う公的な場に置いて、女房という公卿ともならぶ公的な地位を得て、貴族政治の世界に裏面から関わっていた。だからこそ宮廷世界や宮廷世界から見た政治の世界、そして宮廷における上級貴族の生活を生き生きと描けたというのだ。そしてこの伝統は平安時代に限らず、鎌倉時代・南北朝時代と続き、この時代にも「十六夜日記」の作者・阿仏尼などによる「女房日記文学」として継続された。しかし南北朝時代の最末期の日野資名女による「竹むきが記」を最後に「女房日記」は途絶え、これとともに女房文学そのものが絶えてしまう。
南北朝時代とはまさに、院・天皇を初めとする貴族たちの所領の多くが武家に奪われ、貴族も有力武家の庇護に頼って生きていかねばならなくなった時代である。したがって、豊かな財力を背景にした後宮を維持する事が不可能になり、宮廷女房という公卿とも並ぶ公家女性の公的職業そのものが廃絶したのである。
平安時代(およびその後の鎌倉・南北朝時代)に女流文学が栄えたのは、公家の女性たちに女房という公的職業が存在し、女性も男に伍して政治の世界で活動し自分やその周りの世界を客観的にとらえられる環境があったからなのだ。
千年前のこの「女流文学」は人類史で稀有の現象である。上流階級のおばさまたちの「赤裸々日記」も、南北朝の動乱とともに廃れていくことになる。
明治維新で燦然と復権した天皇家だが、古きよき「側室」の伝統にメスを入れたのは、昭和天皇である。
◆神一行 『天皇家の人々』 p140
資格も厳しかった。たとえば、権掌侍以上は公家華族のういち伯爵、子爵の、それも未婚の処女に限られていた。
命婦は京都、奈良の社家(神社の神官)か宮家に仕える士族の娘とされた。皇居内にはかつて「お局(つぼね)」と呼ばれる一角があり、最盛期には200人が住んだ。
大正末期に、歴史に彩られてきた女官制度に大ナタを揮ったのは、当時摂政だった昭和天皇である。この改革は皇室の歴史の中では目立たないが、画期的なものといえよう。
その中味は、それまであった典侍から命婦までの身分、職階をすべて廃止し、今のように「女官」という呼び方にした。また、資格も未婚の女性に限定されていたのを、人妻、未亡人、庶民の娘にも門戸を開放した。「お局」住まいではなく、通勤もみとめた。
当時、宮中ではたとえば、お化粧のことを「おしまい」というなど、特権意識と結びついた独特の言葉がたくさん使われていた。昭和天皇はとくに御所言葉の廃止に力を入れたようで、このお触れのあとも御所言葉を捨てない女官に向かって、「一般に通じない言葉は使わないほうがよい」と強くたしなめられた、との話が伝えられている。
シュタイナー教育でも「一般に通じない言葉」はやめたほうがいいかも。昭和天皇の改革によって、細かい職階は廃止されたが、一律平等というわけにはいかない。厳しい上下関係は、いまでも残っている。
◆神一行 『天皇家の人々』 p141
女官は、トップの女官長以下、女官、女嬬、雑仕という厳しい身分関係があり、天皇夫妻に食事ひとつを出すときでも、食事は雑仕、女嬬、女官と上がっていって天皇夫妻に届けられ、下の雑仕が直接届けたり給仕することはない。それどころか雑仕が天皇・皇后に姿を見せるのは禁じられている。仕事の内容は身分によって完全に分かれており、例えば天皇・皇后の寝室や居間の掃除、皇后の着物の縫いなどは女嬬、トイレ、風呂、玄関の掃除、皇后の服の洗濯は雑仕が担当している。
この女官のほかに、皇居には「内掌典(ないしょうてん)」という女性たちがいる。彼女たちの勤務先は、皇居の最も聖なるところ、賢所だ。ここに務める内掌典は、「おかしらさん」以下5人。おかしらさん以外はみんな若い女性である。また彼女たちの世話をする雑仕が2人いる。
内掌典は神に仕える身の上なので、その日常生活は厳しい戒律に縛られている。例えば服装は特別な和服で、髪型も独特のものにしている。平日は6時に起床し、毎日清斎をする。食事も和風で、動物性たんぱく質は一切取らない。
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/rekidai1.htm#meiji
『權典侍
小倉文子(おぐら・ふみこ)』
http://campus.milkcafe.net/test/read.cgi/daigakuzen/1105843995/172
千夜千冊『とはずがたり』後深草院二条
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0967.html
後深草院二条−中世の最も知的で魅力的な悪女について−
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
>公式な側室は六人
本文に、権典侍の小倉文子も追加しました。
どこかで「側室は7人」という記述も読んだことがあります。真相はいかに。
「明治天皇=大室寅之祐」の替え玉説のブログによると、明治天皇の側室は28人。
近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した(2)
http://tatsmaki.at.webry.info/200511/article_4.html
『天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多くは二才までの間に死亡している。明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れて、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。』