◆ルカによる福音書 2:8−13(新共同訳)
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられた大きな喜びを告げる。今日のダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
イエス・キリストが1年のどの季節に生まれたのかは、断定できる資料がない。冬に羊飼いが「野宿」をして「夜通し群れの番」をするのは無理ではないか、という意見がある。イエス生誕が12月25日に決定されたのは、西暦336年のことだ。
常識の嘘:キリスト教
12月25日にイェスが産まれたわけではない。クリスマスはペルシャのミトラス教徒が冬至を祝う祭りの名残りである。
ペルシャ人達は冬至を太陽の死と再生の儀式として 何世紀も前から祝っていた。ローマ暦では12月25日はナタリス・ソリス・インビクティ(打ち勝ちがたき太陽の誕生日)にあたり、太陽神ミトラスが崇拝されていた。キリスト教がミトラス教徒を吸収する際、この日をイェスの誕生日と読み替える事でミトラス教徒を納得させたのである。紀元336年の事である。
イェス誕生を12月25日とするのは 西方教会だけで、東方教会、アルメニア教会はいまでも誕生日を公現祭の1月6日としている。
なお、聖書のキリスト誕生の部分に「その地方で羊飼い達が野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカ伝2.8)とあるが、これは12月24日説、1月6日説のいずれとも矛盾してしまう。冬の寒い時期に羊を放し飼いにしたりはしない。
古代ローマでは「ミトラス」または「無敵の太陽ミトラ」と呼ばれる太陽神が大人気であった。3世紀のゴルディアヌス帝(Gordianus 在位238-244)の時代になっても、「皇帝のコイン」の裏側には「剣で牛を殺すミトラ」が描かれていた。(図版:左「皇帝の顔」、右「牛を殺すミトラ」)さて、年が明けて1月になると、わが子の学校ではイエスのもとに訪れた「3人の王様(Three kings)」の話が定番になる。1月6日の「公現祭(Epiphany)」にちなんでのことだ。1月6日は、東方教会では、イエスに洗礼を施した「洗礼のヨハネ」の日ということになっているが、それ以外の教会では「東方3博士(賢者)の訪問」の日として解釈している。
ウィキペディア:「公現祭」
公現祭(ギリシア語:エピファネイア(επιφανεια 現れ、奇跡的現象の意))は、人としてこの世に現れたイエス・キリストが神性を人々の前で表したことを記念するキリスト教の祭日。教派によって何を記念しているかについて違いがあるが、カトリック教会や聖公会、プロテスタント諸派では幼子イエスへの東方の三博士の訪問と礼拝を、東方正教会ではヨルダン川でのイエスの洗礼を記念している。
3人の賢者の話は、新約聖書の『マタイ福音書』にある。
◆マタイによる福音書 2:1−2(新共同訳)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
日本語の新共同訳では「占星術の学者」になっているが、英語では「magi」となっている。
モナ丼:『マギ 星の証言』(エイドリアン・ギルバート著、田中真知訳、凱風社)
クリスト誕生を星の導きで知ったマギがお祝いの供物を持ってやって来た話は、マタイ伝に書かれている。それは1月6日とされており、現在でも毎年クリスマスから続く聖12日の最後の祭典の日、エピファニー(公現祭)としてクリスト教徒に祝われている。マギについてはアポクリファー(外典)に書かれており、三人の名前も見出されている。カスペール、メルキオール、バルタザールである(このうちカスペールは、英語読みされ「オバケのキャスパー」として映画のキャラクターに使われた)。マギとは、ペルシャの博士のこととされている。マジシャン(魔法使い)の語源で、医学・化学・占星術など達人のことだ。じゃぁ、何故、異教徒がユダヤの救世主の誕生を祝うのか?
エイドリアン・ギルバードは、イエスが生まれたのはユダヤ人の家系ではなく、ミトラ教を受け継ぐマギの家系ではないか、と推理している。推理の流れは以下のようなものだ。
- マギが来たペルシャとは、ゾロアスター教国のペルシャではなく、ローマ帝国とペルシャ帝国の両勢力の緩衝地帯に生き延びた旧パルチア(コンマゲネ王国、メソポタミア北部)のことである。
- マギとはミトラ教かそれに近い古代宗教(サービア教)の僧侶である。
- ユダ族の祖先であるアブラハムの故郷がコンマゲネのエデッサであり、イエスはマギと同族だった。
- 『ヨハネ黙示録』はキリストを「ユダ族から生まれた獅子」と書く。7〜8月の生まれならば獅子座であり、12月25日なら山羊座である。
- マタイ福音書に書かれたマギを導いた星とは、木星と土星の合であり、紀元前7年7月29日に魚座で起こった。
モナ丼:「032 ミトラ教の歴史(1/2)」
最初、ゼノンが住んでいた都市タルソス(小アジア)では、ミトラはペルセウス(ペルシャから来た者)と呼ばれた。ペルセウスには、蛇の髪の毛を持つ恐ろしいメデューサ(ゴルゴン)退治の話がある。<中略>
ペルセウスが太陽神(ヘリオス)と意訳されローマ帝国内に広がった。やがて「無敵の太陽ミトラ」あるいは端にミトラスと呼ばれるようになり、ローマ軍の守り神となっていったのである。ミトラは正義と秩序の神だからだ。
2世紀の五賢帝最後、マルクス・アウレリウス帝はストア派の賢人であることも知られているがミトラ教と無関係ではなかったであろう。「クリスト教に何かの躓きがあれば、世界はミトラ教のものとなったであろう」とまで言われたミトラ教の発展は、クリスト教がユスティニアス帝と結びつくことによって、突然終止符が打たれた。311年のクリスト教寛容令(この時、十字旗が決まった)、更に313年のミラノ勅令によってクリスト教がローマで公認になる。
この後、392年にキリスト教がローマの国教となり、他宗教への弾圧が始まることで、ミトラ教の大きな流れは途絶えることになる。しかしこれは西方の流れだ。東方に流れたミトラ教はどうなったのだろうか。
モナ丼:「033 ミトラ教の歴史(2/2)」
シャカムニブッダとミトラ神が習合したと考えられる例として、まずガンダーラ初期のレリーフにおいてブッダを太陽(日輪)で象徴表現したことが上げられる。この表現はインドにはなく、ペルシャ起源であろうと考えられている。更に、仏像が成立した後も、ガンダーラ仏は例外なく、頭の後ろに円盤系の光背をつけている。ブッダ=光輝く者というように、ミトラ神と同じ性格が投影されているのだ。加えて「帝釈窟説法」というテーマにおけるブッダの禅定の構図は、牛を屠るミトラスの浮彫と関連があることが知られている。
ミトラは古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』にも登場する。『リグ・ヴェーダ』に記述されるアーディティヤの神群は、ミトラの神群と一致している。(ソース:「ミトラ教の歴史1(新版)」の対照表)
モナ丼:「006 ミトラ教の歴史(漫談版)」
ペルシャ時代にあった太陽の祭りがミフラジャーン。下にあるようにミフラはミスラやミトラと同じです。パルティア時代にはミトラカーナという王権主宰の祭りもできています。名前で行くと弥勒がコータン語のミフラクの音訳で、佛教のマイトレーヤより先にできています。ソグド語のミロから中国語の蜜ができています。
仏教の「弥勒(みろく)」はミトラが語源となっている。
◆ソース同上
弘法大師が七曜すなわち「六曜蜜」を日本に伝えたのですが、月火水木金土の6曜度に最後の蜜、蜜曜ということですが、それは唐でソグド語の太陽(日)の「ミル」を音訳して「密」又は「蜜」としたわけです。当時の佛教では、太陽は大日如来という根本佛と同じですから、密は「日」だということで、大日如来の教えを「密教」としたわけです。秘密の密、顕教に対する密教、ではなかったんです。蜜曜は日曜に。ところが、ここで分りますように、ソグドでは太陽はミトラだった。同じことは、sunday にも言えます。七曜は西洋も使いますが、これもミトラ教の守護神から来ています。
「密教」は「秘密」の教えではなく、「太陽」の教えということになる。さらに7曜日の起源も、ミトラ教の7守護神に由来している。
- 日曜(太陽)・・・・ミトラ
- 月曜(月)・・・・女神マーフ
- 火曜(火星)・・・・アーリマン/アズ
- 水曜(水星)・・・・ティール
- 木曜(木星)・・・・オフルミズド
- 金曜(金星)・・・・女神アナーヒター
- 土曜(土星)・・・・ズルワーン/スワーシャ
■お奨め1:オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』もミトラ教
モナ丼:「真実の口」(コスメディアン教会)
■お奨め2:卍(まんじ)とは「回転する太陽神」/ハーケンクロイツ=日の丸
Matsuda's Journal:「キリスト教と仏教をつなぐミッシングリンク」(2005/3/28)
クリスマス起源論
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/cat4943565/index.html
ミトラ教天使七星教会
http://home2.highway.ne.jp/miiboat/magimenu.htm
慶州博物館
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.3.html
広隆寺見聞録
http://www.renya.com/travel/koryuji.htm
秦氏について
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/hata
摩多羅神はどこから来たのか? 〜ダビデの子孫〜
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/Frame_N_J.html
『異神』山本ひろ子
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1087.html
新羅、花郎と弥勒信仰
http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/siso/kankoku/kankoku4.html
新羅の金冠
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2005/11/post_6597.html
ちなみに中国では弥勒菩薩は(七福神の)布袋さんです。
http://www.rinnou.net/cont_03/02manpuku/
マルタン・フェルマースレン『ミトラス教』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0445.html
『なぜ誰も闘牛のルーツがミトラ神の牡牛殺しだと言わないだろうか。』
『日本霊異記』五話「摂津の東成郡、撫凹村に一人の富める家長がいた。姓名は明らかでない。聖武天皇の世、この家長は漢神の祟りによって、これを拝み、七年を限りとして、年毎に一頭の牛を殺して祀り、合わせて七頭の牛を殺して、祭りを終えた。……」
『日本霊異記』の成立時期に、桓武天皇が「殺牛祭神」の禁止令を出している。
延暦年間(782〜806)には疫病や天変地異を漢神の祟りとして牛を殺して祀ることが屡々行われたらしい。延暦十年(791)九月に、伊勢、尾張、近江、美濃、若狭、越前、紀伊などにおいて百姓が殺牛祭神(『続日本紀』)。延暦二十年(801)四月に越前国の殺牛祭神を禁止する(『類従国史』卷き十、神祇十、雑祭)。
えのさん、古代日本に「牛を殺すミトラ」軍団が来ていたのは確実だとしても、日本の神殿・古墳の配置で「シリウス」が果たして重視されていたのかどうか。さらには「シリウス暦」まで果たして使われていたのかどうか。
極東ブログ:「シリウスとシリウス暦のこと」(2006/1/3)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/01/post_4ad4.html
「太陽暦を使い、しかもシリウスで暦を計測するなら、神殿の役割はまさにシリウスを観測のために存在する以外ありえない、なんて誰でもわかりそうな話ではないか。ただ、その延長にある陰謀論じゃない日本古代史の議論は多少奇怪なものになるのだろう。つまり、応仁天皇陵もペルセポリスのゾロアスター(ミトラ)教の神殿と同じく、シリウス観測の神殿的な役割を持っていた、と。」
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/note/note2005.html#20050802
『まとめると、九州王朝では522年以前に百済から暦博士が来ており、元嘉暦によって522年に元号が制定された。大和王朝では推古の602年から暦法を学び、やがて暦を使用した。文武の697年までに倭(含む九州)の暦が儀鳳暦に切り換えられた。暦博士の受け入れで大和は九州にほぼ百年遅れる。』
元嘉暦
http://astronomana.com/8CB389C397EF/
「景教(東方基督教)と日本」久保有政
http://www.sagamiono-ch.or.jp/intercessors/2000/2000.09/2000.09.report.htm
『京都大学の池田栄教授によると、じつは聖徳太子の側近には、景教徒がいました。聖徳太子の時代には、すでに非公式に少なからず景教徒たちが日本に入っていたのです。』
「秦氏」
http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/hataiseki.html
『広隆寺本堂
秦氏の人々が多く住んだ京都・太秦(ウズマサ)の広隆寺本堂には阿弥陀観音如来像や弥勒菩薩像をはじめ多くの国宝が保管されている。広隆寺はももともは景教(中国にわたったキリスト教)の寺であったという説がある。』
景教徒はユリウス暦を知っていて当然です。
『江上波夫氏と三笠宮崇仁殿下』百瀬直也
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-egami.html
『隠された十字架の国・日本』ケン・ジョセフ シニア&ジュニア
http://www20.tok2.com/home/takapan/hon/h_crossJapan.html
http://www010.upp.so-net.ne.jp/iraija21/dokushohome/juujika.html
>古代日本に「牛を殺すミトラ」軍団が来ていたのは確実
http://www.nbafa.or.jp/cattle/history01.html
『記録によれば、日本に牛が入ってきたのは紀元前9〜紀元300年の間であり、この時期には稲作文明を持った民族が度々朝鮮半島から中国地方の日本海側を中心に牛を連れて渡来したとされている。』
縄文時代につながる諏訪の神様
http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/moriya.html
諏訪大社御頭祭
http://www.yatu-genjin.net/kamisya/sinji/ontou.htm
『古くは大祝の代理である「神使(おこう)」が近遠在の郷を廻る出立の儀式で、後に「神使」が生け贄(にえ)にされたことや神饌の一つである鹿の生首が75頭も用意されたことは、研究者による本だけの世界になりました。』
誰のために生贄は殺されるのか
http://www.nagaitosiya.com/b/victim.html
>誰のために生贄は殺されるのか
>http://www.nagaitosiya.com/b/victim.html
第1子を殺して神に捧げる習慣というのは、現代的感覚ではトンデモですが、「初穂」「最初の収穫」を感謝して神様にお返しするという意味では納得できます。
古代日本では「鹿」や「熊」や「イノシシ」がお供えされ、稲作が始まって以降は「米」「酒」、牛軍団が渡来して以降は「牛」も仲間入りということでしょうか。
牛軍団=ミトラ教=秦氏=ネストリウス・・・ という推測は成り立つわけですが、古代ヨーロッパ&中東の神殿では「女神+牛」というモチーフがかなり普遍的に見られます。
http://www.patregan.freeuk.com/horned_one.htm
このリンクの一番下にある図は、Avebury(イギリス BC3700)の「Square Enclosure Oxhead」といわれるものですが、この図をひっくり返すと「しゃがんで、足を開いて、腕を挙げる、豊穣の女神」にもなります。
http://www.marlamallett.com/ch.htm
「足を開く豊穣の女神」はアナトリアのCatal Huyuk神殿(BC6000)にも見られますが、やはり牛の頭とセットになっています。
「剣で牛を殺すミトラ」が伝播する前から、「牛の生贄と女神」をセットにする伝統は普遍的にあったようです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/bull.html
『雄牛はペルシアの月女神アナヒタに捧げられた。ギリシア人はアナヒタを アルテミス・タウロポロス(「雄牛殺戮者」)と呼んだ。雄牛を殺す救世主ミトラMithraは、この アルテミスを後代になって男性化したものである [註5]。父権制社会のたいていのシンボルもそうであったが、ミトラ教のシンボルもアジアの女神にまつわる神話から取ってきたものであった。』
英タイムス紙によれば、「牛を殺すミトラ」とはホリエモンのことだった。
http://blog.goo.ne.jp/kitaryunosuke/e/6050a69ad3a9c96779fe79ef309e084c
『The ambitious, sacred-cow-slaying 33-year old represents a new generation of Japanese business leaders. Some establishment figures detest him, but younger Japanese are inspired by his maverick image and have bought Livedoor stock on the back of that.
野心的な聖なる牛殺しの33歳は、日本のビジネス・リーダーの新世代を象徴している。実力者の中には彼を毛嫌いする者もいるが、日本の若者達は彼の一匹狼的イメージに触発され、更にはそれに基づいてライブドア株を買っているのだ。
(訳者注:神聖視されて批判や攻撃がタブーとされる人、組織、考え)』
ホリエモンは、神聖な牝牛(sacred cow)を殺す現代版のミトラ。彼のおかげで突進する雄牛(bull market)も惨殺されたので、2006年のミトラ賞はホリエモンに決定!
王位、王権(Kingship)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/kingship.html
『王の若さと露が失われると、王の民からも若さと露がなくなったのであり、不能の王を王位に就けておくのは危険であると考えられていた。出生率が低下したり、ある季節に作物の生育が思わしくないと、王を殺害することができたのである。『箴言』の第14章でも、「王の栄えは民の多きことにあり、君の滅びは民を失うことにある」と述べられている。』
落雷の塔(La Maison Dieu)
http://www7.ocn.ne.jp/~elfindog/vt16.htm
http://www.afpbb.com/article/486200
『主催者によると、エルパソでの闘牛開催は初めてで、当地に住むメキシコ、ペルー、コロンビアなど、スペイン式の闘牛の長い伝統を誇る地域出身のヒスパニック系移民を楽しませる目的という。』
http://www.japanology.cn/paper/wy/05.htm
『日本の歴史を調べてみると、七世紀から一七世紀までの約一〇〇〇年間、中国の『元嘉暦』『儀鳳暦』『大衍暦』『五紀暦』『宣明暦』などを襲用していたことは明らかである。』
『考古資料と文献記録とによれば、中国はもっとも早く「暦」を発明し、それを実際に使用した国のひとつである。』
陰陽寮と陰陽師
http://www.geocities.jp/kikiyouin/sub1-onmyou-ryou.html
『陰陽寮は最新・最高水準の呪術と天文学のセンターだったと言えます。』
陰陽寮
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_ryou_onyo.html
家持と暦 具注暦と七曜御暦
http://www2s.biglobe.ne.jp/~machino/yakamochi/koyomi/guchu.htm
『陰陽寮には暦博士一人、暦生十人が居り、彼らが暦を作った。ここで作られた暦も優秀なものだったのである。』
http://contest.thinkquest.jp/tqj1999/20106/onmyou/doujutsu.htm
そうですね。
ローマ帝国がミトラ、ヘリオス、エラガバルスなど帝国内各地の太陽神を習合し Sol Invictus という名前にし国教とする→コンスタンチヌス帝が帝国内のキリスト教兵士の連帯感に着目しキリスト教を認可→テオドシウス帝が国教をキリスト教に変える→ただ、やることをそうころころ変えても民衆がついてきそうにないので実践上 Sol Invictus と習合せざるを得なかった(クリスマスを祝う、日曜日に東面して礼拝するなど)、
という経緯だったようにうろ覚えしています。間違いがあったらごめんなさい。
ちなみに確かカルバン派の一部のはクリスマスを異教の行事として祝わないはずです。
http://www.mamutan.com/message/letter/2001_12_18.html
要するに、古代エジプトでは一年中で最も重要な日は、ホルスの象徴的誕生日であった。この日は、シリウスのヘリアカルライジング(夜明けの直前、太陽に先立つ数分間、シリウスが東の空に昇ること)の日で、又この日太陽は獅子座の巨星レグルスと"合"に入る。そしてこの日は新年の始まりとされていた。前回に書いたコンマゲネ王国のアンティオコス王とその父親の公式な誕生日として採用されたのです。そして、紀元前7年7月29日に、木星と土星という二つの惑星が重なりあって、大変めずらしい明るいひとつの星となることがわかって、当時のコンマゲネ王国周辺ではちょっとしたというか、大変な一大事が起きるのでは?という騒ぎになったらしいのです。
そして、これも前回書きましたが、コンマゲネの王は自分たちが空の大きな獅子の支配下にあり、特に木星の庇護の下にあると見なしてきたのです。この木星をペルシャの至高神オフルマズドの化身とみていて、(当時、コンマゲネ王国はゾロアスター教と深い関係があった)この木星と土星が重なるのを見て、(以前、ペルシャの預言者ゾロアスターが跡を継ぐ息子が現れると言った預言を信じていたので)当時の占星術師たちの間で新しい救世主の誕生と思い、コンマゲネ王国やその他の周辺の国、エデッサやアルメニアから三人の博士(マギ)が派遣されたのでは?と云う説なのです。
ミトラ教の歴史 衒学博士 司馬子ケノ 2003.02.14
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/prez030214.pdf