この本の続編とも言える『夜明け前の朝日』(鹿砦社2001/5)も入手してみた。ザッーと読んでみたが、1993年に朝日新聞東京本社で拳銃自殺を遂げた野村秋介(のむら・しゅうすけ)についても取り上げている。この自殺事件の表向きの解釈は、以下のようなものだろう。
我が同志・野村秋介の自決を語ろう(伊藤好雄 談)
経団連を共に襲撃した同志野村秋介さんが亡くなって八年になりますが、野村さんの朝日新聞社での自決は、未だに誤解されている面が多々あります。三島先生のときもそうでしたが、健康問題が囁かれたりもしました。肝臓癌を病んでいて、もう長くなかったから、死に場所をさがしていた、とか、とんでもないデマが飛んだりしました。
一番許しがたいデマは、「あれは自決ではなく、単なる面当て自殺である」というものでした。
自決の前年の平成四年、野村さんは「風の会」を結成し、参院選の比例区に立候補した。その際、『週刊朝日』のブラック・アングルで、「風の会」を「虱の会」とからかわれ、そこから朝日への抗議が始まり、自決に至ったので、誤解が生じたんだと思います。
ブラック・アングルの一件は、野村さんにすれば、朝日がようやく引っかかってくれたという感じだったのではないかと思います。野村さんは、マスコミ、特に朝日新聞社には、それ以前からずっとこだわっていましたから。
経団連事件の計画段階でも、「日本の戦後体制を問い直す」という主張を一番アピールできるターゲットはどこか、議論していたときに、野村さんは、朝日新聞社にひどくこだわっていたんです。経団連にすべきか、朝日にすべきか、迷っていたというか、とにかく朝日新聞社にはかなり固執していた。
もともと、朝日新聞には天誅を下すべく、狙いをつけていた。参議院選で「虱(しらみ)の党」とコケにされたことを口実に、自殺の抗議を行った、という話である。
しかしながら、朝日と野村秋介の関係については、「河野一郎」を間に挟まないと全体像が見えてこない。野村秋介の履歴を振り返ってみよう。(参考ソース)
1935年生まれ、横浜出身。
少年時代、伝説の愚連隊モロッコの辰の舎弟として若手顔役となる。
1961年、「憂国道志会」を結成して右翼運動家として独立。
1963年、河野一郎邸焼き打ち事件で懲役12年。
1977年、経団連襲撃事件で懲役6年。
1992年、「風の会」が参議院選で候補擁立。
1961年に河野一郎(河野洋平の父親)の邸宅を放火して、12年の刑務所入りを喰らい、出所後も経団連の襲撃でさらに服役6年という「行動右翼」だ。「ヤルタ・ポツダム体制打倒」と「日米安保条約破棄」を掲げる民族主義者である。
河野一郎は、1960年の日米安保条約締結当時、岸信介の「次の次」を約束された首相候補だったが、政界のフィクサー児玉誉士夫に寝首をかかれ、佐藤栄作に首相の座を奪われている。歴史は繰り返すもので、息子の河野洋平も、自民党総裁で唯一首相になれないという、悲運のファミリーなのだ。
しかし河野一郎は、児玉に寝首を掻かれて、おいそれと引き下がるような玉ではない。児玉に復讐するべく、山口組と全面的にタイアップし、各地で「暴力団抗争」を引き起こした黒幕だと言われている。マスコミではテレ朝の三浦甲子二(みうら・きねじ)を盟友としており、「河野=朝日=山口組」は同盟関係にある、という見方もできる。
以上の背景をを踏まえた上で、『夜明け前の朝日』を読んでみよう。
◆藤原肇『夜明け前の朝日』(鹿砦社2001/5):第6章 野村秋介と新井将敬の自殺を結ぶ朝日新聞の苦渋 (p200〜201)
拳銃を突きつけられた社長は助命を嘆願したらしく、野村は「土下座したような者には俺は撃てない」と言って、懐にしまっていた書き物を取り出したという噂が、金融界を中心にものすごい早さで広まった。<中略>
当日は出版局関係のゴルフ大会があったので、作家や評論家とゴルフに行ったため、野村との交渉に出版や広報担当の役員も出席しなかったこと。担当重役の下の出版局長と広報室長が、社長と一緒に野村との交渉に臨んだがすぐに席を外し、全日空ホテルの集会に向かっている状況もあった。また野村は拳弾を3発も胸に撃ったと言われているが、お互いに自決し合うためでないとしたら、なぜ拳銃を2丁も持参したかが疑問だと、事件記者はこの点に非常にこだわっていた。
築地署の責任者を取材した記者の証言では、「連絡してくれれば私服の者を派遣できたし、万一の時には飛びかかって押さえられたのに、朝日からは事前に何の連絡もなかった」とのこと。しかも、朝日新聞の警備にも連絡しなかったのは、「警察や警備にも聞かれたくないので担当役員をはずした」と勘ぐる朝日の幹部がいたのは興味深いことだ。
- 『週刊朝日』への抗議なのに、出版局の役員は「ゴルフ会」で不在だった。
- 出版局長と広報室長も途中から席をはずした。
- 築地署にも、社内警備にも連絡が行われなかった。
- 拳銃は2丁用意されていた。
- 15階の役員応接室に押しかけたのは、野村秋介とその息子を含む5人
- 対応した当時の社長は、珊瑚事件で辞任した一柳東一郎(ひとつやなぎ・とういちろう)の後を継いだ、中江利忠(なかえ・としただ)
中江社長といえば、電通に入社した息子が「飛び降り自殺」で死亡しているが、一切の報道はもみ消されている。野村秋介と電通との関係でも、以下のようなおもしろい記述があったので、紹介したい。
◆ソース同上(p215〜216)
野村がメディアに顔を売るようになったのは、企画と演出をした人物がいたからであり、全共闘のスポークスマンだった経歴を持つ、故・丸山実が、極めて大きな影響力を及ぼしていたという。月刊誌『現代の眼』の編集長を経て独立し、『新雑誌X』を発行していた丸山は、主催していたマスコミ塾で人材を育て上げた上で、全共闘世代を精力的に売り込んだが、初期の頃のパトロンは電通だったのである。
だから、ソフトな政治工作として電通が組織した、田原総一郎を中心とする「青の会」との関係で、野村が最初に出たのはテレ朝の番組であり、使い易い司会者の田原のリードによって、野村はマスコミ界に足場を築いたのだった。しかも、当時のテレ朝には三浦甲子二が君臨しており、電通とテレ朝との関係が良好だったし、丸山が三浦と親しく交際していたので、野村と三浦は大いに意気投合していたという。<中略>
だから、評論家の佐高信が田原総一郎のことを指して、「二枚腰の男だ」と形容したことがあるが、腰と舌の間違えだと指摘したいほど、田原の生き方には裏と表が著しく、批判的なスタイルは営業用の衣装にすぎず、実は電通の座敷を取り仕切っていたのだ。
全共闘世代に詳しい社会部の記者の話では、死ぬ前の丸山実のパトロンは電通ではなく、会津小鉄組の高山登久太郎会長(当時。現在は引退)だったそうであり、丸山のタニマチが京都方面だったとしたら、丸山や野村は中島と似た足跡を残したことになる。
新井が1986年のダブル選挙で議員になり、顔を売るためにマスコミの利用を望んだ時に、野村の手引きでテレ朝の番組に出演して、代議士1年坊主の新井は田原の誘導で、威勢のいい発言でめきめきと売り出し、新井は大衆政治家として自信を深めたが、野村の民族主義路線の思想に感化されるし、同時に相互反応で野村も政界に魅力を感じて、参議院議員の立候補に踏み切るに至る。
野村は出演料付きの自己宣伝に酔いしれて、国会議員になろうと立候補した段階で、「風の会」を『週刊朝日』に「虱の会」と書かれている。そこで、このことを逆用してメディアに地歩を築くために、朝日新聞に執拗な抗議を繰り返すのだが、それはだいぶ後で選挙に落選してからのことだ。しかも、野村は膵臓ガンで余命が少ないと自覚しており、彼に従う大悲会が人材不足で後継者に悩み、新井の行動力とタレント性に期待していたと、新右翼の内情に詳しい人に私は教えてもらった。
- 全共闘世代のメディア売り込みの窓口は、丸山実。
- テレ朝への食い込みでは、電通のエージェント田原総一郎が窓口。
- 三浦甲子二は、朝日新聞政治部からテレ朝「法王」にのし上がった極道コネクションのやり手。
- 丸山実と野村秋介は、京都の会津小鉄組のコネクション。
- 野村秋介は余命少ない膵臓ガン(とのウワサが飛び交う)
- 野村秋介が目をかけていた政界の新人は、新井将敬代議士(1998年自殺)。
■私はこの記事を読んで『夜明け前の朝日』を買いました
『財界にっぽん』2001年7月号:日本は賎民資本主義≠ゥら脱却せよ─日本衰退の一因はジャーナリズムの堕落(藤原肇)
>風の会」を「虱の会」とからかわれ
×虱の会
○虱の党
よく間違われていますが、山藤章二の絵には「虱の党」とありました。
「風の会」の推薦人の1人にビートたけしがいます。
これは、「たけし」がFURAIDAY襲撃事件で右翼に目を付けられ、屋外セットを使用したTBS「風雲たけし城」の収録が右翼の街宣で妨害されたとき、「たけし」と右翼の仲を取り持ってハナシを付けたのが野村秋介だったからと言われていますね。
重要な点は、肝心の週刊朝日「ブラックアングル」の執筆者である山藤章二のところに行くのではなく、出版元に行ったことですね。
書かれているように、中江が何かを握られていたり、朝日がひた隠す「リクルート株」の問題もあるでしょう。
しかし、アフォ右翼の「斜め上」の行動原理によるところも大きいのではないかと思いますw
深沢七郎の小説「風流夢譚」に対して、右翼が襲撃したのが深沢ではなく、出版元の中央公論社の社長宅で、しかも殺したのが女中サンだったのと似ていると感じたもんですから。
×FURAIDAY
○FRYDAY
お恥ずかしい
なるほど、揶揄の表現は「虱(しらみ)の党」でしたか。本文に訂正と注釈を加えておきます。
ビートたけしも応援してたんですね。それから立候補していた横山やすしは、その後半殺しに遭っています。会津小鉄に絡む、山口内部の抗争と関係があるのでしょうか?
最近の山口組内部抗争では、「中野会」と「山口組5代目+会津小鉄」という構図になっています。で、中野会は敗北、解散。
を読んだときに、故野村秋介氏がモロッコの辰のかつての舎弟だったことを知りましたが、ここまで裏があるとは思いませんでした。いつものことながら、ヒロさん、さすがの取材力ですね。「河野=朝日=山口組」ですが、これは「親大陸系」ということでしょうか。河野一郎と朝日新聞なら、そのような位置づけも不可能ではないですが、山口組はどう位置づければよいのか気になりました。かつて山広組を中心に山口組と熾烈な抗争を繰り広げた一和会は在日系の方々が比較的多かったと聞いたことがあります。私はマル暴各団体と在日の関係が今ひとつわからないのでしょうね。
山口組はもともとは「港湾労組」が専門で、台湾・半島の在日率が高かったと聞いています。「労組」ですから左翼の巣窟でもあります。
その後、山口組は河野一郎の誘導で関東に進出し、日本全国制覇をめざす「広域暴力団」になりました。吸収・合併、内部抗争が激しいので利害関係の整理が大変です。新左翼・過激派のチャートと同様、暴力団チャートもつくっておかないといけないですね。
はじめまして。大と申します。
野村先生の記事、楽しく拝読させて頂きました。
ただ、以下の事項に関して異論を述べさせて下さい。
・野村秋介は余命少ない膵臓ガン。
・野村秋介が「後継者」として指名したのは新井将敬代議士(1998年自殺)。
まず、野村先生は膵臓ガンではありませんでした。
癌だったというデマを流し、それを自決に結び付ける輩も居るようですが
そういう事実はありません。
また、昭和58年8月19日、彼は経団連事件で放免された出所祝いの席で、
出迎えた人たちに「僕の命はあと10年」と宣言されています。
朝日での自決は丁度、その10年後です。
また、後継者は当時の大悲会々長のN氏です。
自決の時、野村先生が腹に捲かれていた日の丸の旗を拳銃を発射する直前
に「腹に捲いてある日の丸はNにやってくれ」と言い残しています。
以上です。
>まず、野村先生は膵臓ガンではありませんでした。
本文でも引用した同志の方(伊藤好雄)が主張する通りということですね。藤原肇は「ウワサ」を書いただけなのでしょう。
>後継者は当時の大悲会々長のN氏です。
新井将敬代議士が「後継者」というまとめ方は正しくありませんでした。「目をかけていた」に訂正します。藤原肇の文章でも、「野村=新井」の接近路線に右翼団体・極道から反発の声があったことが書かれています。
「反米嫌日戦線」さんのTB記事で、朝日役員応接室での「会話全文」のサイトを教えてもらいました。
http://syusuke3821.web.infoseek.co.jp/saigonotaidan.3.html
『週刊文春』平成6年(1994年)1月13日新春特別号に掲載されたものですが、これは「録音のテープ起こし」なのか、「記憶による回想」なのか、どちらでしょうか。これが完全な実録だとすると、野村秋介ファンが多いこともうなずける気がします。
>元祖山口組は在日の多い港湾労組。について
元々山口組は亡き山口登初代組長の手によって作られた組織で、神戸では大島、本多などの後塵を拝する第3,4勢力であったものが、戦後の混乱の中で神戸闇市を中心に勢力を伸ばします。
その時何故山口組が伸びたかというと、当時の山口組は日本人中心で、当時横行していた戦勝国を大義名文にしての三国人、駐留軍兵の横暴に力で対抗したからだといわれています。
三代目田岡組長になってから、国際ギャング団と恐れられた菅谷政雄氏を舎弟にし、それまで他の組の独壇場であった港湾荷役、さらに神戸芸能社を通じて興行に手を広げます。本多会との抗争の傍ら、大阪進出を図り、そこで在日の明友会、柳川組を切り取り、内部に多くの在日を抱える事になった経緯があるのでは?
>元々山口組は亡き山口登初代組長の手によって作られた組織
山口登は初代ではなく、2代目ではありませんか?
http://www.web-sanin.co.jp/gov/boutsui/mini33.htm
『五代目山口組の沿革についてみますと、初代山口組組長、山口春吉が大正4年、
約50人の沖仲仕を集めて、神戸市内で山口組の代紋をかかげたのが始まりといわれています。』