この記事のきっかけを与えてくれたのは、「敬天愛人」ブログだったが、最近、陽明学の本を読んで、西郷隆盛の「敬天愛人」のことを思い出した。
◆敬天愛人について
南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)という一冊の本があります。これは、西郷に心服していた旧庄内藩士達が、西郷から直接聞いた教訓等を一冊の本にしてまとめ、刊行したものです。庄内藩と言えば、鳥羽・伏見の戦いの契機となった江戸薩摩藩邸焼き討ちを行った主力藩であり、戊辰戦争でも執拗果敢に薩長を含む新政府軍に抵抗した藩です。<中略>
明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布の特赦により、西南戦争での西郷の賊名が除かれた際、旧庄内藩士らは、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本に編集して出版することにしました。西郷の教えを朽ちさせてはならない、この遺訓を世に多く広めたい、という考えの元に、旧庄内藩の人々は、南洲翁遺訓という書物を発刊したのです。南洲翁遺訓は、このように旧庄内藩士らの熱意によって発行されたものなのです。そして、この遺訓の中に、西郷が終生、自己修養の目的とし、信仰的な天命自覚の哲学として考えていた「敬天愛人」のことが書かれています。
江戸幕府末期の「警視庁」は、会津藩(福島)と庄内藩(山形)の担当で、京都は会津藩の「新撰組」、江戸は庄内藩の「新徴組」である。庄内藩は陽明学の上杉鷹山でも有名で、この「陽明学」を仲人として、西郷隆盛と旧庄内藩士が結びついている。
◆林田明大 『真説「陽明学」入門』(三五館) p347−348
学問の道は、天地自然の心を体得すること、天を敬うことを目的としている。天は人も私も同じように愛してくれているので、自分を愛する気持ちで人を愛するのだ、という意味である。<中略>太田愛人によれば、この「敬天愛人」という言葉は中村敬宇(なかむらけいう)の造語に起源をもっているという。敬宇(1832−91)は、諱の正直(まさなお)でも知られ、佐藤一斎に陽明学を学び、一斎を尊敬し、のちにキリスト教の心服した人物である。この敬宇の翻訳で、当時ベストセラーとなったサミュエル・スマイルズ『西国立志編』の冒頭「諸論」にある「敬天愛人」の言葉を、西郷が引用したのだというのである。中村敬宇と大久保利通は当時非常に親しくしており、西郷は大久保を通じてこの書を読んだのでは、と考えられている。
『西国立志編』(後のタイトルは『自助論』)は、明治の気風を支えた大ベストセラーである。「敬天愛人」は西郷隆盛の哲学となったが、もう1人、この哲学をこよなく愛してやまなかった御仁がいる。
◆大韓民国初代大統領 李承晩
李承晩は反日デモで投獄された獄中でキリスト教に改宗し、反日とキリスト教が彼の精神基盤になったのです。書斎の入口に掛けてあった「敬天愛人」の書は彼が書いたものでキリスト教の教えを表現していると思われます。
公海上に独自の経済水域を設定した李承晩ラインを作り日本の漁船の拿捕を始め、 内政では政権維持のため暴力団を保護し野党を攻撃したのです。共産勢力を封じ込める政策を進める米国は日本とのトラブルや内政上の混乱に苦慮していました。不正選挙を糾弾するデモの鎮圧で死傷者が多数出て民心を失った李承晩はハワイに亡命し、米国は新政権を支持したのです。
今日の漁業紛争や竹島論争の「基礎」を築いた、韓国の初代大統領李承晩である。最後には民心を失ったとはいえ、生涯、キリスト教徒として「敬天愛人」を信条とした。もし西郷隆盛と同時代に生きていれば、2人は意気投合していたかもしれない。
仮に「敬天愛人は世界の常識」と謳う韓国の大統領がいたとしても、さすがの西郷隆盛でも、ノムヒョンにはノーというだろう。
◆産経:『「侵略」強調で独り歩き』(2004/12/18)(ネットソース:「桜魂」ブログ)
日韓首脳会談が鹿児島県の指宿市で行われた。東京以外で首脳会談が開かれることはさほど珍しくもないが、韓国側で多少のさざ波が立った。
韓国政界の一部に「鹿児島は首脳会談の場所にふさわしくない」という意見がある、とマスコミが伝えたのだ。その理由たるや、鹿児島が「征韓論をとなえた西郷隆盛の故郷だ」というのだ。<中略>
さすがに、韓国でも世論の支持はなく、さざ波で終わったようだ。
ただ気になったのは、「征韓論の西郷隆盛」が、歴史の既成事実のように登場してくることである。果たして西郷は本当に征韓論を口にしたのだろうか。
「さざ波」と言われていた頃がなつかしい。日韓首脳会談の頃は、ノムヒョンも小泉首相と砂風呂につかって、おとなしくしていたのにねぇ。(追加:これウソ。コメント欄をご参照あれ)
それはさておき、私もつい最近まで「西郷隆盛は征韓論を唱えていた」と信じていた愚かものである。西郷ドン、ごめんなさい。
◆政変は誰のために:「征韓論政変」
私の手元にある「集英社版学習漫画・日本の歴史人物辞典」の西郷隆盛の項では、1873年、隆盛は朝鮮半島に兵をだすことを主張しました。しかし、ほとんどの人に反対されました。隆盛はおこって参議をやめ、鹿児島にかえりました。(征韓論)」と、ある。
ところがこの文章にはいくつも誤りがある。第一にして最大の誤りは、西郷隆盛は「朝鮮半島に兵をだす」ことを主張したことなど全くなかったことである。
当時、日本は開国したばかりであり、朝鮮はまだ鎖国を続けていた。日本は朝鮮に自国が開国したことを告げ、朝鮮も開国するよう勧めた(お節介な話だが)。これに朝鮮は反発した。日本の使節を追い返し、その後の日本政府の呼びかけにも応えようとしなかった。あまつさえ朝鮮在住の日本人に対し乱暴を加えもした。
これへの対応として西郷は、大臣クラスの大物を朝鮮に特使として送り、事態の解決を図るべきだと主張したのである。そして、その特使にふさわしい人物は、維新第一位の元勲にして政府の第一人者、西郷隆盛しかいない、と主張したのだ。
これに対し大久保、岩倉など反対派は、当時の朝鮮に西郷を送ればきっと殺される、そうすると日本の民衆は憤激し、朝鮮に兵を送らねばならない事態になるだろう、として反対したのだ。
(ついでに言うと、反対派は右大臣岩倉具視、参議では大久保、大隈。多数決では負けているし、現に会議では西郷の主張が通っている。反対派が勝ったのは、岩倉が会議の結果を無視して自分の主張を天皇に奏上したことによる。だから、「ほとんどの人に反対され」も間違いである。)
つまり、「朝鮮半島に兵をだす」というのは、反対派が西郷の意図を邪推してつくりあげた想像に過ぎないのだ。
荘内南洲会
http://www1.ocn.ne.jp/~x48ue66i/data/frame.htm
『現在我が国に南洲神社は4カ所あります。本社は鹿児島市にあり
また沖永良部島の和泊町と宮崎県の都城市。
それに私たちの荘内南洲会であります。』
酒田の観光案内
http://www3.ic-net.or.jp/~shibaraku/katari4htm.htm
『なんで北国の、酒田に西郷さんの神社が在るかと言うと。』
今となって西郷隆盛の真意は推し量りようがありませんが、対朝鮮に限らず外交交渉は小手先に拘ることなく全力で当たるべし、胆力勝負に徹すべしの姿勢と受け止めます。
反対派の日和見主義への憤りと解釈しています。
西郷自身が特使として朝鮮へ乗り込むと主張した気概のかけらも外務省にないことも歴史の皮肉としか言いようがありません。
目先の私利私欲省益優先(ピヨンヤンに大使館開設が至上命題)の外務省に爪の垢を飲ませたい。
軍事力経済力の裏付けのない外交交渉であれば当事者の胆力だけが生命線です。
ヒロさん
>「さざ波」と言われていた頃がなつかしい。日韓首脳会談の頃は、ノムヒョンも小泉首相と砂風呂につかって、おとなしくしていたのにねぇ。
とありますが、どうも違うようですね。
西村幸祐さんの「さるさる日記−酔夢ing Voice」から2004年12月18日付の記事:
http://www4.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=401628&log=20041218
をご参照ください。
昨年のAPECでは全員に(小泉さんにも)韓服を着せて記念写真を撮っていたのにね。
「難癖をつけた韓国メディア」という部分はasahi.comの面白い(!)内幕記事がリンクしてあったんですが、抹消されています。さすが朝日新聞。ジャーナリスト宣言真っ盛りです。再販制度・特殊指定と心中するつもりのようです。ネットをなめてます!
失礼しました。
砂風呂はてっきり一緒に入ったものとばかり思っていました・・・・。私は愚か者なり。小泉さん、ごめんなさい。
あんた何様?日記 2004年12月18日
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/month?id=45126&pg=200412
『 お昼のニュースじゃ、小泉首相がのむひょんを砂風呂に誘ったのですが、のむひょんは「日本の衣装である浴衣を着るのは韓国国民に示しがつかない」として拒否して来ませんでした。で、しかたなく一人で寂しく砂風呂に埋まる小泉首相がインタビューされていて、その時小泉首相は「制約していないので」「自由にごくつろぎいただいている」というような返答をしていました。
おそらく二人並んで砂風呂に入る事は、事前の日韓の打ち合わせでは決まっていたのでしょう。イヤなら、打ち合わせの段階で、その企画だけは拒否すればいいのに、日本に来てから拒否するなんて、セコイですね。大統領ですらこんな態度で、来年の日韓友情年なんてやる気あるんですかね?』
変身のための起源論:西郷征韓論?
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2005/03/post.html
『たしかに彼は自ら「遣韓使節」になりたいと主張した。しかしそれは脅迫や戦争のために行くのでない。「礼儀を正し、非武装で、兵も連れずに行く」と言ったのです。朝鮮国父の大院君と、「一対一で開国を談判する」と言ったのです。「これでどうして征韓になるのですか!」と海音寺氏は憤慨していた。』
台湾の役について
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj050512.html
『 1.そもそも西郷の真意は征韓論でなかった。かれが目指したのはひしひしと南下してくるロシア帝国の圧力に日韓が協力して対抗すべく朝鮮国との国交を正常化し友好関係を固めることにあったのである。
2.しかも明治六年政変における大久保の真の標的も西郷でなかった。ところが、岩倉太政大臣代理の不明朗な態度に怒った西郷がいきなり辞表をだしたので、大久保の計算が大きく狂ったのである。』
敬宮愛子内親王と関係あるんでしょうか。
開かれた「皇室」の基礎知識1=敬称・幼名・いみな
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1363853
『敬宮(としのみや)愛子(あいこ)の出典は、「孟子」の「離婁章句下〈りろうしょうくのげ〉」の「孟子曰(いわ)く、君子の人に異なる所以(ゆえん)の者は、其(そ)の心を存するを以(もっ)てなり。君子は仁を以て心を存し、礼を以て心を存す。仁者は人を愛し、礼有る者は人を敬す。人を愛する者は人恒(つね)に之(これ)を愛し、人を敬する者は、人恒に之を敬す」で、「人を愛する者は、他人も常にその人を愛し、人を敬〈うやま〉う者は、他人も常にその人を敬うものである」との意味」である。』
千夜千冊:吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1008.html
『徂徠自身はどうかというと、しきりに「敬天」の思想を容認した。先王が「道」を作為できたのは「天」を敬虔したからであり、そのようなことを自分が注目できるのは、他の儒者とちがって日本にはそういう古義をもつ思想があったからだ、それに自分は気がついたのだと、自負した。』
1873:「征韓論争」
1875:江華島事件
1877:西南戦争
「征韓論争」が朝鮮を攻めるかどうかの論争だとしたら「反戦派(笑)」が勝った直後に戦争を仕掛けているのは説明が付かない。結局朝鮮を確保するのは既定路線だったとしか思えない。ではなぜ朝鮮を確保するかといえばロシアに対抗するためだ。なぜロシアに対抗したかといえばイギリスが地域覇権を日本に任せたからだ。明治維新そのものの黒幕であるイギリスの意志が働いているから、革命5年後には朝鮮問題が課題となったのだろう。メンツをつぶされた日本が感情的になって始めたわけではない。そんな馬鹿なことで革命直後に対外戦争なんか始めるか!「WMDがあるかもしれないから戦争を始めた」と同程度のプロパガンダだと思う。
では征韓論争とはなんであったかといえば、ロシアに対抗するにあたって朝鮮との関係をどうするかについての論争といえる。岩倉派はイギリスのシナリオである軍事挑発→朝鮮属国化のハード路線である。これに西郷は反対した。どうも朝鮮との対等同盟=アジア主義同盟でロシア、ひいては列強に対抗する案であったようだ。これはイラク政権にとってのイランとのシーア派大同盟のようなものだから、当時の日本の国是である「日英同盟」を脅かしかねない危険思想だ。それで西郷は追放され殺されることになったのだと僕は考えている。
http://www.daitouryu.com/syoudoukan/aikiage/aikiage04.html
司馬遼太郎は、西郷が遣韓大使となりたがったのは、死ぬためだったと買いてますね。 自らの死を持って、日朝間に戦争を起こし、外国の介入を招いて両国が焦土となれば、真に国を守る気概は生まれるだろうから、それが目的だと。 余りに一方的な見方という気もしますが。
『真説「陽明学」入門』の著者のお名前は、「林明大」ではなく「林田明大」です。
訂正いたします。
西郷隆盛の征韓論主張説が賦に落ちなかったので こちらを拝見させていただいて何だかすっきりしました。 ところで少し教えてください。
<結局朝鮮を確保するのは既定路線
・・とすると 誰が黒幕だったのでしょうか。
その後山県有朋ら長州組軍部が暴走、当時首相も天皇も日清戦争反対だったのに逆らえなかった、と理解しています。 初歩的な質問かもしれないのですが何故逆らえないのでしょうか。
変身のための起源論:山県有朋と長州暗流
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/cat4943849/index.html
千夜千冊『日本の失敗』松本健一
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1092.html
『いわゆる「統帥権干犯問題」である。のちに司馬遼太郎は、この瞬間に日本が「異胎の国」になったと指摘した。』
ライブドア崩落6――もうひとつの統帥権干犯
http://facta.co.jp/blog/archives/20060127000063.html
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4880861898/
金鶏神社縁起
http://www.knet.ne.jp/~kyogaku/kenshu/p4-kinkei.htm
『金鶏学院の風景』亀井俊郎
http://www.netlaputa.ne.jp/~urakawat/kinkei.html
細木数子
http://www.nazotoki.com/obatyan.html
財産目当て?! 安岡正篤との入籍の顛末
http://blog.livedoor.jp/tenchu13/archives/50009441.html
★このコメントは陽明学関連なので、ブログ主判断でこちらに移動しました。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0996.html
『また、自民党政治の奥座敷にやや詳しい者なら、安岡正篤が戦前戦後を一貫して陽明学を読講して(老荘思想とともに)、その思想の啓蒙をはかりつつ政界のご意見番を務めていたことを知っているかもしれない。けれども、その安岡に親しく会っていたのも佐藤栄作・福田赳夫・大平正芳までであろう。大平に池田派結成のための「宏池会」の名を贈ったのが安岡だった。』
千夜千冊『権藤成卿』滝沢誠
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0093.html
『昭和4年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越した。
1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まった四元義隆らを下宿させ、さらにその隣に苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。井上日召の本拠は茨城県の大洗であるが、そこにはのちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年が集まっていた。その青年の一部も代々木上原の権藤の家にさかんに投宿した。』
http://ww91.tiki.ne.jp/~matsu/youmeigakukeifu.htm
「吉田松陰ゆかりの地を訪れる」佐藤優
http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200608100003o.nwc
中江藤樹の教え
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/prayer/128.htm
中江藤樹の場合
http://homepage3.nifty.com/hidefuurai/nakae.html
千夜千冊『代表的日本人』内村鑑三
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0250.html
http://chuuseiha.exblog.jp/4290983
『そもそも近代日本の対外進出イデオロギーに吉田松陰の思想及びその弟子
たちがどれだけ関与したのか、名前を見ていくだけでもわかりそうなもの
だ。』
明治神宮
http://www.meijijingu.or.jp/
神社界に激震! 明治神宮が神社本庁を離脱へ
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/040510.htm
靖国神社
http://www.yasukuni.or.jp/
靖国神社はどうして神社本庁に属していないのですか
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/service/question_detail.php?queId=4621099
縄文・弥生のハイブリッドシステムを忘れるな
http://www.yorozubp.com/0506/050619.htm
『会津藩士族出身であり本物の右翼を自称した田中清玄は、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」と切り捨てる。』
松陰神社
http://www.shoinjinja.org/
乃木神社
http://www.nogijinja.or.jp/
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1112.html
「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」甘粕正彦 辞世の句
”身ぐるみ脱いで”を”もとも子もなく”という説もある。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/amakasu.html
http://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/9cbb9f25f4219edf99e6ace399e9f8ad
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062583690
千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1090.html
『その闇斎がたんなる儒者としてではなく、徳川イデオロギーの儒者としてどこが注目されるのかというと、寛文5年から保科正之に招かれてその師をつとめたことにある。(中略)こうして登場してきたのが「垂加神道」である。もともと闇斎の朱子学には「敬」と「道」が生きていた。その朱子学のコンセプトと神道の奥義にひそむものが接近した。闇斎は自分にひらめく考えを「神垂祈祷・冥加正直」の「垂加」を採って、「垂加神道」と名付けた。それは闇斎の霊社号ともなる。』
山崎闇斎
http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/ansai.htm
垂加神道
http://www.1gen.jp/1GEN/NAN/J6.HTM
生祀・生祠
http://members.jcom.home.ne.jp/3232737601/seishi.htm
「虹を架ける王妃」
http://wwwz.fujitv.co.jp/niji/index.html
家系図
http://kingendaikeizu.net/rimasako.htm
流転の王女
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rimasako.htm
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1167.html
「薩長因縁の昭和平成史」園田義明
http://www.yorozubp.com/0609/060923.htm
『薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。』
http://www.yorozubp.com/0609/060927.htm
http://www.yorozubp.com/0610/061001.htm
http://www.yorozubp.com/0610/061006.htm
『貞明皇后こそが世界に誇る堂々たる平和主義者であった。樺山含めた薩摩系宮中グループも、そしてジョセフ・グルーもまた貞明皇后が英米に差し向けた使者だったのかもしれない。我が子への母君の想いが薩摩系宮中グループを「昭和天皇免罪工作」へと向かわせたのだろう。』
http://www.yorozubp.com/0610/061009.htm
『秩父宮妃勢津子から贈られたメッセージと宝石箱にグルー夫妻が涙したことが触れられている。グルーはもはや「昭和天皇無罪工作」によって薩摩系宮中グループの一員となっていた。近衛の脳裏にグルーの姿だけがあった。』
http://www.yorozubp.com/0610/061012.htm
『日本国憲法における象徴天皇制への新渡戸の影響はもはや疑いようがない。確かに諸説あるが、すでに研究者の間では「象徴」が新渡戸の英文著作『武士道』もしくは『日本』に依拠していたとする説が有力になっている。』
http://www.yorozubp.com/0610/061018.htm
『良心的な兵役拒否は米国保守派によって推進され法制化されている。その時が来るまで、日本は役に立つかどうかわからない最新兵器を適当に買わせていただきながら、敢えて「良心的」を強調し、良心的参戦拒否国を名乗っていればいいのだ。』
http://www.yorozubp.com/0610/061030.htm
http://episode.kingendaikeizu.net/17.htm
『薩摩派であった香淳皇后の実家・久邇宮(くにのみや)家は、維新後、二度に渡り長州の手ひどい報復を受けている。』
http://www.kokubou.com/document_room/members/kodama02.htm
上原勇作
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/24.html
http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/uehara.htm
『軍部や政治の表舞台にほとんど出てこない上原勇作ですが、周蔵手記によると大正〜昭和にかけて軍部を裏から操っていたのが表向きは「昼行灯」を装い回りを欺いていた上原勇作であった事が明らかになりました。』
> http://www.yorozubp.com/0610/061006.htm
『ここで筧が日本人の生命観の真髄に迫ると評価した貞明皇后の御歌を記しておこう。
八百万の神のたゝへし一笑ひ世のよろこびのもとにてあるらし』
http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/jinjawoshiru/jinjawosiru.html
『貞明皇后(大正天皇の皇后)は、
キリストも釈迦も孔子も敬ひて拝(おろが)む神の道ぞたふとき(尊き)
というお歌を詠んでおられます。』
http://night-news.moe-nifty.com/blog/2005/04/post_1.html
『「神ながらの道」を極めれば皇祖神アマテラスになれるとし、「神を敬わなければ必ず神罰あるべし」と子の昭和天皇に絶えず言い続けていた貞明皇后の「意思」のようなものが平成の今でも生きている。この「意思」は昭和の香淳皇后に移り、平成の現皇后にもそれがある。今の皇太子妃が直面しているのは、この「意思」なのである。』
国際結婚の先駆者 「太平洋の橋」を実践した生涯
http://www.ifsa.jp/kiji-sekai-nitobe.htm
千夜千冊『武士道』新渡戸稲造
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0605.html
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/busido-gyakusyu.html
『武士道とキリスト教理念を一つの器で論じようという、まさに人為の塊のような言説が、新渡戸の『武士道』であると、ぼくは思った。そんな「奇々怪々」なものを、おそらくナショナリストと称する人々が、ありがたがって読んでいるわけである。』
「武士とは何か? ―その男たち、凶暴につき―」細川重男
http://jparchives.sakura.ne.jp/column/db/bushi.html
「信念のために人を殺れるか」石井一昌
http://www.ishiikazumasa.com/works/shinnen.html
十字軍のエルサレム攻略
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/jersale.html
『第1回十字軍(騎士1500名、歩兵2万名、その他の非戦闘員1万名以上) 対 エルサレムを守備するイスラム兵』
『エルサレムを制圧した十字軍の兵士たちは掠奪の限りを尽くし、イスラム教徒やユダヤ教徒を皆殺しにしました。女や子供などの非戦闘員も例外なく殺害され、街路には死体の山が築かれます。』
アルビジョア十字軍(croisade des albigeois)
http://www.voynich.com/cathar/index.htm
買っとけ! DVD
http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20060214/buyd207.htm
『アンデルセン神父はその名の通り神父なのだが、ケンカした子供に「暴力をふるってはいけません、暴力をふるって良い相手は悪魔どもと異教徒だけですよ」とニッコリ笑う』
http://www9.ocn.ne.jp/~sakaeda/hell/h_e_aa.html