私の初めての海外旅行はインドだった。航空チケットは60日のオープンで、ホテルの予約はいっさいないバックパッカー旅行だ。最初からインドというのは大胆だが、大学では南アジアの地域研究をやっており、ヒンディー語もある程度使えるようになっていたので、友人と一緒の2人旅ならばなんとかなるだろう、と思ったのだ。
当時、考古学に凝っていたので、少なくともアショカ王の錆びない鉄柱や、エローラの石窟寺院群を見るつもりでいた。しかし、どちらも実現しなかった。最初の訪問地カルカッタで大病をしてしまったのだ。
生水には細心の注意を払っていた私だったが、道路わきで売っているサトウキビの生ジュースがいけなかったのかもしれない。急性の下痢と高熱で10日間も寝込むことになってしまった。悲惨である。
このときにお世話になったのが、カルカッタ市内の仏教寺院の安宿だった。オレンジ色の衣装をまとった僧侶たちが生活している寺院だが、部屋のいくつかを「仏教徒限定」で旅行者にも貸し出していた。「Canteen」と呼ばれる食堂では、ネパール人が料理人をしており、滞在中は特注の野菜粥をつくってもらい、お世話になった。
インドにはこのような仏教寺院がいくつかあるが、スリランカ、ビルマ、タイからのミッション施設としての寺院が多い。私がカルカッタでお世話になった寺院も、タイに本部がある寺院の「出先」だった。インドの仏教は、アショカ王が統治した紀元前3世紀や、ナーガルジュナ(竜樹)の活躍した2世紀頃には栄えていたが、その後、ヒンズー教に吸収される形で消滅していく。
仏教はどうしてインドで定着しなかったのか。理由はいくつかある。
最後の理由がもっとも大きいのかもしれない。事実、14世紀にハルジー朝第2スルタンが北インドに侵攻した際には、大量の僧侶が殺害され、仏教はチベット、ネパール、中国に拡散した。逃亡できなかったものは、ヒンズー教への同化を余儀なくされた。仏教は「殺さない」宗教であり、「闘わない」宗教なのだ。
チベットで初代ダライ・ラマが即位するのは1391年である。ダライ・ラマとは、観音菩薩が化身となって生まれ変わるもので、生後直後の子供に対して「生まれ変わり」の認定が行なわれる。初代ダライ・ラマは1351年生まれだが、その初代もさらに数十代を遡って、ブッタが生きていた時代のバラモン(僧侶)にたどり着くという。
『ダライ・ラマ自伝』(文春文庫)によると、チベットの仏教徒は肉食を禁止されてはいないが、「畜殺」は禁止され、その仕事はもっぱら回教徒が受けもっているという。「不殺生」が守られ、「浄・不浄」が存在する。
一方、インドに残され、ヒンズー教に同化した仏教徒はどうなったのか。ヒンズー教も、仏教と同様に「因果の法則(カルマ)」と「生まれ変わり(輪廻転生)」を説いている。しかし「カースト制度」という職種別の「奴隷階級制度」があり、「浄と不浄」は厳格に切り離され、下級階層に生まれたものは、前世の報いとして諦め、これに甘んじなければならない。
◆ダリット 不可触民 ハリジャン
彼らはとても蔑まれた生活をしていて、特に村では、貧しく、職業は散髪屋、洗濯屋、便所掃除など、社会的に低いとみなされる仕事をし、上位のカーストに仕えるようになっています。宗教的な場所では、同じ寺に入ることができず、彼らと口をきいてはならず、学校でも子供たちの間で差別があり、生活に欠かせない井戸も共有できず、さらには上位カーストの影さえ踏んではいけないし、もちろん異なるカーストとは結婚できません。
「アンタッチャブル」とも呼ばれる不可触民である。インドの支配階層は、不可触民を「少数派」として扱いたがるが、地域によっては50%を超える「多数派」でもある。不可触民に対する差別は凄まじい。上記以外に、
という差別もある。
このような理不尽なヒンズー教に立ち向かったのが、不可触民として生まれ、独立後のインドで初代法務大臣となったアンベードカル(Ambedcar)である。彼は「改革の見込みのないヒンズー教は捨てる。私はヒンズーとして生まれたが、ヒンズーとして死ぬことはない」と宣言し、1956年には、約50万人の信奉者を率いて、集団で仏教徒に改宗した社会運動家である。
で、ここまでの話は、25年前にインドに渡った当時の私が、すでに知っている話だった。改宗は勇気ある英断だが、インドの人口は10億人である。10億人のうちの50万や100万は、吹けば飛ぶような芥子粒であり、超マイノリティの運動にすぎない。
ところがである。アンベードカルがまいた「ヒンズーとして生まれてもヒンズーとしては死なない」という運動は、燎原の火のごとく広がり、現在のインドには1億人の「新・仏教徒」がいる。そして、仏教に改宗した直後にこの世を去ったアンベードカルのあとを継ぎ、1億人の仏教徒のトップに立つのが、日本人の佐々井秀嶺である。
私は日本人として、つい最近まで「佐々井・爺」こと佐々井秀嶺の名を知らなかったことを恥ずかしく思う。カルカッタのマザーテレサを知って、ナグプールの佐々井秀嶺を知らないなどということが、一体どうしてありえようか。(つづく)
■佐々井秀嶺について
なんだかとても良いお話が聞けそうで。。
+ +
∧_∧ +
(0゜・∀・) ワクワクテカテカ
+. (0゜∪ ∪ +
と__)__)
ヒロさんの筆に力があるもん。
http://homepage1.nifty.com/boddo/
『19世紀末から20世紀初頭、仏教復興運動がインド・スリランカ・日本を結びつけた。』
『神智学協会』のブラヴァッキー夫人とオルコット大佐は仏教の在家信者であった。
オルコット大佐が、キリスト教の宣教システムをもとにスリランカ仏教を再編成した。
佐々井秀嶺氏は、1年前くらいにフジテレビのドキュメンタリー番組「NONFIX」に
でてましたね。
非常に能動的で、人間味のある人物です。
でも日本で彼のことを知っている人は、ほとんどいないでしょう。
私がルルドに行った時はインド巡礼団が来ており、ミサもインドの信者さんが民族衣装をまとってミサの奉仕につとめてらっしゃいました。なんでもインドにはミッションスクールが多々あり、インドの上流階級は子女をこれらの学校に入れたがる。入学した子がその後考えるところあって改宗するというパターンの賜物らしいです。マザーテレサの話でも彼女がロレット修道女会の学校で教鞭を取っていた時代の教え子がマザーの修道女会に多数入会しましたよね。
男子ではイエズス会のインドでの活躍が有名ですが上流階級の男子と不可触民男子を平等に教育することでも知られています。http://www.bomjesu.org/index.htm
3月28、29日↓をご参考までに
http://nippon.zaidan.info/kinenkan/moyo/0001340/moyo_item.html
こちら↓も。ですがイエズス会には修道女会はありませんのでご注意ください。
http://www.nippon-foundation.or.jp/inter/topics_dtl/2004708/20047081.html
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0820.html
『諫暁八幡抄』日蓮 弘安三年(一二八〇)一二月
http://nakanihon.net/nb/gosyo/kanngyouhatimannsyou.htm
『天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法の東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり。』
(現代語訳)インドを月氏国といい、仏の出現したまうという名である。扶桑国を日本国と呼ぶからには、どうして(太陽のような)聖人が出現されないはずがあろうか。月は西から東へ向かうが、これは月氏インドの仏法が東方へ流布するという相である。太陽は東から出るものであるが、これは日本の仏法が月氏インドへ還るという瑞相である。
菩提達磨禅士からのメッセージ
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/nagaland/bodhidharma.htm
「グリーン・ファーザー―インドの砂漠を緑にかえた日本人・杉山龍丸の軌跡」杉山満丸
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4893172484
http://www.chitac.com/mori/mori.htm
『龍丸氏の言葉によると、「日本では、昔から森を大切にしてきた。その象徴が、全国の神社の森、つまり鎮守の森だよ。日本の水がきれいなのは、山や野に、木があるからだ」』
『ふたつの悲しみ』杉山龍丸
http://www.youchan.com/japanese/diary/log/futatsu.html
千夜千冊『ドグラ・マグラ』夢野久作
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0400.html
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/rekisi/nittatu.html
『昭和5年(1930)お母さんの死をきっかけにして、仏法は必ずインドに帰ると信じインドに渡ります。(中略)中国、インド、アメリカ、ヨーロッパと、世界各地にたくさんの仏舎利塔を建立し、世界平和を祈願しています。』
http://homepage2.nifty.com/munesuke/india-sasai-aera-gendainoshozo-2005.htm
『佐々井の人生最大の転機はここでで訪れた。インドへ入った佐々井は、ガンジーの非暴力不服従運動に共鳴した日本山妙法寺開祖の藤井日達を頼り、聖地ラージギルで1年間仏塔建設に汗を流した。』