2000年・・・・12月21日(オリンピック年)
2001年・・・・12月22日
2002年・・・・12月22日
2003年・・・・12月22日
2004年・・・・12月21日(オリンピック年)
こんな感じになっている。要するに、オリンピックの年は21日、それ以外は22日、と覚えておけばよい。しかし、あと20年後も現役でがんばるつもりの方は、このパターンが変化するので要注意だ。
2028年・・・・12月21日(オリンピック年)
2029年・・・・12月21日
2030年・・・・12月22日
2031年・・・・12月22日
この後に及んで、まだまだ元気ハツラツという方は、2058年〜2062年ごろに、再びパターンが変化するそうなので、その頃にインターネットで再チェックすることをお奨めしたい。(参考ソース)
超古代から現代にいたるまで、北半球の文明圏では「1年で最も特別な日」が冬至であり、「闇から光」に転じ、「死から再生」に至る特異日である。この「聖なる日」が刻々と近づいている今、私はこの世の奇しき巡りあわせで、今上天皇の誕生日と、イエス・キリストの降誕日が、この聖なる瞬間を包み込むように前後していることに「天のはからい」のようなものを感じる。
この時期はスメラミコトの系譜と、イエスを源流とするキリスト教、そして超古代から脈々と流れる神話の意味について、じっくりと考えることのできる、もっともふさわしい時期なのかもしれない。私は『古事記』と『聖書』をもう1度読み直してみたいと思う。
さて、天皇家の「万世一系の男系」の系譜から思い起こすことは、イエス・キリストを生み出すに至った「男系」の系譜である。
◆マタイによる福音書(新共同訳)
イエス・キリストの系図
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、・・・・<後略>
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、・・・・<後略>
新約聖書の1番バッター「マタイ福音書」は、冒頭から家系図の説明で始まる。アブラハムからイエス・キリストにいたる男系の血統が、延々と説明されているのである。
アブラハム→イサク→ヤコブ→ユダ→ペレツ→ヘツロン→アラム→アミナダブ→ナフション→サルモン→ボアズ→オベド→エッサイ→ダビデ王→ソロモン→レハブアム→アビヤ→アサ→ヨシャファト→ヨラム→ウジヤ→ヨタム→アハズ→ヒゼキヤ→マナセ→アモス→ヨシヤ→エコンヤ→シャルティエル→ゼルバベル→アビウド→エリアキム→アゾル→サドク→アキム→エリウド→エレアザル→マタン→ヤコブ→ヨセフ(=マリアの夫)
アブラハムからダビデ王までが14代、ダビデ王からバビロン移住のエコンヤまでが14代、バビロン移住からマリアの夫ヨセフに至るまでが14代。合計42代の壮大な「男系」家系図だが、スメラミコトの125代と比べると、3分の1である。
一方、新約聖書の3番バッター「ルカ福音書」はイエスが洗礼を受ける場面で、系図を持ち出している。
神→アダム→セト→エノシュ→ケナン→マハラルエル→イエレド→エノク→メトシェラ→レメク→ノア→セム→アルパクシャド→カイナム→シェラ→エベル→ペレグ→レウ→セルグ→ナホル→テラ→アブラハム→イサク→ヤコブ→ユダ→ペレツ→ヘツロン→アルニ→アドミン→アミナダブ→ナフション→サラ→ボアズ→オベド→エッサイ→ダビデ王→ナタン→マタタ→メンナ→メレア→エリアキム→ヨナム→ヨセフ→ユダ→シメオン→レビ→マタト→ヨリム→エリエゼル→ヨシュア→エル→エルマダム→コサム→アディ→メルキ→ネリ→シャルティエル→ゼルバベブ→レサ→ヨハナン→ヨダ→ヨセク→セメイン→マタティア→マハト→ナガイ→エスリ→ナウム→アモス→マタティア→ヨセフ→ヤナイ→メルキ→レビ→マタト→エリ→ヨセフ(=マリアの夫) (赤字は「マタイ福音書」と異なる部分)
アダムからテラまでが21代。アブラハムからダビデ王までが15代。ここからは「マタイ」とは全く異なる男系となり、ナタンからヨセフまでが41代。最初の人間アダムから、合計77代で、スメラミコトの125代の3分の2弱だ。
いずれも「やあやあ、我こそは清和源氏の血を引く・・・」と血統の説明に余念がないわけだが、そもそも「神の子イエス」はマリアの処女懐妊なわけで、ヨセフがいかに高貴な「男系」であることを説明しても意味がないような気もする。
しかしながら、このような家系による「権威づけ」は、当時のユダヤ教の伝統にしたがったものだ。「マタイ福音書」は王族の子孫としてのヨセフを強調し、「ルカ福音書」は敬虔な信仰者としてのヨセフを強調している。(で、正しいのは、どっちだ?)
「マタイ福音書」と「ルカの福音書」は、イエスの説教訓話があちこちに散りばめられていることでも共通する。この2つの福音書は「マルコ福音書」をコピペして、さらに「Q資料」と呼ばれる未発見のソースを追加してできたものである。「マルコ」が最古のテキストであるにもかかわらず、権威ある「マタイ」が先頭バッターになっているのも、初期のキリスト教会が「権威」を重視したためだ。
ということで、イエスの伝記という意味では、「マルコ」がもっともシンプルで古いテキストなので、今まで1度も聖書を読んだことがないという方は、2番バッターの「マルコ」を読むことをお奨めします。
「姦淫するな」
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/MAT_11.htm
『イスラエル社会を構成する基盤である父系制家族において、妻が夫以外の男性の子を産むことは、夫の家系の存続を危うくし、イスラエル社会の基盤を傷つける行為でした。そのような行為は、たんに夫の権利を侵害したというだけでなく、イスラエルの民と契約された主ヤハウェに対する大罪として、(夫の告訴を待たず直ちに)イスラエルから取り除かれなければならないのです(申命記二二・二二)。』
「欲情をもって女を見るものは誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである」
>http://ha3.seikyou.ne.jp/home/tenryo/MAT_11.htm
『新共同訳で「他人の妻」と訳されている《ギュネー》というギリシャ語は、女性一般を指す場合と「妻」を意味する場合とがあります。今まで多くの翻訳では、この語を女性一般を意味するものと理解して、「女」と訳してきました(協会訳も)。しかし、新共同訳が「他人の妻」と訳したことは、この語録の理解に重大な影響があります。新共同訳はこの語を「妻」の意味に理解したわけです。「他人の」という句はついていませんが、自分の妻については問題にならないのですから、当然「他人の」妻になるわけです。一語で表現すると、「人妻」と訳すと分かりやすいかもしれません。』
以前、アメリカのカーター大統領が「私も心の中で姦淫したことがあります」と正直に発言して、物議をかもしたことがある。聖書協会はどんどん現代風のわかりやすい訳(注釈をいっさいつけない訳)に変更しようとしている。英訳の新RSVというバージョンでは、パウロが「兄弟たち」(ローマの信徒への手紙:1-14)と呼びかける部分を、「brothers and sisters」に改変している。
これに加えて差別用語の修正問題がある。日本聖書協会は1984年に「口語聖書における不快語の読み替え一覧について」という文書を全国で配布。
http://kan-chan.stbbs.net/word/pc/sanbika.txt
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/cat4943761/index.html
『それというのも、西欧人のファースト・ネームは、みんな宗教的に「聖なる名前」であるのが原則だからです。
皆さんご承知の通り、ファースト・ネームは「洗礼名=クリスチャン・ネーム」ともいい、教会で洗礼によって授けられます。この洗礼名は、何でもいいというわけでなく、ちゃんと出所が決まっている。それが「聖者カレンダー」です。』
『こんな「個人名+父の名」という命名法は、意外にもというか、世界的にかなり一般的なものです。これがいわゆる「父系制」文化です。これのポピュラーな例が『聖書』。『聖書』の登場人物たちにも、やっぱり「名字」はないでしょう?
「アブラハムの子イサクの子ヤコブ」
なんてふうに、「祖父・父・本人」の名を並べたりする。』