◆「つくる会」の中学歴史教科書 (pdfファイル)
【遣隋使の派遣】 国内の改革に成功した聖徳太子は、607年、ふたたび遣隋使を派遣した。代表に選ばれたのは、小野妹子だった。彼は、地方豪族の出身で、冠位十二階の制度によって、才能を認められ取り立てられた人物だった。
このときの隋の皇帝にあてた手紙には、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや』と書かれていた。太子は、手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった。
【聖徳太子と仏教と古来の神々】 聖徳太子は、607年に法隆寺を建てるなど、蘇我氏とともに仏教をあつく信仰した。しかし一方で、太子は、日本古来の神々を大切にすることも忘れなかった。同じ年には、推古天皇が、伝統ある神々をまつり続けることを誓った。このような聖徳太子の態度は、外国のすぐれた文化を取り入れつつ、自国の文化をすてない日本の伝統につながっていったと考えられる。
聖徳太子は、内政でも外交でも、日本の古代国家の設計図をえがいた指導者だった。太子が活躍した7世紀には、政治や文化の中心が飛鳥地方あったので、このころを飛鳥時代とよぶ。
これ以外に「10人の話を同時に聞く」というマルチ・スレッド伝説もある。最近は、聖徳太子の顔を知らないフトドキな非国民がふえているという。5千円札と1万円札をほとんど見ることなく育った、貧困なる時代の犠牲者なのか。
◆現在は発行されていない有効なお札の肖像★一万円券・・・・聖徳太子
★五千円券・・・・聖徳太子
★千円券・・・・伊藤博文/聖徳太子
★五百円券・・・・岩倉具視
★百円券・・・・板垣退助/聖徳太子
★五十円券・・・・高橋是清
★一円券・・・・二宮尊徳/武内宿禰/大黒天
二宮尊徳、武内宿禰、大黒天の札束を見たことがある人はいるだろうか。1000円札の伊藤博文と500円札の岩倉具視はほとんどの人がおなじみだろうが、100円札の板垣退助は私も記憶があるが、50円札の高橋是清になると、見たこともない。
◆紙への道:29.聖徳太子と紙
聖徳太子は1930(昭和5)年、100円札に初めて登場して以来、日本銀行券に戦前、戦後を通じて過去7回採用された最多記録保持者です。
すなわち、聖徳太子の肖像は、100円札(昭和5年発行)、100円札(昭和19年発行)、100円札(昭和20(1945)年発行)、そして戦後も100円札(昭和21年発行)で再登場。その後も初めての千円札(昭和25年発行)や、5千円札(昭和32年発行)と1万円札(昭和33年発行)に登場し、計7回採用されています。
聖徳太子は、通貨オリンピックで、7回という最多出場記録を保持している。アメリカの1ドル札には、ピラミッドのテッペンに「神の眼」が描かれているが、わが国の昭和ファシズムや高度経済成長を暖かく見守ってこられたのは、聖徳太子であったのだ。
◆お札よもやま話
実は戦前にお札に使われていた肖像は、戦後、連合軍最高司令部(GHQ)の命令により使用を禁止されていたのですが、当時の一萬田(いちまだ)日銀総裁が「聖徳太子は『和を以って貴しと為す』と説いた平和主義者である」と主張したことが受け入れられ、聖徳太子だけは戦後もお札に登場することになりました。このため、「お札といえば聖徳太子」と言えるほど国民に親しまれました。
これほど親しまれた聖徳太子を、洋モノにかぶれた明治のヤンキーな面々に差しかえるとは、これは何かの陰謀なのだろうか。『和を以って貴しと為す』という精神は、大陸にはない、日本独自の精神の萌芽である。この精神がどれほど多くの人の心の支えとなったことか。聖徳太子なかりせば、この世に親鸞の浄土真宗もなかったのである。
◆浄土真宗親鸞会:親鸞聖人と聖徳太子
建久2年9月12日といえば、親鸞聖人19歳の時ですが、求道に行きづまられた聖人は、かねて崇敬なされていた聖徳太子の御廟へ参籠されて、生死一大事の救われる道を尋ねられたことがありました。
この時は13日より15日までの3日間おこもりなされたのですが、その間の模様を聖人自ら次のように書き残しておられます。<中略>
3日間、一心不乱に生死出離の道を祈り念じて、遂に失神してしまった。
その第2夜の14日、四更(午前2時)ごろ、夢のように幻のように自ら石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟の中は、あかあかと光明に輝いて驚いた。
仏教を篤く敬ったばかりか、無礼千万な中国に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という、胸のすくような痛烈なパンチを浴びせた、我らがヒーロー、聖徳太子。この天子さまにタテを突く狼藉者がいるとは!
◆谷沢永一 『聖徳太子はいなかった』:書評その1
昨年、全国の義務制学校で、採用を拒否された『新しい歴史教科書』は、律令国家の成立の表題の下、聖徳太子の新政を、聖徳太子の外交と聖徳太子の政治の両面から論じている。そこには、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」が引用され、「遣隋使は隋からみれば朝貢使だが、太子は国書の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属はしないという決意表明を行った」と書かれている。「新しい教科書をつくる会」では、聖徳太子は、ヒーローなのである。
この一文に対して、谷沢氏は、著書の冒頭に問題にし、「これ、聖徳太子が、中国の隋の皇帝に宛てた国書である、と長いあいだ教えられきた。非常に大切な文書であるとの触れこみである。それほど貴重なのか。では、日本の歴史書の、どこに、記しとどめられているのであろう」と切り出す。そして、この一文が、我が国のいかなる書き物にも、ぜんぜん載っていないことを明らかにした後、『日本書紀』の箇所を紹介して、その手練手管を解析する。見事である。この部分だけでも読むことを進めたい。
谷沢永一『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』(ビジネス社)でもわかるように、谷沢永一は「つくる会」とは相性がよくない。『聖徳太子はいなかった』は、「つくる会」へのさらなる嫌がらせなのだろうか。
◆ソース同上
谷沢氏は、新書約二百二十頁にわたり、聖徳太子がいないことをいろいろな側面から執拗に証明している。私の管見からも、聖徳太子はいなかった説は、関祐二氏らも蘇我入鹿=聖徳太子説の立場から説明しているが、谷沢氏が依拠するのは、『長屋王家木簡と金石文』を著した大山誠一氏である。大山氏は、聖徳太子の実態を、用明天皇の第二子の厩戸皇子としている。
この大山説に全面依拠して、谷沢氏は、議論を展開しているのだが、最近売り出している遠山美都男氏は、『日本書紀はなにを隠してきたか』において、法隆寺系資料を『日本書紀』以後の文書と認定したことで、聖徳太子が厩戸王をもとに創造された架空の人物であるとしたことを大山氏の功績としつつも、なぜ『日本書紀』ではそうした創造が行われたのかを解明していないことを大山説の問題点としてあげている。
谷沢永一は、大山説に乗ったようだ。で、その大山説の中身はいかに?
◆聖徳太子はいなかった?
大山説の要点は、『聖徳太子の実像と幻像』(340頁)に自らまとめた箇所がありますが、それを段落に分けて引用してみます。
1.厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。
2.その聖徳太子という人物像が最初に登場するのは養老4年(720)に成立した『日本書紀』においてであり、その人物像の形成に関与したのは藤原不比等・長屋王・道慈らであった。その目的は、大宝律令で一応の完成を見た日本の律令国家にあって、それを主宰すべき天皇が、中国的聖天子像をモデルとして〈聖徳太子〉を創出し、これによって皇室の尊厳を確立しようとしたのである。
3.その後、不比等が亡くなり、長屋王の変後の天平年間に、藤原武智麻呂・光明皇后を中心とする権力が確立するが、大地震・疫病流行などによる未曾有の危機に陥る。そのような時、光明皇后は〈聖徳太子〉の加護を求めるため、行信の手引きで法隆寺に接近し、法隆寺を舞台とした新たな聖徳太子信仰を創出することになる。そこで成立したのが、薬師像・釈迦像・天寿国繍帳などの銘文や『三経義疏』などの法隆寺系の史料であり、さらに救世観音を本尊とする夢殿であった。
大山説の特徴は以下の点にあります。
(1)推古時代に実在した厩戸王と、後にその上に創造された架空の存在である聖徳太子をはっきり区別する。
(2)推古時代の史料とされるものをほとんど完全に否定し、中国側の史料(『隋書』)に出る遣隋使の派遣や、考古学的に実証される法隆寺の建立など、ごくわずかなものに限定する。
(3)『日本書紀』以前の聖徳太子神話の形成を否定し、太子に関わる神話はすべて『日本書紀』の創作だとする。
(4)法隆寺系の史料を、『日本書紀』以後の成立と見る。
上記の説明は、歴史が好きでない人には、ちょっと厳しいかもしれない。この大山説に反論・疑問は以下の通り。(もっといいサイトがあれば、どなたか教えてください)
◆アマゾン:『「聖徳太子」の誕生』 読者レビュー
で、全くの素人の小生が持つ疑問点を幾つか挙げてみよう。
1.著者は法隆寺系史料を全部「捏造」とする。私もそれらの成立が8世紀のものだと言う点はほぼ納得。しかし、670年の火災による再建に関する論述には不満を覚える。すなわち、再建に当たって焼け残った文書や特に関係者の記憶に基づいて銘文が記された可能性を考える。再建にはできるだけ元来の姿を復元するのが原則である。ただし、「天皇」といった新しい用語が混じってしまう、そう考えるのが自然。従って、銘文の記述年代だけから、全部を「捏造」とするのには飛躍があるまいか。
2.記紀に記録のない600年の遣隋使後、607年に「大礼」小野妹子の遣隋までに大和の政治改革が行われた事は否定できまい。こうした太子に帰せられている推古朝の政治改革の実行者が厩戸王=太子でないなら、それを明示しなければならないだろう。
3.日本書紀及び古事記が創造した(著者の言う「捏造」。ただし、それは記紀以前のものも当然あるが)人格・人物・事跡は太子だけではない。これは記紀の成立事情も絡んで大変な問題であるが、書紀の他の創造記事との比較検証を行い、書紀の文脈の中で「太子」を論じないといけないのではあるまいか。太子だけ「完全な捏造」はやはり不自然である。
もちろん、「つくる会」が黙っているわけがない。
◆つくる会:歴史教科書10の争点 レポート01
高森:「大山氏の方法論の致命的な欠陥は、「日本書紀以前に確実な史料がなければ、日本書紀に描かれた人物であっても虚構だ」、と言っていることです。日本書紀や古事記に遡る確実な史料によって裏付けられるような人物はほとんどいません。諸史料を否定した上でどういう歴史像を代案として出すのか。蘇我馬子もいなかった、物部守屋もいなかった、あれもこれもいなかった…その先をぜひお聞かせ頂きたい。なぜこのような議論が出てくるのでしょう。歴史を人間の学問として捉えようとしない社会科学偏重、あるいは社会科学信仰のような思いこみがまず前提になって天才・卓越した人物というのは歴史上存在するはずがないのだ、という天才・英雄を否定する心の持ち方が前提になっているのだろうと思います。これらの背景があって聖徳太子虚構説が出てきたのではないでしょうか。」
そして、田中英道『聖徳太子虚構説を排す』(PHP研究所)という反論本も書いている。
「聖徳太子非実在」論争は、日本の史学上の超大事件である。明智光秀は織田信長を殺していないとか、源義経がジンギスカンになったとか、明治天皇は大室寅之祐による替え玉であるとか、そんな小物の事件ではない。
聖徳太子が実在しないとすると、では、なぜ時の権力者たちは「実在のストーリー」をつくったのか。
◆谷沢永一『聖徳太子はいなかった』:書評その2
要するに,天皇の長子という申し分のない血統に生まれ,生まれながらにして天才で,仏教も儒教も頂点を極め,歌を作る能力も抜群,政治的な調整力にも優れ,慈愛に満ち,憲法を作るほどの立法能力を持ち,それでいて信仰厚い・・・というスーパースターがいたんだよ,こういうスーパーマンが生まれるのが天皇家なんだよ,こういう皇太子が現天皇の後を継ぐんだよ,ということを天皇家と血の繋がっている連中に教育し,天皇家に対してクーデターなんて考えるんじゃないよ,と諦めさせるために必要だったのだ。
そして,このような小細工を必要とするのは誰かというと,武力によってクーデターを起こし,天皇の地位についた人物である。このクーデターが壬申の乱であり,即位したのが天武天皇。自分がしたことを自分の子孫にされてはたまらない。自分がしたようにクーデターを起こされて政権を奪われるのに忍びない。できれば自分の子供に地位を受け継いで欲しい。
なら,クーデターを起こそうなんていう不埒な連中(・・・こういうのを「自分の事を棚にあげる」っていうんだな)を黙らせるために,自分の氏素性の正当性を示すために作らせたのが日本書紀だったという。この本の著者も指摘しているが,正当性を主張するためには血筋の正統性を言うのが近道である。だから,日本書紀にしろ,新約聖書にしろ,旧約聖書にしろ,その冒頭にはうんざりするほど延々と,家系図,血統図が書かれている。洋の東西を問わず,同じ事を思いつくものである。
当時は皇太子という言葉もなければ意識もなく,当然,天皇の後は皇太子が継ぐ,という決まりもなかった。だからこそ,「かつて存在したスーパーマン・皇太子」の存在を作り上げる必要があったらしい。
古代史の要は「天武天皇」にある。「天皇」や「皇太子制度」、「日本」という言葉が出来上がったのも、このころである。『日本書紀』と『古事記』を鵜呑みにする歴史学者の旗色はだんだん悪くなるであろう。私は、「聖徳太子論争」は「非実在」派に軍配が上がるとみる。
◆谷沢永一『聖徳太子はいなかった』:書評その1
確かに専門的になるといろいろな点が議論にはなるが、谷沢氏は、大山説を、書誌学と藤枝晃の敦煌学と佐藤弘夫の『偽書の精神史』で補強していることを挙げておこう。<中略>
谷沢氏自身が、『「新しい歴史教科書」の絶版を勧告する』の百五頁から百八頁で、聖徳太子頌歌を捧げている。とくに百六頁には、「聖徳太子『三経義疏』は世界最古の学問書の一つ」との言葉が踊っている。誠実な人物なら、今回の新書に、当然にもこの点自分自身恥ずべきことを書いてきたと自己批判を書くべき処である。
今回私が読んでみたのは、谷沢永一の『聖徳太子はいなかった』だけである。ヒロさん日記が「教科書暴力団」として取り上げる家永三郎が、かつて聖徳太子幻想の急先鋒だったが、一転して左翼御用達に転向した話なども面白い。書誌学(文献学)の脱線を楽しみたい人にはいいが、事実関係のみを調べたい人には拒絶反応があるかもしれない。『三経義疏』の総括もしておりませんし、谷沢先生(笑)。
詳しく研究したい人は、以下の本などでどうぞ。
◆聖徳太子はいなかった?
さて、「聖徳太子はいなかった」論ですが、大山誠一さんという古代史学者が震源地です。『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館、1999)でこの説を出して、大きな反響を招きました。『東アジアの古代文化』という雑誌で、何度か特集を組み、そこに発表された主要な論文は梅原猛他『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、2002)にまとめられています。大山さんはさらに、『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001)で自説を補強しました。今年になって、大山さんと彼に賛同する研究者による論集、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2004)がでて、かなり幅広くこの問題を扱っています。
今日の話がつまらなかった人は、お口直しにどうぞ。
- 医者になった聖徳太子が言いました。「消毒だいじです」
- 明治天皇、何をごそごそされているんですか? 「目、いじってんの」
- 神社の境内で何か飲む? 「ジンジャーエールはやめろっつーの!」
『「法華義疏」の史料批判』古田武彦
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/hokegiryu/jhokegi.html
『第一に、 本疏に対し、 「聖徳太子の真作にして真筆であり、それが法隆寺に伝来されてきた」 という、従来の通説的理解は、遺憾ながら支持することは不可能である。
第二に、現存御物本は「再装本」であるが、その背後には“改竄(かいざん)”という目的のあったこと、ほぼ疑いがたい史料状況を検出することとなった。それは、法隆寺内で、“旧蔵者名を消す”ために行われたもののようである。
第三に、しかも、現存御物本は、実は異種の史料を 「合成」した、後世(八世紀)の故意にもとづく「改竄」であった可能性が高い。』
聖徳太子の実在性も、随にあてた国書の実在性も歴史学の面白いテーマですから、歴史好きにはたまりませんね。
両者の実在性はともかく、日本書紀を編纂した当時の大和朝廷(日本政府)が「(日本書紀に聖徳太子の書面を出すこと)で対等の立場を強調することで、(支那)に決して服属しないという決意を表明した」ことだけは確かです。
支那との対等外交を宣言した聖徳太子の次に一万円札の顔になったのが、脱亜論の福沢諭吉ですから、大蔵省(財務省)の中の人には「支那を客観視して距離を置くことを主張した偉人を一万円札の顔にする」という固い意志があるのかもしれませんね。
次に一万円札の顔になるのは誰かな?
財務省が大変身して河野洋平だったりしてw
あまたりしほこの秘密
http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/amanoheya.htm
「王朝多元」古田武彦
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen5.html#zuisyo
「日の出ずるところの天子、多利思北孤という名前で出てまいりますが、奥さんがいまして鷄彌という形で書かれております。」
口直しがいらぬほど面白い。
というか「イエスはいなかった」に通じるネタだなぁ。
聖徳太子は信仰の対象なんで(「太子信仰」)、そのように取り扱うのが穏当だと思いますけどね。史実とは殆ど関係ないです。そもそも天武以前の(文献上の)日本史は藪の中です。「太子信仰」について語ることは可能でしょうけど。
「聖徳」太子と山背大兄王
http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
日本の「イエス・キリスト」たる聖徳太子の秘密は、ウマにありますね。太子さまは、「どこのウマの骨ともわからぬ輩」ではありません。
>http://www.ten-f.com/yamashiro-ooe.htm
母親の穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)が、厩(うまや)の前まで来たとき産気づき、皇子を産み落としたため、と公には説明がなされています。
574年と622年の生没年・・・・・・・574年と622年は、いずれも「午」年
仏教公伝の年538年も、また、太子が馬に乗って富士山を駆け上がったとされる598年のいずれもが午年なのです
「太子」と二人三脚のような形で国政を運営した一族が大豪族の蘇我氏で、その一族を象徴する実力者の名前が馬子であることは、八世紀の初めに国史を編纂した人々、あるいは国を動かせる立場に居た人たちの間で「馬・午=神聖」と云った信仰にも近い思い入れがあったのかも知れないことを窺わせます。
http://www.hidaka.pref.hokkaido.jp/hd-tssku/umabunka/05-manabu/03-minzokugaku/01-shinkou/index.html
『朝鮮半島から日本に馬が入ってきたのは、3世紀頃とされている。すぐに馬は軍事的に必要不可欠なものとなり、また神の乗り物として、祭りなどに欠かせないものとなっていった。平安時代から、願いを叶えるために、神の乗り物である「生きた」馬を奉納することが行われ始め、しだいに奉納するものが板に馬の絵を描いたものに変化していった。これが絵馬である。』
「聖徳太子と甲斐の黒駒」の巻
http://home.cilas.net/yunami/monogatari/kainokurokoma.html
『私の見解では「聖徳太子像」は、推古二一年を境に全く変貌する。
今に残る聖徳太子のイメージは創られたものだ、という直感を得た。』
何時読んでもお二方の博識振りには脱帽
『自国のことを知らないくせに自国の歴史を批難する』ことを生業とする何処かのバカ団体の若い連中に読ませてやりたい。
【自分の生まれた国を批難するのはアンタの勝手だけれど、アンタは一体どの程度自分の国のことを知っているんだい?】と
二十年程前の文藝春秋に、
当時の一万円札の肖像画の元となった、
伝聖徳太子の画像をもとに、
聖徳太子の肉声を当時の技術で復元してみた話がのっていました。
今上陛下(当時皇太子)とよく似た声が装置から出てきたそうです。
たしかに、今上陛下、
一万円札の肖像画の人物像と似ている気がします。
ようやく私が首を突っ込める記事が出ましたね。
書評その1、その2とも他の書評の題材となる本が私のライブラリーと酷似していて爆笑しました。特に「聖徳太子はいなかった」と「日本人と天皇」の両方を絶賛するなんてギャグとしか思えません(私はどちらも持ってますが)。是非、ヒロさんの次回作には「日本人と天皇」を希望します(笑)。
イギリスで「〜絶版を勧告する」を今更入手するのは難しいでしょうから、お節介ながら問題の箇所の核心(P.106〜108)を引用しておきます。
聖徳太子については、それでこの教科書は冷淡に終わるのだが、太子が仏教研究をされたという記述がないのは大きな欠陥である。
聖徳太子は若い頃から高句麗僧の慧慈について仏典を学び、法華経、維摩経、勝鬘経について、その意義や内容を解説した書物『三経義疏』を著わされたとされている。その『三経義疏』の肉筆の書物の一つは宮中にある。
その天下の宝を、私たちが見ることはできない。しかし、原文の漢文のまま印刷されたものがある。それに注をつけるべく宮崎市定や吉川幸次郎が研究したところ、たしかに和臭(和習とも書く。日本人の作った漢詩や漢文に認められる、日本のものらしい特殊な傾向。シナの作品のようになりきれない日本人くささ)があったということである。それこそホンモノである証拠だ。
(中略)
注釈というと、初歩的なことであるかのような印象を持っているひともいるが、それは間違いである。注釈すなわち義疏というのは、決して初歩的な学問ではなく、究極の学問なのである。
(中略)
聖徳太子も、お寺は建てたが、あとは文献学を究めただけであり、布教はしなかったし、させもしなかった。独り書斎にあって法華経、維摩経、勝鬘経などを読み、研究をした。
仏教に対してそのような態度をとったということは、仏教を「信じる宗教」ではなく「人生の知恵」だと受け取った証拠である。日本には、学問は人生の知恵のためにあるという伝統がずうっと系列をなすが、それは聖徳太子からはじまって伊藤仁斎に至って結集されるのである。
確かに谷沢センセ、ちょっとやりすぎですね(笑)。もっとも谷沢センセとて、「聖徳太子の実在」という水滴を否定しただけで、「聖徳太子伝説」という虹を否定したわけではないのですが。
本論とずれますが、聖徳太子が称揚されるのは以下の意義があるからだと思います。
(1)対中対等を宣言した。
(2)仏教を興隆させた。
(3)統治を整備した。
これらすべてが厩戸皇子の事跡とされて「聖徳太子」が誕生したと。
しかし現代の日本人にとって大事なのは(1)〜(3)が行われたことそのものであって、それが聖徳太子によって行われようがMr.X(たち?)によって行われようが意義は損なわれないので、それほど大騒ぎすべきことではないように思われます。
個人的にはこれらは実際には蘇我一族によって行われ、それを隠蔽するためにある程度は鉱石の合った厩戸皇子にすべてを集めて表象したのではないかと考えています。
封印された王 あまたりしほこ外伝
http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/amagaiden1.htm
「法隆寺の中の九州王朝」古田武彦
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022604999/
「盗まれた説話」古賀達也
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou39/koga39.html
『以上、聖徳太子の南岳禅師後身説話が九州王朝王家の説話からの盗用であったことを述べてきた。同様に、『日本書紀』に始まり後代に至って形成されてきた聖徳太子伝承の根幹部分の多くが、九州王朝内伝承の盗用である可能性は少なくないと思われるのである。』
九州王朝と大和王朝の並立
http://www.b-net.kcv.jp/~ryhei/1-16niouchou.htm
『4〜7世紀は九州王朝と大和王朝の並立時代だと思います。一般的には九州王朝はなかったとするのが、定説です。しかし、隋書や旧唐書を見る限り、九州には邪馬壱国から続く九州王朝があったとしか考えられないのです。』
隋
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-33.html
『ところで『隋書』という隋の歴史書には608年に倭国におもむいた使節の記録がある。この時に使節は倭国王と、その妃、王子に会ったと記録されている。変でしょ。聖徳太子は王ではありませんね。推古天皇は女性ですよ。一体誰に会ったんだ。正式な隋の外交使節を倭国政府はあざむいて聖徳太子を王と紹介したのでしょうか。』
日本史記は疑うのに、隋書は信用するってのは、アホの子ですかとは、思いますねぇ〜
中国の正史なんて、自分たちの正当性のためならどんな記述でもOK〜!
なトンでも書籍だと思うんですけどねぇ〜
藤原不比等と天の鼓 沈められた真実
http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/tenko.htm
『不比等は紆余曲折の歴史を封印し、日本が現在の天皇の祖先である天孫によって統一されたのだという「共通の幻想」を創りだした。』
「天皇制のからくり」室伏志畔
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou28/kaihou28.html
『大和朝廷はいかなる実質をもたなかった為に、貫く棒のごとき幻想性(観念)をその王朝に付与することによってその王朝を庇護することに成功した。つまり天皇制はたかだか七世紀後半から八世紀の始めに成立した観念にすぎないのに、それを万世一系のものと我々は観念させられたのである。』
谷沢センセの本領は書誌学者であって、歴史は専門外。阪大の加地先生を誹謗したというので訴訟になり、裁判の証言で私は実証学者ではないといって、逃げている。多分作る会の誰かと衝突したんでしょう。本はものすごく読んでいるので、適当につなぐのはお手のものですよ。
大山氏の「聖徳太子の実像と幻像」は読んでみたが、なるほど学者らしく、手のこんだ論証はしているが、しょせん、あの時代の文献はものすごく乏しい。納得できるのは聖人信仰は後世作られたという話程度でしかなかった。津田左右吉が十七条憲法が太子の作ではないとする論拠として、「国司」という語をとりあげ、当時は「国司」が存在しなかったとしている。この伝でいくと、昭和天皇は実在しなかったという論も成り立つ(昭和天皇は崩御後の諡号)。もちろん、大山氏はこんな粗雑な論議はしていないが、前提が否定論に立っているという印象は免れない。
歴史学会はマルクス主義が主流らしいから無理からぬことではあるが。
小説ですが、鯨統一郎著「邪馬台国はどこですか?」には、思わず納得したくなる珍説7編が収録されています。
気分転換にどうぞ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488422012/503-5152373-7954317
http://www.ctk.ne.jp/~denzin/syoutokutaisi.htm
>決して服属しないという決意を表明した
であれば「相模太郎」北条時宗。『相模太郎は肝甕の如し』頼山陽
侵攻しようとした「豊国大明神」豊臣秀吉は...
あの〜、田中英道先生の名前が、エントリーの中では田中道英になっていましたよ。
>http://www.ctk.ne.jp/~denzin/syoutokutaisi.htm
聖徳太子の顔とイメージは1400年前の話でしようがないとして、150年前の西郷隆盛の顔も誰も知らない?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nazuke/takamori.html
『日本の歴史上の人物で、じっさいどんな顔だったのか、どんな姿だったのか、まるっきりわかっていないのが、聖徳太子と西郷隆盛なのです。
「だってお札に描いてあるじゃん!」
でもあのお札の顔は、「これを聖徳太子ということにしましょうよ」と決められただけで、聖徳太子が本当にああいう顔だったという証拠などどこにもないのです。西郷隆盛はつい125年前まで生きていて、多くの目撃者がいたにもかかわらず、今やだれにもその顔や姿はわかりません。
「銅像があるじゃん!」
でもあの銅像をつくった彫刻家は、西郷隆盛本人を見ていません。』
>田中英道先生の名前が、エントリーの中では田中道英になっていましたよ。
人名捏造ブログにようこそ! 昨日は「明智光秀」も「秀光」として活躍しておりました。訂正いたします。
中国と距離を置く「聖徳太子」、脱亜論の「福沢諭吉」とくれば、次の1万円札は、蒙古撃退の「北条時宗」か、あるいは朝鮮出兵の「豊臣秀吉」か。
豊臣秀吉にすると、某国で暴動が予想されますが、刺激的で好き!通貨の交換が拒否されるかもしれないが、それもまたよし。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20060212/shoki
『日本書紀は渡来中国人によって「中国語で」書かれたα群と、日本人が書いたβ群に分けられることを発見した。(中略)つまり憲法十七条は聖徳太子の作ではない(或いは後年に改竄された)ということになる。』
厩戸皇子にかかわる敏達紀から推古紀はα群です。渡来中国人の続守言と薩弘恪は唐朝の正音(唐代北方音)に通暁し、最初の音博士を拝命した。もちろん正格漢文も綴れる。
>厩戸皇子にかかわる敏達紀から推古紀はα群です。
森博達の『日本書紀の謎を解く』によると、
20巻(敏達)、21巻(用明・崇峻)=α群
22巻(推古)、23巻(舒明)=β群
「憲法十七条」は倭習のあるβ群だそうです。
神護寺の源頼朝像が足利直義ではないかと言われて久しいですが
聖徳太子の肖像もかなり後世に作られた事が言われています。
長い間10000円札として活躍してきた私たちは誰を有りがっ
ていたのでしょう。
書評:
http://www.japanology.cn/essay/shuping/04.htm
http://www.japanology.cn/essay/shuping/03.htm
『「(聖徳太子の)色あせた化石のような実像よりも、生き生きとした精彩を放つ虚像」に注目したい』
>http://www.japanology.cn/essay/shuping/04.htm
つまり本書(=『聖?太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説―』)は、日本聖?太子(574〜622)は中国南岳慧思(515〜577)の後身であると信じられた事実を扱っている(第三章)。
またこの聖?太子伝説は、『法華経』流布になつわる信仰であって、強い求道精神が日本の古代に尊ばれた事実を物語る伝説である。転生が事実かどうかではなく、転生したと言われ、信じられたことは事実なのであり、その事実が重要なのである。またこのことは聖?太子の著書が中国に伝わり、中国僧の明空がその住、注釈書『勝鬘經疏義私抄』を記した。それはまた日本に伝存しているのである。これにも王勇教授は労力を費やしている。それは中国でもこの転生談が信じられたのであり、仏教書の「逆輸出」となる極めて珍しい事実だからである(第4章)。
鑑真和上が日本で入寂して3年後に、日本天台宗の開祖となる最澄(766〜822)が誕生した。この2人には転生談はない。鑑真は天台典籍も教学も伝えたにもかかわらず、当時の日本仏教は関心を示さなかった。長安仏教のコピ―に重点があったからと想像できる。しかし、これに満足しなかった最澄は、鑑真将来の典籍をみて開眼した。実際に鑑真を継承したのは最澄であった。しかも最澄は、聖?太子の慧思後身説を信じ、しきりにこれを大乗仏教弘通すなわち天台宗の流布に用いる。
楽しく拝読しています。「聖徳太子の正体」小林恵子(やすこ)著 文芸春秋を是非ご一読くださいませ。彼女の説によれば、聖徳太子は、ビザンチン帝国にも書を出した、モンゴル可汗(ハーン)であった達頭(タリシヒコ)が、勢力争いから、600年に来日した
ということです。彼は本来ゾロアスター教だったとか。ササン朝ペルシャのホスローニ世とも関係があったのではと。法隆寺にある聖徳太子の像の美しいペルシャ風の冠の頂上には、イスラムシンボルの三日月がしっかりついています。「興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年」同小林氏の本では、4世紀から7世紀までの天皇は、全て渡来人であったと
いう仮説を書いていて、おもしろいですよ。
http://www.bk1.jp/product/02347829
http://www.doujidaisya.co.jp/kodaisi_syohyou4.html
「人間はいかなる動物よりも幻想的動物であることを深く理解するなら、遠い原始の昔から、幻想的な撒き餌はふんだんになされ、その装置に大衆を取り込むことによって支配は成り立ってきたと思わないわけにはいかない」
「キリスト教徒であるヨーロッパ人にとってイエスを神格化した『新約聖書』がバイブルであるなら、日本人にとって聖徳太子を神格化した『日本書紀』は、まことに非宗教的なバイブルというにふさわしい。そしてキリスト教も大和仏教もイエスと聖徳太子を超ウルトラ化させる幻想の内に、民衆を呑み込むことを策するものであった」
>http://www.doujidaisya.co.jp/kodaisi_syohyou4.html
『フロイト晩年の論文「人間モーセと一神教」を導きの糸に、本来エジプトの太陽神・アートン信仰にその起源を有した一神教の伝統を、ユダヤ教は自民族の宗教神たるヤーウェに振り当てることによってあたかもそれを自己起源のものであるかのように取り込み、同時に偶像を禁止し破壊してエジプトに繋がる痕跡の一切を消し去ることで、悠久のユダヤ原理のもとへそれを詐術的に歪曲したのだと述べる時、そこに二重に透視されているのはわが「日本書紀」におけるまったく以て相似形の詐術、すなわち藤原氏による「天武殺し」と「悠久の大和史観」の造作創出という歴史内容のあからさまな歪曲の様相であったことは言を待たない。』
もうじき日本に行きますので、この本はチェックしておきます、えのさん。