2005年05月03日

1人称とジェンダーのはざまで揺らぐもの

現在、シュタイナー系大学のキャンパスの隣りに住んでいるが、この大学は国際色が豊かで、学生数は300人程度なのに出身国はなんと45ヵ国。彼らに日本語の特徴を説明する機会が多いのだが「会話では人称主語がほとんど現れない」という話をすると、みんなビックリする。

「人類共通の霊性」「人間共通の発達プロセス」などを取り上げるシュタイナー思想の本拠地で、「日本人特殊論」を展開するのは非常にやりにくいのだが、日本に対する関心の高さに乗じて、ヒロさんも「日本語」を一生懸命説明している。おそらく45ヵ国のうち、日本と韓国を除くすべての国の学生たちは、英語でも母国語でも、毎日のように「私・私・私」を多用している。日記や箇条書きでは「私(I)」を省略することもあるだろうが、他者に発信する手紙やメールで「私」が存在しない現象を、彼らはどのように考えるだろうか。

日本人の電子メールにおける「人称」を研究している方のレポートを紹介しよう。
電子メールにおける人称について(市岡奈緒)
すべてのメールのうちで、なんらかの1人称を1度でも用いている例は43例(男性16例、女性27例)あった。全体の約65パーセントが、なんらかの1人称を用いている。男女別にみてみると、男性の場合、同一メール上においても、僕、私、俺と3種類もの1人称を用いる例(寺本02、ただし、この例は極端に長い文章なので注意が必要)をはじめ、同一メール内で複数の1人称を用いている例が9例もあった。これに対して、女性の場合では、3種以上の1人称を用いている例はなく、2種を用いている例も、5例にとどまった(小山07等)。

全体の標本数66件のうち、1人称を1度でも用いているメールは65%だそうだが、残りの35%には1人称が存在しないことになる。これは世界中を飛び交う通信文(商業的な通信文を除く、私的な通信文)の中で、特異な現象である。まして1つのメールの中に「3種類の1人称」が存在するのは、事情を知らない人たちにとっては怪奇現象だ。とりわけ男性の方に「複数の1人称」を使う傾向が強い。

つまり日本の男性は言語的にみて、この地球上で非常に珍しい生き物(聖人?珍獣?)である。いろいろな場面で外国語に触れる機会が増えている昨今、このような「複数の1人称」現象は、もっと注目されて然るべきではないかと考えている。

TRiCK FiSH Blogの管理人さまは、日常生活の中で「私」「僕」「俺」の3つを使い分けを解説しているが、使い分けの基準は以下のようになっている。
  • 「私」……仕事で、敬語のとき
  • 「僕」……仕事やプライベートで、敬語のとき
  • 「俺」……プライベートで、タメ口のとき

    「仕事(公)かプライベート(私)か」という状況と、それにともなう「敬語かタメ口か」ということで使い分けがなされている。つまり、「私」がフォーマルで「俺」はカジュアル。場の状況や相手との関係性によって1人称は使い分けられている。
     そのなかで「僕」というのは、中途半端でもあるが、応用の効く1人称だと言える。仕事で、初対面で敬語の相手には「私」を使うが、同世代などで徐々に仲良くなると「僕」になる。プライベートでも、年上で敬語が必要な友人には「僕」で話す。

  •  これは彼なりの基準だが、読者の基準はいかがだろうか? ヒロさんは「僕」に嫌悪感を覚える方なのだが、仕事で「僕」をバリバリ使っている人もいるし、敬語と一緒に使う人もいる。人によっては「俺+敬語」のパターンもある。男性の1人称変化は、なかなか多様である。

    これに対して、女性の1人称パターンは少ない。ウワサ話、無駄口、悪口も「ワタシ」で、仕事でも敬語でも「ワタシ」。くだけたときは「アタシ」になるときもあるが、これは「ワタシ」の変形とみてよいだろう。女性のパターンが少ない理由は、男性に比べて「身分差や階級差を意識する機会が少なかったから」と説明する人もいる。この解釈をさらに拡大すると、農村社会では、男女に関わりなく1人称のパターンが少ない、ということもできる。

    朝日・富山版:「憲法9条、富山弁なら実感こもる」(2005/5/3)
    男は「わし」や「おれ」、女は「あたし」「わたくし」と名乗るなど、日本語は男女で言葉遣いを異にする言語だと、ずっと言われてきた。しかし寿岳さんは各地の方言では「おれ」などの一人称は男女共通だったこと、そしてそれを乱暴だとか荒々しいと考えるのは標準語至上主義による偏見であることを、早くから指摘していた。

    北陸や東北では、男女共通の「おれ」が存在するのは本当である。以前、秋田を旅行したときにも、秋田美人のお姉ちゃんたちは、電車の中でみな「おれ」「おれ」と会話をしていた。日本語の標準語は「江戸」という都市社会のコトバであり、武士や商人の階級が強く反映されている、ということだろうか。(朝日は、ここからムリヤリ「憲法9条」につなげていくが、これはお家芸ということで)

    「新しい教科書をつくる会」が嫌いな人たちはたくさんいるであろうが、それよりももっと恐い「つくる会」がある。「新しい日本語をつくる会」:人称代名詞の統一より。
  • 一人称については、「私」と書いて「わたし」と読むことにする。それ以外は廃止とし、また「わたくし」と発音してはならない
  • 「自分」・「てめえ(=手前)」・「ぼく」は、一人称にも二人称にも使われて非常にまぎらわしい言葉である。従ってこれらは単語として廃止とし、適切な人称代名詞に置き換えなくてはならない。なお、「Self」を表すときは「自身」を用いる。

  • どうですか。恐いでしょう? でも実験としては面白くないだろうか? どんな言語にも歴史的背景があるわけだが、特に日本語の場合は「社会的な役割の中で他者との関係を確認する」表現が数多く残っている。しかし、社会の階級が崩れ、都市社会がある程度均質化し、役割も多様になり、サークル(サブカルチャー)集団が数多く出現している現状を鑑みたときに、1人称を含む人称表現も変化していくのではないだろうか。

    1人称や2人称が統一されてしまった場合、日本語の「男コトバ」「女コトバ」の全体像は、どうなってしまうのだろうか? 1人称小説(または私小説)を読むときに感じることだが、男女差が限りなく縮小してしまった英語の場合、主人公の性別を判断する手がかりはとても少ない。最近の日本語も、コトバの語尾(終助詞)で男女を判断する試みは難しくなっている。→インターネットメールにおける終助詞の性差について(福住祐加子)をご参照あれ。

    一方で「1人称」と「男女差」の相関関係を数値化した研究もある。はてなダイアリーの1人称で眺める「WEB日記の立ち位置」(2003/9/4)は、「はてなダイアリー」の100例を標本にした相関グラフを描いている。相関は−1.0〜+1.0の数値で表され、マイナスで数値が大きい場合には「女性」との相関が強く、プラスで数値が大きい場合には「男性」との相関が強い。結果は「俺=+0.32」、「僕=+0.19」、「わたし=-0.06」、「私=-0.12」、「あたし・わし=-0.19」となっている。男性に相関の強いのは「俺」であり、最近一部の女性も使い始めているため「僕」は数値が小さくなっている。「わたし」「私」「あたし・わし」は中性的だが、若干女性側に傾いている。

    最後に「私(ワタシ)」を一貫して使用していると主張する「ヒロさん日記」の矛盾について。よく考えてみると、このブログで使っている1人称はもう1つある。それは「ヒロさん」。「ヒロさんとしては...」「ヒロさんも驚いたが....」という書き方は、幼い感じ、かわいらしい感じを出すための演出のつもりであろうか? う〜ん、どうかな....。ほかのブログでは、執筆者(管理人)のハンドル名がパッとわかるようになっていないことが多かったので、名前の売り込みとしてブログ名にも「ヒロさん」を入れ、本文中にも何度も「ヒロさん」を繰り返しているように思う。自己顕示欲強すぎか?

    ■補足:私の友人にウガンダ人のJohnさんがいるが、彼の英語表現はおもしろい。「I do not like it.」と言うときに「John does not like it.」という表現を使うことがある。「ヒロさん、それ好きじゃないの」と同じパターンですね。

    ■追加:男女差別用語の撤廃を主張する人たち→日本語平等化計画
  • 主人、亭主、旦那 → 「夫」/他人の夫の場合は「ご伴侶」
  • 家内、女房、細君、嫁さん → 「妻」/他人の妻の場合は「ご伴侶」
  • <顧客への呼びかけ>ご主人、奥さん、奥様 → 「お客様」「お客さん」
  • 保健婦、保健士、助産婦 → 保健師、保健師、助産師
  • 女医 → 男医と対比するときのみ
  • 処女作、処女航海 → 「初作品」「初航海」
  • .......

  • いずれ「弁護師」「司法書師」という時代が来るかも。「女医」は「女性の医者」なんですね。ヒロさんは子供の頃「女の人を診る医者」のことかと思ってました。ついでにバウネットの「女性国際戦犯法廷」は国際的に悪名高い女性戦犯を裁く法廷だそうです。
    posted by ヒロさん at 10:27 | Comment(26) | TrackBack(2) | 言語学&コトバ遊び
    この記事へのコメント
    TITLE: 修正お願いします
    TRiCK FiSH Blogの管理者です。私は、山本康人氏ではありません。山本康人氏は『僕』というマンガの作者です。その『僕』というマンガの書評を書いたのが私です。
    また私は、仕事などの文筆活動では「僕」という人称は、対談・座談会以外では使いません。「私」を使っております。また、そのことにかんしては先のエントリではいっさい触れておりません。
    以上の点、ご確認お願いいたします。
    また、文章の書き手がいかなる人称を使っているかという話ですが、以下記憶だけで書きますが、いま売り『週刊文春』で堀江ナントカさんが、過去10数年分の『週刊文春』の連載陣の人称チェックをしております。おすすめです。
    Posted by TRiCKFiSH at 2005年05月03日 11:20
    TITLE: TRiCK FiSH Blogの管理者さま!
    誠に申し訳ありません。読みが浅かったようです。即、修正いたします。

    「週刊文春」の人称チェックはとても興味深いです。イギリスにいるので、手に入りませんが....知り合いづてに何とか入手してみます。貴重な情報、ありがとうございます。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月03日 11:25
    TITLE: 日本語を母語とする日本人男性の反論
    はじめまして。
    いきなりぶしつけですが率直に申しまして、「始めに答えありき」な展開と、結果としての恣意的な結論、その傲慢で居丈高な要求などから、「田島陽子のタマゴ」との印象を持った次第です。冗談ではなく、本当に田島陽子さんに対するような嫌悪感しか感じませんでした。そこで、このコメントを書く事にしました。

    そもそも一人称の使い分けは、日本語において高度に発達した尊敬語と謙譲語の使い分けからきています。
    学校での古文の授業を思い出してください。昔の公式文書や文学を読む際に、最も高い壁であったのは、尊敬語と謙譲語のバリエーションの豊富さと、用語法の複雑さです。これほどの発達は、世界でも類を見ません。
    歴史的にも、『立場によって言葉を使い分けるのが正しい日本語の用法』なのです。

    さて、あなたの言説は「使い分け=悪」という前提が出発点になっているようですね。
    その根拠は「使い分けによる抑圧」と「一貫性が保てない」ことと「主体性がなくなる」ことだと。
    「僕」という言葉への嫌悪も目立ちますね。これが今回の火種になっているフシもあります。
    さらに、日本人の「男性全般」に対する過度に攻撃的な言辞。
    そこで「抑圧」「一貫性」「主体性」「僕」「男性」の5点に関して、反論させていただきます。

    抑圧に関してですが、
    「公式な立場では『私』を使わねばならない」というルールによって『俺』が抑圧される。それならばいっそ『俺』を廃止すべき……とも取れるのですが、トンデモ大理論というほかありません。
    そうでないならば、使い分けによって抑圧される当のものは、一体なんですか?
    ご参考までに、私は「私」「自分」「俺」を使い分けますが、何ら抑圧を感じません。
    私は騙されているのでしょうか。私は「日本語による抑圧から解放されねばならぬ哀れな日本人男」なのでしょうか?…そうは思えませんが。

    一貫性に関してですが…

    >世界の人口のほとんどは、寝ても覚めても、たった1つの<私というコトバ>で愛をささやき、怒りをぶちまけ、政治を語り、日記を書き、あーでもない、こーでもない、と頭の中で考えています。ある意味で「主体性」があり、「一貫性」があります。

    …との事ですが、例えば、米大統領が「私=I」しか使わないとしても、議会での発言の「I」と、家庭内での発言の「I」と、大学時代の旧友との会話の「I」は、まったく違うニュアンスであるのは容易に想像できます。 であれば、あなたの論理では、「米大統領はIしか使ってないにも関わらず、一貫性がない」となってしまいます。
    つまり、根拠が薄弱で納得できません。
    ですがそれ以前に、あなたのいう「一貫性」とは何なのか、実はよく分からないのです。
    主張の一貫性、ですか?
    態度の一貫性、ですか?
    人格(!)の一貫性、ですか?

    同様に、あなたが「主体性」と言うとき、それは何を指しているのでしょうか。
    或いは「主体性」ではなく、「主体」と言いたかったのでしょうか。
    もし、人称によって「主体」が入れ替わったりしたら、まさに「多重人格」です。すべからく日本人男性は、その母語たる欠陥言語の日本語で内言をするために、多重人格となるを免れない……事実なら、心理学会に発表すべきですよ。
    いずれにしろ、「一人称が一つしかなければ、主体は一つしか有り得ない。一人称を多く持っていると、それだけ主体も多くなる」など、浅薄極まりない暴論です。

    それから、どうやらあなたは「国際派」を自任しているような雰囲気ですが、印欧語的な考えに偏り過ぎているのではないでしょうか。
    私は普通の日本人ですが、外国語(印欧語)に照らし合わせて日本語を改変しよう、という発想自体に違和感を覚えるのです。
    なぜ、印欧語を手本として、日本語を改変しなくてはならないのでしょうか。
    あなたの外国語へのロマンチシズムに基づく誤解と羨望以外の理由が見出せません。
    <長くなってしまった…ので、続く>
    Posted by くに at 2005年05月03日 20:09
    TITLE: 日本語を母語とする日本人男性の反論(続き)
    続いて「ぼく」という言葉への嫌悪ですが、随所に見られますね。
    この一人称は、「僕」という漢字に「しもべ」という読みがあるように、謙譲表現が乗っています。「下僕」や「公僕」の「僕」です。公式の立場で「僕」を使用するのは、必ずしも間違いとは言えないのではないでしょうか。
    また、「僕」という言葉の印象に関して、「甘え」だの「わがまま」だのは「あなた個人が持った印象」に過ぎず、公式の場でこの単語の使用を禁止する根拠にはなり得ません。
    「失言」に関しては、個々の政治家の資質の問題で、日本語や人称云々とは完全に無関係です。よって、やはり日本語の用語法否定の根拠にはなり得ません。

    あなたの「ぼく」嫌悪は、かなり印象的でした。
    全てはこの嫌悪感を正当化するために、歪んだ展開を見せたようにもうかがえます。
    最終的にジェンダーの方に照準をずらしていますが、実の所始めから「反・日本男性」の目的があって、その象徴としての「ぼく」という言葉を貶めるうちに、日本語を母語とする男性全般を言語レベルで否定する論に辿り着いた、というのが本質ではないでしょうか。
    「愛に目覚めることがない」「節操がない」などという標語を掲げ、「石原都知事」に代表される日本人男性がお嫌いなのはよく分かりましたが、ずいぶん回りくどい事をしたものですね。

    以上、ざっと反論を並べてみました。
    ここからは、私が個人的に最も言いたい事です。
    「特定の言葉(表現)の使用を禁止する」のはとてつもない暴力だということです。
    話者への侵害であり、言語と文化と歴史への傲慢不遜な干渉である、という事です。
    言葉狩りが普通になってしまった昨今、人々はこういったことに対して不感症になってはいますが、本来は不当な強制であると認識するべきです。
    言語は、今は亡き無量無数の死者たちが積み上げてきたものです。言葉の中には、今現在に至るまでの、話者たちの歴史が詰まっているのです。そうやって「生成した」ものであって、人工的に設計されたものではないのです。法律を改変するのと同様に考えるべきではありません。
    それを恣意的に改変するというのなら、極めて慎重な姿勢が要求されるべきです。なぜならそれは、歴史と文化の改変だからです。
    私が嫌悪感を抱いた一番の理由は、その重大さを何一つ認識していない軽薄さ故だと思います。

    最後になりますが、日本語を母語とし日本文化を生きる私は、これからも死ぬまで、周囲と自分との関係性を判断し、立場と状況によって「私」と「俺」と「自分」と「I」を使い分けるでしょう。
    私は日本人ですので。
    自分は日本人ですから。
    俺は日本人だからな。
    because I'm a Japanese.
    …そして、どの一人称を使おうとも、本当の意味で私が主体を失う事はないでしょうし、自分の主張の一貫性が失われる事はないでしょうし、俺の人格が変質するはずもないだろうね。
    and I am I, everytime, everywhere.

    異常なまでの長文、失礼しました。「粘着」のそしりは、甘んじてお受け致します。
    Posted by くに at 2005年05月03日 20:12
    TITLE: 「日本語の一人称」で検索したら
    こんなのが出てきたんですけど、ヒロさん、お読みになってます?

    書名:一人称二人称と対話
    著者:三輪 正

    定価:1890円 (本体価格1800円+税80円)
    サイズ:A5判上製 194ページ 刊行日2005年2月 
    ISBN4-409-04070-7 (教養/言語・国語)

    なんだか面白そうなので、読んでみようかな〜と思っています。私の場合、単なる言語学的興味なんですけど・・・

    ところで、私のブログに夫を登場させるとき、彼に「オレ」と語らせるべきか「僕」と語らせるか、いつも迷うんですよ。実際には日本語を使うときには「ワタシ」と言っているんですが、男性の日常会話では一般的じゃないので、そのままだとなんか変だし。
    Posted by ビアンカ at 2005年05月03日 21:27
    TITLE: >ビアンカさん
    「一人称二人称と対話」のご紹介ありがとうござます。見出しを見てみましたが、この本は私が考えていることをきっちり整理してくれている様子なので「買い」です。手に入るのは2週間以上先になりそうですが。2005年2月発行ですから、説明している事例もかなり新しいはずなので、グッドタイミングです。

    外国人のご主人(ご伴侶?)が「ワタシ」を使っているわけですから、「ワタシ」でよろしんじゃないでしょうか。「ワタシ」で話す男性は、ビアンカさんから見て変なんでしょうか?
    Posted by Hiro-san at 2005年05月04日 01:20
    TITLE: くにさん、こんにちは
    くにさん、はじめまして。

    今回の3つのエントリ、すなわち「愛に目覚めることのない、節操のない日本の男性たちへ(2005/4/29)」、「サブカルで、生活サヨクで、相対主義が好きなあなた!(2005/5/1)」、そして今回の「1人称とジェンダーの狭間でゆらぐもの(2005/5/3)」は、いままでのエントリとは「別の自分」「別の気分」で書いております。

    最初の2つは「思いつきを書く連休モード」のようなもので、今回の3つ目は、「(それなりに)徹底的に調べて、できるだけ多くの素材と材料を扱う」という以前からのスタンスにちょっとだけ戻してみました。3つの記事は連続性もありますが、まったくの独立したエントリでもあります。

    特に「愛に目覚めることにない...」はユーモアのつもりで書いたのですが、これは「悪乗り」になり「挑発的」になってしまったようです。で、意図するところは何だったのか、をここで書くと長文になりますので、いずれ「整理した形」で別エントリを立てたいと思います。(お約束はしませんが、たぶん1ヵ月後ぐらいかと) ここでは「意図するところ」の直接の表明ではありませんが、いただいたコメントを使って回答させていただきます。


    >歴史的にも、『立場によって言葉を使い分けるのが正しい日本語の用法』なのです。

    歴史的に正しいことと、現代日本人が今後の日本語にどう向き合うかは、別問題です。

    >あなたの言説は「使い分け=悪」という前提が出発点になっているようですね。

    そのような考えはもっておりません。「使い分けの豊かさ」と「徹底的に同じ1人称にこだわること」の2つのツールを持てば、日本人の言説はさらに豊かになるであろう、と考えております。

    >それならばいっそ『俺』を廃止すべき……とも取れるのですが、トンデモ大理論というほかありません。

    もしそう取ったとすれば、トンデモ大理論ですね。

    >あなたのいう「一貫性」とは何なのか、実はよく分からないのです。

    「世間」や「場の空気」に呑まれたり、流されるこのにない、緊張感をともなった思考、といった意味です。この「場の空気」と「1人称の使い分け」が連動することがあるのではないか、という仮説です。

    >どうやらあなたは「国際派」を自任しているような雰囲気ですが、印欧語的な考えに偏り過ぎて
    >いるのではないでしょうか。

    「国際派」は自認していません。外国語と日本語の比較には興味がありますので、その比較の中で何か提言や発見があれば紹介していこう、という程度です。なるべく世界言語を網羅して考えたいのですが、主に事例として語ることができるのは、英語・スペイン語・ヒンディー語・韓国語ぐらいです。中国語、ロシア語、インドネシア語、アラビア語、スワヒリ語などの事例もできれば取り入れたいのですが、そこまでの才能がありません。

    >外国語(印欧語)に照らし合わせて日本語を改変しよう、という発想自体に違和感を覚えるのです。

    先にも申し上げましたが、改変するのではなく、新たなツールを持つことを提案したいのです。

    >「ぼく」という言葉への嫌悪ですが、随所に見られますね。

    実際はそれほど嫌悪しておりません。それよりも「僕」なしでは「自己主張がうまくできない」男性がいるのではないか、と想像しています。

    >実の所始めから「反・日本男性」の目的があって、その象徴としての「ぼく」という言葉を貶めるうちに、
    >日本語を母語とする男性全般を言語レベルで否定する論に辿り着いた、というのが本質ではないでしょうか。

    それは被害妄想でしょう。「反・日本男性」の目的はありませんし、日本男性はこの世でもっとも愛すべき存在です。

    >「石原都知事」に代表される日本人男性がお嫌いなのはよく分かりました

    私は「石原都知事」のファンです。

    >「特定の言葉(表現)の使用を禁止する」のはとてつもない暴力だということです。

    私も同意します。そういう連中が現れた場合には一緒に戦いましょう。ただし禁止するという意味合いではなく、「差別用語」に関してはジェンダーの視点でもう少し問題提起があってもよいかな、と考えています。

    >異常なまでの長文、失礼しました。「粘着」のそしりは、甘んじてお受け致します。

    いえいえ。過去には制限字数いっぱいで4連続のコメントを書いた方もいらっしゃいます。当サイトは、コメントの字数制限枠が比較的大きめですので、長文も歓迎です。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月04日 02:16
    TITLE: 私の夫は
    日本語で話すときは「私」を使うのですが、それはその他の一人称の存在を知らないためで、「私」を選択しているわけではないのです。それに発音もちょっとおかしくて、「ヴァタシ」のように聞こえます。彼が「私」を使うことに私(ビアンカ)は別に違和感ないので、記事にも彼の使う日本語をそのまま書いてよさそうなのですが、ちょっと困ることがあります。記事には彼のドイツ語発言を日本語に訳して書くことがありますが、母国語を話すときには夫は意識的に言葉を選択して自分らしい喋り方をしているので、「ヴァタシ」的なたどたどしい、いかにもガイジーンという発話ではありません。
    この二つのイメージをどうやって一体化させるか、(ビアンカの中では一体化していますが、読者からみて)難しいです。ブログの中で夫の言葉遣いが男っぽくなったり、忠誠っぽくなったり揺れているのはそのせいです。

    なんだかわかりづらい文章になってしまいました・・・
    Posted by ビアンカ at 2005年05月04日 07:07
    TITLE: どう翻訳するか、ですね....
    なるほど、翻訳の問題ですね。例えば、映画「スターウォーズ」では、意図的にイギリス英語、アメリカ英語が使い分けられていますが、この違いを日本の「標準語」「関西弁」で表現してもいいか、というのは議論の分かれるところ。英語の児童文学でも「上流階級」の英語、「下層階級」の英語が出てきますが、これを「標準語」と「東北弁」で表現してもいいのかどうか。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月04日 16:35
    TITLE: 翻訳者の苦労の恩恵を受けている一人として。
    白衣の騎士団(上)
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4562035064/
    白衣の騎士団(下)
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4562035072/

    コナン・ドイルの歴史小説ですが、
    これは貴族とか騎士(サー)の言葉は標準語、
    で、農民や商人の言葉とかは『〜ずら』とか『〜だべ』みたいに
    訳してあります。でも実際の英語ってどうなのかは知らないんですが。
    若者から老人から、いろんな職業の人々が入り乱れるので、
    かえって日本の一人称の多様さが読む側には有難いのですね。
    ただ、翻訳者の方は苦労されてると思います。

    またこちらの場合は、女性の超能力者とその護衛士の出会いと
    絆を結ぶまでが描かれたFTですけども、

    新たなる春 始まりの書〈上〉―時の車輪外伝
    ロバート ジョーダン
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150203717/
    新たなる春 始まりの書〈下〉―時の車輪外伝
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150203725/

    主人公モイレイン(英語ではムアレインと読むらしいのですが)
    の一人称が「わたくし」で無ければ、
    異能者の雰囲気や元々は貴族の娘だった雰囲気が出ませんし、
    護衛士になるランの一人称は「それがし」です。

    原作の性質や作者のこだわりを読み取らないといけないので、
    大変なお仕事なのだと思います。
    しかし、名訳を出すと翻訳者にもファンがつきます。
    Posted by 枇杷 at 2005年05月04日 20:46
    TITLE: 「ゲド戦記」の1人称はいかに?
    (さすが!の)枇杷さん、いつもお世話になります。

    >若者から老人から、いろんな職業の人々が入り乱れるので、
    >かえって日本の一人称の多様さが読む側には有難いのですね。

    児童文学を読んだり、storytelling(物語のお話し会)を聞いていて思うのですが、英語ではあらゆる会話に 「"......," she said.」のように誰が言ったかをくっつけますが、日本語では男女、年齢、職業にまつわる「口調の差」によって「話者」が自明になる場合が多いですね。

    >主人公モイレイン(英語ではムアレインと読むらしいのですが)
    >の一人称が「わたくし」で無ければ、
    >異能者の雰囲気や元々は貴族の娘だった雰囲気が出ませんし、
    >護衛士になるランの一人称は「それがし」です。

    なるほど、ですね。ヒロさんもあやかって「わたくし」の採用も検討しようかと...。
    「ゲド戦記」の登場人物の1人称はどうなのでしょうね。ゲドはやはり「わたしく」でしょうか?
    Posted by Hiro-san at 2005年05月04日 22:34
    TITLE: 納得への過程
    どう見ても非友好的なコメントに対してご返答下さり、感謝しています。
    …以前からちょくちょく貴ブログをROMさせて頂いてたのですが、今まで冷静に意見を披露していた人が、突如として特定の集団に対して不確かな仮定に基づく無謀な要求を振りかざし始めたので、無視できなかった次第です。
    実はユーモアでしたとか、あの『要求』のエントリは思いつきに過ぎませんでした等、「フタを開けてみれば見事に釣られただけ」の私はこれ以上関わるべきでないかも知れません。が、一連のエントリに疑問を持ってしまった以上、ある程度の納得いく答えを見出したいと思い、再び筆を執った次第です。

    遅ればせながら、他の方々のコメントを全部読みました。
    一連のエントリの内容は、突き詰めると「かかしA」さんが言及していた
    「『私』という理性的なモードをひとつ用意しなさい」
    という一文に集約できるように私には思えます。
    >改変するのではなく、新たなツールを持つことを提案したいのです。
    とありますが、前述の「理性的なモード」がそのツールだと解釈して正しいでしょうか。
    これは、私も共感できる解答だと思っています。

    全く返答が得られなかった「抑圧」に関しては、「今後のエントリで展開する予定の内容」と受取らせて頂きます。

    >「世間」や「場の空気」に呑まれたり、流されるこのにない、緊張感をともなった思考、といった意味です。この「場の空気」と「1人称の使い分け」が連動することがあるのではないか、という仮説です。
    …「複数の一人称を使う事で、話者の主体の多面性が鮮明に出る。或いは主体の多面性を使い分けるのが容易になる。」という見方であれば、よく分かります。

    一般的日本人の特徴として、「徹底的に理詰めで思考し主張する事を避け、情緒的・文化的解決に頼ってしまう傾向が多く見られる」事は、私も経験しています。
    問題は、これが果たして「複数の一人称を持つ事によるものなのかどうか」です。
    仮説だったようですので、これを検証する有効な事例が提出される事を期待しております。
    <またしても続く…申し訳無い>
    Posted by くに at 2005年05月05日 05:08
    TITLE: 納得への過程(続き)
    <続き>
    >それよりも「僕」なしでは「自己主張がうまくできない」男性がいるのではないか、と想像しています。
    …「僕」によって自己主張ができるのならば、それはそれで「僕」は有益であると思うのですが、なぜ「僕」で自己主張してはいけないのでしょう。
    例えば、私は「美容整形手術」を否定はしません(好き、とは言いませんが)。生まれ持った要素のせいで暗かった人生が、ちょっと手直しするだけで見違えるように明るくなれるのならば、それは「その人にとって」何よりだからです。他人がどうこう口を挟むことではないからです。
    で、仮に話者が「僕」という方法によって主張できるなら…。と考えるのは間違っているのでしょうか。そこから先は話者個人の領域だと思うのですが。

    >歴史的に正しいことと、現代日本人が今後の日本語にどう向き合うかは、別問題です。
    …との事ですが、今、そのような方向性で、日本語を改良する必要性と、切迫性が感じられません。
    要するに「そもそも需要がないものを、ムリヤリ押し付けようとして、躍起になって火種を作っている」ように見えてしまう、と。実際に「僕」を使っている人々の多くは、「余計なお世話だ」と言うのではないでしょうか。
    必要性があるとすれば政治や論壇ですが、例えば常任理事の論戦云々について、一般的に日本の不利は、歴史や国際法の知識不足、ディベート技術の不足、「戦略」という概念が完全に欠如していること、から来ると思われます。
    ですがそれらと複数の一人称との関連性は、立証されていません。

    >竹下登や森喜朗(いずれも元首相)みたいな発言を翻訳しても、グシャグシャで意味がない。
    実際、彼らの話に問題がある点には同意します。ですので、それを訳してもグシャグシャなのも、想像できそうです。
    しかし、その後に自動翻訳の話も出ていますが、「翻訳の労を軽減するために全日本人の日本語用法を変える」というアクロバティックな展開は、首をかしげるほかありません。
    何故なら、意味不明瞭な言い回しは彼らの「個性の問題」と思われるからです。(個別に論じられるべき問題であり、日本語という枠で取り沙汰されるべきでない、ということです)

    こうして全体を見てみると
    複数の一人称が主体の多面性を表出させるのではないか、という『問題提起』は理解できますが、
    その問題が、自己主張を不能にするという『仮説』につながり、
    仮説が証明されないまま、飛躍して怪しげな『結論(一人称を統一せよ)』に行き着く。
    その不可解な構成こそが、私の納得のいかなさの主因だったようです…。

    貴ブログでの分析の試み自体を否定しているのではありません。
    謎のベールをサッとはがすような、今後の展開を楽しみにしています。

    またしても長文、誠に失礼致しました。(連休の特産品です…)
    多分いちいち返答するのは、とても疲れるし時間を食うと思います。ですので返答が無い場合は、今後のエントリの推移を以って返答に代える、と理解致します…。誓ってひねくれた解釈は致しません。
    ありがとうございました。
    これにてROMに戻ります。
    Posted by くに at 2005年05月05日 05:15
    TITLE: 指輪とゲド戦記
    とりあえずちらっと見た感じです。

    ゲドは「わたし」でほぼ統一でしょう。
    登場人物女性(身分高い人)&登場人物が目上の人に対して話すときの一人称「わたくし」、
    老人は「わし」、あとカラスノエンドウ(登場人物)は「おれ」。

    指輪ですが、瀬田訳で。
    フロドとビルボは「わたし」。ガンダルフは「わし」。
    「わたくし」は目上の人に対して話すときと、大勢の前でのスピーチで。
    ピピン(フロドの旅の連れ)は「僕」、ホビット族「おら」「わし(老人)」、
    エルフは「わたし」。

    …大体は、その人物の持っている性格であてはめている感じです。
     あとはTPOで「わたくし」「わたくしめ」みたいな風になってます。
    Posted by 枇杷 at 2005年05月05日 11:57
    TITLE: 考える人の角度が関係するのでしょうね。
    「新しい日本語を作る会」人称代名詞の統一

    これは見て、個人的にはひきました。「わたし」と「わたくし」の使い分けはあると思うので。
    私は、一人称が多様であって一向に構わないと思うほうの人です。
    ただし、その一人称が使う人の個性や社会的な役割、そしてTPOを間違えてなければ。

    ご参考までに、美輪明宏氏は著書「天声美語」(講談社刊)でこう書いておられます。
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062101815/

    『何も考えずに使っていたら、ついぞ気づくことはないでしょうけど、日本語は、ものすごく美しくて進歩的な言葉なんです。だって、英語でいうところの"ミスター"と"ミセス"、"サー"とか"レディ"に該当する言葉がないでしょう。結婚したから"ミセス"で結婚していないから"ミス"とか、位が高いから、尊称の"サー"とか"レディ"と呼ぶとか、そういう前時代的な偏見もないのです。
    誰に対しても平等に"さん"や"さま"。若かろうが年よりだろうが、男であろうが女であろうが結婚していようが、していまいが、"さん"と"さま"だけでフォローできてしまう。まさに、今のボーダーレス時代にぴったり。
    それなのに、日本語は複雑で繊細です。たとえば一人称。英語なんて"アイ、マイ、ミー"の組み合わせだけ。でも、日本語は"私"を伝える言葉がいったいいくつありますか?僕、我輩、小生、俺、わたし、わたくし、あちき、わらわ……。そこに助詞が加われば、本当に豊かで美しい表現が可能になっていく……。「主語+動詞」と決められた英語とは違って、文法も自由。助動詞や副詞、助詞が複雑にからまって、さまざまな組み合わせが楽しめる傑作な言語なんです。それを使いこなせないのは、あまりにももったいない。』

    こういう考え方をしている方もおられます。たしかに他の言語との互換性はつらいのですがね。
    Posted by 枇杷 at 2005年05月05日 12:24
    TITLE: 枇杷さん、おおきに
    ゲドは自分の本当の名前を明かさないときでも、常に「わたし」なのですね。そうですか。

    印欧語にくらべて「日本語は....」と語る方がいますが、お隣の韓国語と日本語は、統語法(シンタックス、文法)がほとんど同じです。1人称2人称の種類も多様です。男女差も顕著です。きっと「韓国語は、日本語とは比較にならないほど、美しく、進歩的で、高度で、敬語が発達している言語です」と主張しそうですね。

    人称問題では、韓国語も調べたいと思います。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月05日 22:30
    TITLE: そういえば韓国語では
    私は韓国語をよく知っているわけではないのですが、韓国語を聞いていると日本語の男性の「私」と女性の「私」というのは違うんだなと思わされます。
    韓国では(少なくともソウル周辺では)男性も女性も友達や年下と話すときは自分のことを「ナ」、目上の人と話すときは「チョ」です。
    初めて聞いたときに「ナ」を勝手に「俺」に対応する単語だと思い込んで、女性も「ナ」と表現する事にすぐに気づき、日本語の一人称とは対応しないと結論付けました。
    考え方のスイッチを切り替えて韓国語側から日本語を見ると、日本語話者の男性にとっての「私」と女性にとっての「私」は同じ形だけど別の意味の単語だともいえると思います。

    それと韓国語の人称代名詞ですが、それほど多くないと思います。
    ヒロさんが私より韓国語の知識が豊富であったらお恥ずかしい限りなのですが、私の知る限りの情報です。
    私も韓国に来て疑問に思い人に聞いてみたのですが、
    一人称がナとチョ。「自分」という漢字語も会話の流れによっては使われるそうですが常用する人は居ないそうです。
    二人称はダンシンとニ。これは日本語の「あなた」クラスの単語すらなくて、ダンシンは夫婦間での「あなた」、ニは目下に向かっての「お前」くらいに相当して日本人ですらたまに表現に困ります。ヨーロッパ言語を母語に持つ人にとっては相当な苦痛だと思われます。目上には「ソンセンニム(先生)」、相手が自分の所にやってきた場合は「ソンニム(お客様)」と表現する事も可能ですが、いつでも可能なわけではないのがつらいです。
    三人称は構成法が日本語と変わらないような気がするのでほぼ同じでしょうか「ク サラム(その人→彼・彼女)」「ク ニョ(その女→彼女)」
    一人称のナとチョ、二人称のニに関しては付随する助詞によって本体部分の母音まで変化するので形は違うのですが、あくまでも原型は一つです。


    蛇足ですが印欧語でもイタリア語などは動詞の変化に頼るので英語のIやYouは主格には現れませんよね?たしかロマンス語の祖語のラテン語が元々語順が自由で、膠着語の助詞の代わりに語尾変化を使うような言語だったと思うので、ラテン語一家の長男のイタリア語はその影響を色濃く残しているのだと思うのですが。
    イタリア人にとっての"io"というのはイギリス人やアメリカ人にとっての"I"と果たして同じなのでしょうか?
    Posted by Takel at 2005年05月06日 08:23
    TITLE: Takelさん、アンニョンハセヨ?
    おはようございます、Takelさん。NHKラジオ講座4月号レベルのヒロさんです。

    来週また韓国人の家に遊びにいくので、人称問題を徹底取材するつもりでいたところでした。男女差は、日本語とは事情が違うようなんですね。そうですか・・・。日本語でも、拙者、漏れ、小生、のように頻度が低い1人称もありますから、それに該当する韓国語がないのかどうか、興味があります。

    私が冗談で韓国語を披露するときは「チョヌン・ヒロ・ラゴハムニダ」(私はヒロといいます)で始めますが、その後につい「タンシンヌン(あなたは)....」と話したら、それ、おかしい、と(やっぱり)言われました。韓国語では日本語よりも「あなた」の使用頻度が低いような気がしてますが。

    英語の<I>は欧州言語の中でも特殊で、1人称が常に大文字で書かれるのは英語だけです。(これは小文字で<i>にすると読みづらいから、という事情のようです) ラテン語から派生したスペイン語、イタリア語の<yo>や<io>は、「私はね、....」と強調したいときだけに、意識的に使いますから、日本語の<私>に似たところがあります。一方、英語・フランス語・ドイツ語は、ありとあらゆる自分の表現に<I><Je><Ich>がつき、無意識化しています。フランス語は、強調するときに「Moi, je ....」がありますから、ややスペイン・イタリア語に近い。

    他の言語はどうなんでしょうね。ドイツ語はどうですか、ビアンカさん?
    Posted by Hiro-san at 2005年05月06日 09:55
    TITLE: 「わたし(男)」と「わたし(女)」は、同音異義語か
    >考え方のスイッチを切り替えて韓国語側から日本語を見ると、日本語話者の男性にとっての
    >「私」と女性にとっての「私」は同じ形だけど別の意味の単語だともいえると思います。

    これはとても面白い視点ですね。たまたま発音が一致した「別のことば」という考え方は、新鮮です。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月06日 10:20
    TITLE: こんにちは
    こんにちは、
    50歳の中小企業の社長です。
    私の会社では従業員は全員、男女の別無く「私」を使います。
    別に私が強制するわけではありません、当然のこととして仕事では「私」です。
    これは、日本の社会では標準ではないのでしょうか?
    理性的な場である職場では当然「私」を使うものと思います。
    もちろんメーカーの若い営業マンでは「僕・俺」がたまにおりますので、私もそのように育てられたものですから、「私」だろう、とやんわりと注意をします。
    それよりも、お得意先の商店主において、「僕・俺」がたくさんおられます。
    彼らが付き合うのが職人さん達なので、仕方ないとは思うのですが、「僕・俺」を使われる方にクレームが多いのは、ある種、民度かなあ、と思わざるおえません。
    やはり「私」を使えないと会社社会では通用しないのではないでしょうか。
    そういう意味で日本人も公の場では「私」を使用した思考をしていると思います。

    ちなみに、私は東京生まれの東京育ちですが、大阪に3年住んでいました。
    そのため、嫁さんと喧嘩して感情が高ぶってくると、思考が関西弁になり、関西弁で怒り出します。
    冷静な思考には標準語が適していますが、感情的な場面では方言でないと感情を上手く表現できません、標準語はとても使いづらいのです。
    Posted by まもおじさん at 2005年05月06日 14:22
    TITLE: まもおじさんの「理性」モードと「感情」モード
    まもおじさん、こんにちは。

    私はバイリンガルの人たちの「理性モード」と「感情モード」に着目しておりました。私の友人の女性は、英語とヘブライ語の完全なバイリンガルですが、ヘブライ語で話しているときは「情動的」「情熱的」だけれども、英語は「距離を置いた感じ」があるといいます。これは1)言語そのものが原因なのか、2)その言語を使ったときの生活体験なのか、3)それ以外なのか。

    インドではよく街中で口論の激論が起こります。私が目撃したのは、ホワイトカラーの男性と人力車引きの男性との、凄まじい口論でした。北インドですので、多くの人が英語とヒンディー語のバイリンガルです。議論ははじめ英語で始まり、ホワイトカラー男性が途中より優勢に立ちました。ところが、何かのきっかけで突然ヒンディー語に変わり、今度は力車引きが、もの凄い巻き返しとなり、最後はそのまま押し切ったかのようでした。

    感情モードで議論をすると「墓穴を掘って負ける人」もいますが、逆に「押し切って優位になる人」もいます。ですから、日本語で「理性的な<私>を1つ持つべき」が正論かどうか、もう少し考えてみる必要があります。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月06日 23:57
    TITLE: 「私」で議論できない人は、社会で通用しない
    >「僕・俺」を使われる方にクレームが多いのは、ある種、民度かなあ、と思わざるおえません。
    >やはり「私」を使えないと会社社会では通用しないのではないでしょうか。

    これは「僕」擁護派の方々には、聞き捨てならない発言ですね。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月07日 00:04
    TITLE: 遅くてすみません
    わざわざご返事ありがとうございます。
    家庭サービスと仕事で返事が遅れました、申し訳ありません。

    我々は方言(感情語)と標準語(理性語)のバイリンガルではないでしょうか?
    私は標準語で育ったのですが、下町育ちなので「ひ」と「し」が怪しいときがあります(ヒロさんはシロさんですね)父は「私」が「あたし」になります。
    純粋な下町町人言葉の丁寧語(落語の言葉じゃありません、あれは下品です)を聞いたことがありますが、それは美しい言葉でした。今、残ってないのが残念です。
    私は下町言葉が話せません、それが残念でしたが、大阪に修行に行っている間に自分の感情語として大阪弁を取り入れてしまいました。より残念です。
    さて、ヒロさんの御友達ですが、私は 1)言語そのものが原因説です。
    御友達がどちらの方かわかりませんが、英国の方とすると、私の標準語が英語・大阪弁がヘブライ語になるのではないかと思います。
    私は標準語が母語なのに、大阪弁の感情表現の豊かさに負けて大阪弁を感情語にしてしまいました(いまいましい!下町言葉(コックニー)を話せたら大阪弁に染まらなかったのに!)
    現代の英語も、標準語のようにみなが使用する言葉(公的、社会へ話す)として、去勢されているのではないでしょうか? 自分の感情を託す言葉(私的、身内へ話す)としては洗練されすぎてしまっているのではないでしょうか? そこら辺が「距離を置いた感じ」(生活感に欠ける)という表現になっていると思われます。
    また、感情語も理性語もそれを主言語にしている人が強いので、感情語で怒る私に、嫁さん(埼玉生まれの埼玉育ち、方言無し)はいつも勝ちます。

    まあ、共通語として理性的な「私」を持っては欲しいと思います。
    それは男も女もいえる事で、俺、僕、のブログは読みたくないですよ。
    ヒロさんが男と思われていましたが、「私」を使った冷静な語り口がそう思わせていたので、凄腕の標準語使いだと思いました。(英語の影響か?)
    つまり、標準語を使いこなせば男女も越えるということで、ジェンダーフリーにまで話が行きそうですが、私には力不足なのでこの辺で失礼します。

    私はヒロさんの語り口のファンで、お話をいつも楽しみにしています。
    昔、女優の沢口靖子が標準語のせりふを稽古してて、休みになった時「ああしんど」とつぶやいたそうです。
    生まれ育った方言(感情語)がある人がうらやましいです。
    ヒロさんはどちらのお生まれなのかな?
    Posted by まもおじさん at 2005年05月10日 15:34
    TITLE: まもおじさんへ
    私の生まれは東北です。地元のコトバは、どうやら理性語にも感情語にもならず、郷里語・家族語という別枠になっています。連れあいは関西ですが、お互いに(基本的に)標準語しかしゃべりません。

    日本では関西弁はもう1つの標準語なのでしょう。JR西日本の記者会見で、堂々と関西弁で質問(糾弾)する記者がうらやましい(いまいましい)。私の語り口はどんな特徴なのでしょうか? 本当は関西弁でも書きたいのですが、すぐにボロが出るので控えています。私の感情語は「〜なんじゃよ!」というパターンが多いような気がします。
    Posted by Hiro-san at 2005年05月11日 09:11
    TITLE: おおお!さらに展開してたんですね
    ボヤボヤしているうちに、みなさんの興味深い見解がこんなに!うわぁ〜!

    えーと、ドイツ語の場合はヒロさんが仰るようにichは無意識化してると言えるのですが、ドイツ語の文章は語順がある程度自由で、「わたしはりんごを食べた」を「りんごを食べた私は」としても構いません。ですから、どの語を文頭に持ってくるかで意識化のレベルも変わります。あと、くだけたメールでは主語は省略することも多いです。これは英語も同じですよね?

    その他の言語の情報ですが、タイ語の「私」は男性がポム、女性がディチャンないしはチャンです。しかし日常会話では「私」を使わずに、「ビアンカは」とやることが多いようです。その文化的背景についてはわかりません。

    アラビア語で「あなた」は「アンタ」だとどこかで読んだ記憶があります。インドネシア語では「Anda」ですね。日本語と似ていて面白い。でも、このAndaは広告文で見かけた以外、会話で使われているのを聞いたことはありませんでした。敬称や呼称を二人称として使っているようです。(はっきりとしたことはわかりませんが)

    長くなってすみません、「感情モード」についてですが、私の場合はちょっと違います。普通に話すときには「標準語」、悪態をつくときには「北海道弁」、まくしたてるときは「ドイツ語」というふうに自然と切り替わっています。子供を叱るとき、「何をやってるの。だから早くしなさいと言ったでしょ」というような単純なたしなめのときには、「なにやってんのさ!だからはやくしれっていったべさ!」となりますが、「おまえのしたことはこれこれこういう理由でよくないのだ」ということを急いで言いたいときにはドイツ語でなければダメです。日本語だと感情の噴出に論理的な言葉の選択がついていかず、怒りだけが空回りして、「だから・・・ダメって言ったらダメなのっ!!」とのびたくんのママのようになってしまう。それでは説得力がないので、ドイツ語でベラベラベラッといきます。

    以上、参考になったでしょうか。

    TBしたのですが、やっぱりダメみたいです。なんで?
    Posted by ビアンカ at 2005年05月11日 10:31
    TITLE: 私見ですが、韓国語では
    お招きに預かり、やって参りました。 ほほー、なかなか興味深い議論ですね。

    私は大阪生まれの大阪育ちですので、日常の感情表現は断然大阪弁です。東京に1年ほど赴任していたこともあり、NHKの真似をして標準語をしゃべることもできますが、やはり疲れます。 一人称については、仕事では「私」、プライベートでは「俺」しか使いません。子供の頃は「僕」だったのですが、中学生の頃「俺」に切り替えたのは、五木寛之の「青年は荒野を目指す」の中の「僕、僕って言ってると世間知らずのお坊ちゃんみたい」というセリフに影響されたためです。

    さて、韓国語の一人称は「ナ」と「チョ」ですが、「うちの家族」「わが国」というように複数になると、「ウリ」になりますね。日本語が単数形と複数形にこだわらず、「私の国」などと言ってるのに比べ、割と厳格です。

    二人称は本当に難しい。「タンシン」「ヨボ」は、夫婦間の呼び名という説もあり、滅多に使いません。友達や目下の者には「ノ」で良いのですが(「ニ」は方言)、仕事の場合は「ソンセン」とか、名前で呼ぶことが多いです。 「ミス金はどう思いますか?」という具合に。教師が生徒を、上司が部下を呼ぶ場合は、「金君(キムグン)」って感じでしょうか? 商店の店員などでしたら、「アジョシ」「アジュマ」「アガシ」などが無難でしょう。 あとは肩書きですね。「李社長ニム」「朴教授ニム」とかの立派な肩書きなら、相手も喜びます。

    三人称は、ク(彼)、クニョ(彼女)、クサラム(あの人)などが一般的ですが、「チョヤンバン」(あの両班: 日本語なら『あの旦那』くらいの感覚か?)、「イチング」(この友達: 日本語なら『こいつ』くらいの感覚か?)、「チョジャシク」(あの野郎)だとか、「お宅では(テゲソヌン)」などが面白いと思いました。 最後に、これは私の韓国語を話す場合に持つ個人的な感覚であり、学問的価値はないことをお断りしておきます。
    Posted by Venom at 2005年05月17日 11:46
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